哲学日記

嘘つきは、どんな罪でも犯せる人間だ。

スマナサーラ長老 パティパダー巻頭法話No.130より引用させていただきます。
…この世の中のことを考えると嘘が全ての不幸の原因になっていることは明白です。経済的、政治的な不安は皆互いに嘘を付いて騙し合っているから起こるのではないでしょうか。
嘘をつくというたった一つの罪を犯す人に犯せない罪はありません」と仏陀が語られます。(ダンマパダ 一七六)と言うことは「嘘をつかない」と決めた人は一つの道徳を守ることで全ての道徳をまもることになるのです。理由はどうであろうとも、他人に事実を隠して嘘を付いて騙すということはその人を侮辱することなのです。相手にしていないことです。人間として平等に観てないことです。人権侵害です。「嘘は方便」ですか。嘘は決して方便にはなりません。方便というのは理解能力がある人が相手に簡単に難しいことを理解してもらうために使用する方法なのです。漫才、マンガ、音楽、踊り、ゲームなどを使用して様々なことを教える場合は方便です。方便は相手に理解してもらうためのmethodology、方法学なのです。嘘は方便ですというのは、嘘をつきたい人々の我が儘な言い訳です。自分が無知であると認めていることなのです。無知な人、能力のない人、インスピレーションに欠けている人なら嘘は方便だと思って人を騙すでしょう。嘘は猛毒のように見て、避ける方がよいことなのです。自分だけではなく他人も幸福になります。嘘を避けることは利他行なのです。
[引用終]

 

 

 

 

嘘は、どんな理由があろうと決してついてはならない。
たとえ戯れにでも嘘をついてはならない。


というのがブッダの教えだとおもう。
面白がって悪意のない嘘をついたラーフラにおこなったブッダの説法は簡明で非常に怖いものだった。


ラーフラを叱ったブッダのことばを載せておきます。

(ターン・プッタタートHP『ヤシ殻の底についている水』より引用させていただきます)

パーリ仏説 中部チュララーフローワーダ経 13巻123頁126項

ラージャカルハに近い竹林精舎で、自ら足を洗われている時に、呼びつけたラーフラに



「ラーフラ。この器にわずかに残っている水が見えますか」

「見えます。ブッダ様」

「ラーフラ。嘘と知りながら嘘を言って恥じない出家の、出家者である意味は、この器の底に残っている水のように少ししかありませんよ」

 ブッダは(わずかしかない水を捨てる仕草で)その水を注いで捨てて言われました。

「ラーフラ。今捨てた水が見えたでしょう」

「見えました、ブッダ様」

「ラーフラ。嘘だと知りながら嘘を言うことを恥じない出家の、サマナである意味は、この器についている水のように少ししか残っていません」

 ブッダはその器を伏せて言われました。

「ラーフラ。伏せた器が見えるでしょう」

「見えます。ブッダ様」

「ラーフラ。嘘と知りながらわざと嘘を言って恥じない出家の、サマナである意味は、伏せた器についている水くらいしかありません」

 ブッダはその器を上向きして、言われました。

「ラーフラ。水のない食器が見えるでしょう」

「見えます、ブッダ様」

「ラーフラ。嘘だと知りながらわざと嘘を言って恥じない出家は、器に水がないように、サマナである意味はありません」

「ラーフラ。嘘と知りながらわざと嘘を言って恥じない、下賤な行動はあってはなりません。あり得ません。だからこのことについて、『私たちは誰も、偽りを言わない。たとえ冗談でも』と注意しなければなりませんよ、ラーフラ。あなたたちはこのように注意しなさい。ラーフラ。鏡は何のためにありますか」

「鏡は映して見るためにあります。ブッダ様」

「ラーフラ、すべてのカルマも、鏡のように映して良く熟慮して見て、それから体と言葉と心の行動に移さなければなりません」

[引用終]
 
 
 哲学者カントもまた「どんなときでも絶対嘘をついてはいけない」と言っていた。

それに、同時代の思想家バンジャマン・コンスタンが文句をつけた。
たとえば、友達が殺し屋に追われて家に逃げこんできたとする。探しにきた殺し屋に「自分の家にいない」と嘘をつくのは正しいと。人の命を危機にさらすような相手(殺し屋)に真実を知らせる必要はないと。

カントが反論し「本当の事を言っても、それから殺し屋は探し始めるのだから、まだ逃がすだけの時間的余裕がある」などと説得力の乏しいことをいって(まで)相手が誰であろうと、嘘は道徳的に正しくないので、絶対言ってはいけないと、主張したと。

さすがはカントだとおもった。

 
いや、わかってるよ。子供じみたことを言うカントを自信をもって嘲笑するのが、1000人中999人の反応だってことは。

それでも、正しいのはカントのほうで、バンジャマン・コンスタンと世間の常識が浅はかなのだと、おれはおもう。


ちなみに、B・ラッセルがコンスタンとまったく同じことを主張しているのをずいぶん昔に読んだ覚えがある。賢者ラッセルさえこの始末だ。

 ブッダもカントも非常識なことを強弁している世間知らずと決めつけるのが、世間の常識だ。

しかし、世間というのは「嘘も方便」がブッダの教えだとおもっているくらい我が儘で浅はかなものなのだ。
 
嘘について、真に深く正しいことを教えているのはブッダとカントだとおもう。

 

 [同日追記]

「窮余の嘘」「人助けのための嘘」「必要悪」「嘘も方便」を一切認めない、このブッダとカントの真に深く正しい教えを、世間が理解する日は来ない。

世間は、聞く耳を持たないその頑なさによって、まさに世間であり続けられるからだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs) 
 
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