(アルボムッレ・スマナサーラ著「ブッダの教え1日1話」1/28より引用します)
葬儀に参列して、故人が安らかに天国に行けますようにと祈るとき、死ぬことは自分に関係ない他人事だと思っています。
けれども、「自分もこのように死ぬのだ」と念ずるようにすると、
確実な変化
が訪れます。
(以上、引用終。強調は私です)
確実な変化が訪れることはない。
なぜなら
他人事だと思ってるから。
こんな話は聞き飽きたと思ってるから。
「自分もこのように死ぬのだ」と念じないから。
死など念じるとたちまち暗い気持ちになり、大損するだけだと強く確信してるから。
だから、死ぬまで
(自分だけは死なない)
という根底的暗さから自由になれない。
この不滅の魂という根底的暗さこそが諸悪の根源だ。
太古以来止むことのない殺し合いのダイナモだ。
「宇宙は不滅の大生命で、私はそこから絶え間なく出たり入ったりしている無数の小生命のひとつである。死とは大生命に帰っていくことであり、また戻ってこれるのだから、恐れることはない」
非常に多くの人たちが、これをブッダの悟りだとおもっている。
あほらしこっちゃ
これこそが迷いなのだ。輪廻なのだ。苦そのものなのだ。
そして、そうとはっきり知ることが、悟りに至る唯一の入口だ。
皆、はなっからブッダとはバッチリ正反対向いてるから、進めば進むだけ能率良く真実から離れてく破目になる。
梵我一如は、インドなどで昔から広く信じられ、今や世界の隅々まで遍満してる教えで、
永久不滅全能唯一絶対神(大我)
と
個々の不死の魂(小我)
は一緒という主張だ。
大我と小我、いずれも我に過ぎず、
それが一如だとて何の意味がある?
妄想2個の串団子。
これで「悟り」なら、世界中聖者だらけだわ。
梵我一如はブッダの悟りでも教えでもない。
ブッダはすべての我を虚妄と見抜いた。
死を忘れた人たちは、恐ろしい罪を犯す。
死を忘れた人たちこそが、平気で人をいじめ、殺し合いをする。
「人類は、自分たちの死を忘れる必要に迫られて文化をつくった」という意味のことを言った哲学者がいた。ブッダの教え以外の全ての宗教も、そういう意味では文化に過ぎない。
天国で永遠の命を得るとか、不滅の大生命が自分だとかは結局
「わたしたちって死んでも生きてるよね!」
と言いあって、死を忘れようとする文化的営みだ。
もう一回ゆーけど、
あほらしこっちゃ
(My Favorite Songs)
「ツンデレ」
♪だって 私 ツンデレ!
心の中 いつだって
甘えたいのよ デレデレ!
だって 私 ツンデレ!
か弱さなんて 隠して
一人で生きて行けるって
見かけだけは ツンツン
二重人格を愛しなさい
やさしい言葉は ムリッムリッ!
虫酸が走るの イラッイラッ!
上から目線で ノーノー!
生意気なのは 生まれつき♪
(こんな女、誰が相手にするんだよ!)とおもうな。
デレまでたどりつけない。
AKB48 - Tsundere! ツンデレ! ~AKB48 10th Year Anniversary Performance~ 劇場公演 151208