もう40年近く昔になるが、当時の自分の考えをまとめたものの中に、バガヴァッド・ギーターに関連して、こう書いてある。
自然的人間は、自身その一部分である自然の生きんとする衝動を肯定し身をゆだねる。
子供から大人に成長しても、昔は無自覚でしていたことを今は自覚的にするくらいのことだ。
自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが自然的人間の人生の究極の形である。
自然の盲目の意志さながらに激しく喜び激しく苦しむ野心家の生きざまが自然的人間の人生の究極の形である。
彼らはときに口では否認しても心底では常に野心家の人生にあこがれている。
興業的に成功する映画がほとんどすべてといっていいほど野心家の生きざまを描いたものである理由はここにある。
野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」になる。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。
野心家は、個別性の迷妄を打ち破るにしたがって「正義の人」になる。
この傾向が大詰めまで進むといかなることになるであろうか。
(ショ-ペンハウアーの主著「意志と表象としての世界・正編」第六十二節。[以下62と表記する]西尾幹二訳・中央公論社)から引用させていただきます。
ある人が他の個人と異なっていることとか、他の人が背負っている苦悩を自分は免れているといったことは、現象の形式、「個体化の原理」にもとづくことにすぎぬ。事柄の真の本質からみれば、人は誰でも生きんとする確たる意志であるならば、いいかえれば全力をあげて生を肯定しているのであれば、世界のありとあらゆる苦悩をわが身の苦悩とみなすべきであるし、それどころか今後起こり得るすべての苦悩をも、わが身にとって現実的な苦悩であるとみなさなくてはなるまい。
(「意志と表象としての世界」より引用終)
この境地こそ、生きんとする意志をあくまで肯定する地上的道徳の最高形式である。
この感情が宇宙大に拡大されて、小宇宙たる自分のエゴが実は大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。
この感情が宇宙大に拡大されて、小宇宙たる自分のエゴが実は大宇宙たる自然の大いなるエゴと一如であると理解するとき、人間は「意志の肯定」の最高段階まで登りつめたことになる。
精神は自力的知的努力だけで、じつにこれほどの高みにまでたどり着くことができる。
ウパニシャッドの聖仙たちは、この大宇宙こそ真の自己であると如実に悟ることのできた場合は究極的かつ絶対的自由を得ると主張している。
しかし、この段階でも「生きんとする意志がその内部において背負わされている自家撞着」61 に対する充分深刻な反省や批判はまだ現われてはいないのである。
『バガヴァッド・ギーター』の神クリシゥナが、戦闘を中止しようとためらうアルジュナ王子に、迷うことなく殺戮を続けるよう説得するくだりで見せる一種冷血な楽天性は、このことを証拠立てている。
(引用終)
まだ、理解が足りず、その迷いが表現をあいまいにしていたと分かる。
今なら、もっとハッキリ言えます。
たとえば、当時こう書いていること。
バガヴァッド・ギーターは、自分の我を捨て神クリシュナの大我と一体化し、神の義務(殺人)を遂行せよと説いている。
これ、なんのことか分かります?
バガヴァッド・ギーターをでっちあげた
人間達
が、
権力者に「殺せ」と命令されたら、
ためらわず実行しろ
と、
絶対神を僭称して
命令しているに過ぎない。
今なら、こうハッキリ書きます。
(My Favorite Songs)
ディオンヌ・ワーウィック。
「恋よ、さようなら」
「恋よ、さようなら」
顔はちょっとゾマホンなんだけど、歌声は最高にスイート。このギャップがかえって魅力的。