数年前、仏教ブログ瞑想以前。やコマメディア ー史上最弱の仏弟子 コマメーで紹介してくれてるプラユキ・ナラテボー師の法話の中で、ブッダに
我具足の教え(健全な我を具足すること)
があることを初めて知って、わが意を得た気持ちになった。
世間に流布している仏教というと「我を捨てよ」的お説教のみ一方的に強調されているのが、おれは絶対変だとずっと思ってた。
最初から我を捨てよ我を捨てよでは、仏道修行などできるわけがないからだ。
世間に流布している仏教というと「我を捨てよ」的お説教のみ一方的に強調されているのが、おれは絶対変だとずっと思ってた。
最初から我を捨てよ我を捨てよでは、仏道修行などできるわけがないからだ。
※我具足 仏道修行に必須の七具足のひとつ
おれは初出2014/11/21の記事
【自己をわすれる前に、ちゃんと自己確立しろ】
で、悟りを目指す準備段階として「自己の確立」が必要不可欠だと書いた。
「自己の確立」は、本来無い自己を立てるのだから、矛盾ではないかとか、最終的に消える(ないし最初から無い)「自己」をわざわざ起こすのは迷うための苦労でないのかとか言う人がいる。
そういう人は、言葉の字面に迷ってるに過ぎない。
戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。
自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわすれるもない。
そういう人は、言葉の字面に迷ってるに過ぎない。
戦後生まれの日本人が子供のころから教えられてきた西洋的文脈でいう自己確立の内実は
「自分は、今までぼんやり生きてきたが、これからは人間として自覚的にしっかり生きていこう」
と決意することだ。これは、仏教が昔から説いてきた「菩提心を起こすこと(発菩提心)」と同様の心理状態だから、言葉にとらわれない限り、矛盾は何もない。
自己確立抜きの無我の教えは唾棄すべきものだ。
自己確立もできない者に、自己をならふも自己をわすれるもない。
プラユキ・ナラテボー師の「手動瞑想」
最初からあまり細かいセンセーションに集中しない。最初から細かくラベリングしようとしない。集中は必要だが、集中し過ぎると(実は焦って集中しようとしての空回り状態)続かなくなり、元も子もなくす。
「理屈はいいからとにかく坐ってみ」とか言われて、漠然と身体を坐禅の形にしてボーとするのも、初めからやらずに見てるだけより、ずっと良いことだが、
そもそも瞑想や坐禅は何のためにやるのか…
そもそも瞑想や坐禅は何のためにやるのか…
瞑想は「今ここ」に目覚めるためにやる。
仮決めでいいから、一応間違いのない狙いを憶えておくのは、努力が空回りしないために必要なことだとおもう。
…いや、こんなこと種々伝えてもね、現実世界をつぶさに観察するとね、
大多数の人は、この「今ここ」を蛇蝎のごとく嫌ってるし、無常、苦、無我も蛇蝎のごとく嫌ってる。つまりは、仏法の神髄すべてを蛇蝎のごとく嫌ってんだよ。ある意味見事に、辻褄は合ってる。古今東西、この上なく頑固に首尾一貫した生き方を、彼らなりにし続けてる。
世間の99%の人は、この世で「欲望満足ゲーム」をいつまでもやり続けたいので、解脱(二度と生まれない)など1ミリも望んでない。大嫌いな「今ここ」から必死に逃げまわり、六境六根を無上の楽と信じ夢中で貪ってる真っ最中だからだ。文字通り顛倒 の衆生。
これは、ブッダですら当初布教を断念したほど、最低最悪の事実です。
(My Favorite Songs)
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(過去記事増補編集再録)