(ブッダの真理のことば ダンマパダ67,68 中村 元訳)から引用させて頂きます。
もし或る行為をしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
もしも或る行為をしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
(引用終)
悪の定義、善の定義です。
(同69,71)から引用させて頂きます。
愚かな者は、悪いことを行っても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。
しかしその罪の報いの現れたときには、苦悩を受ける。
悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)
その業は、灰に覆われた火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。
(引用終)
文脈は違うが、聖書の次の言葉を連想した。
(マタイによる福音書7・16~18より 新共同訳)から引用させて頂きます。
茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。
すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。
良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。
(引用終)
人間は、思うさま良いことも悪いこともなし得る。
しかし 究極の正義は一瞬たりとも空しくなることがない。
いかなる法律や道徳よりも、厳密で正確無比の
自業自得果の法則
があるからだ。
善因善果・悪因悪果・自因自果で、
ごまかしは一切通用しない
ということだ。
(曹洞宗 修証義 第一章総序)より引用させて頂きます。
因果の道理歴然として私なし
悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。
(以上)
賢明な悪人は存在しない。
無知により、悪を悪じゃないと思い込んでいたり、 これは悪だが報いなどないと自分勝手に強く信じても、悪の報いを軽減することは一切できない。
無知は人を助けず破滅させる。
無知は懺悔を妨げるからだ。
だいいち、悪人は瞑想できない。
これこそ人生最大の損失なのだが、
悪人は気づけない。
(時たま、提婆達多のように、力ずくで瞑想してしまう変な悪人もいるが、凄惨な結果を招くだけだ)
悪人とは「ごまかしは一切通用しない」という事実が分からない愚者だ。
(明恵「栂尾明恵上人遺訓」)より引用させて頂きます。
人は常に、浄玻璃の鏡に、
日夜の振る舞いのうつることを思うべし。