哲学日記

六祖の独創的『四弘誓願』

 六祖慧能禅師の『四弘誓願』に関する独創的提唱。
自分が自分を自分で信じきることを称揚しているとおもう。


ターン・プッタタートの著作および翻訳『六祖壇経』第六章 懺悔について

より該当部分を引用させていただきます)

 

…『四弘誓願』の仕方を教えます。みなさん、注意して善く聞いてください。

1.自分の心の中に無限にいる、衆生を救ってください。
(自心衆生無辺誓願度)

2.自分の心の中の無限の煩悩を断たせてください。
(自心煩悩無辺誓願断)

3.自性の尽きることのない教えを学ばせてください。
(自性法門無尽誓願学)

4.自性の無上の仏道を成就させてください。
(自性無上仏道誓願成)

 みなさん。大家(優れた人)も道に外れます。「無限にいる衆生を彼岸に渡してください」というのは、私、惠能が衆生を渡すという意味ではありません。みなさん。心の中の衆生とは、いわゆる邪心、迷っている心、狂妄心、不善心、嫉妬心、悪毒心などの衆生を、自性で自分を渡します。これを本当の救い(真度)と言います。

 「自性が自分を渡す」というのは何のことでしょうか。それは自分の心の中に邪見や煩悩、愚かな疑いなどの衆生を正しく見て、救うことです。既に正見があるので、般若の智慧を使って愚疑迷妄の衆生を討ち破って、各自が自分を救います。邪が来たら正が助け、迷が来たら解が助け、愚が来たら智が助け、悪が来たら善が助け、このように救うことを本当の救いと言います。

 また、「無限の煩悩を断たせてください」とは、自性の般若智を使って虚妄の考えを除去することです。また「尽きることのない法を学ばせてください」は、自分の本性を見て、常に正しい法を行なうことを本当に学ぶと言います。また「無上の仏道を成就させてください」というのは、既に心が本物の行ないをしていれば、迷いを離れ、悟ることからも離れれば常に般若が生じます。真も妄も除けば、それが仏性を見ることです。それを仏道を成就したと言います。常に修行と考えることは、法を願う力になります。みなさんは今、四弘誓願をしました。更にみなさんに、『無相三帰依戒』を教えましょう。



 みなさん。「覚(悟り)」に帰依することは仏であり、「正」に帰依することは法であり、「淨」に帰依することは僧です。今日からは悟った人を師と呼び、邪や悪魔や異教に帰依しません。自性を三宝とし、常に自分で証明し、善い知識を勧め、自性三宝に帰依します。仏とは覚めることであり、法とは正しいことであり、僧とは清浄なことです。

心が覚に帰依すれば、邪な迷いは生じず、欲が少なく、足ることを知り、お金や色事から離れることできるので、人間の中で最も尊い(両足尊)と言われます。心が「正」に帰依すれば、いつでも邪見や卑しさがないので、我がなく、上に貢ぐこと、貪や欲や執着が現れないので、これを離欲尊と言います。自分の心が清浄に帰依し、煩悩や愛・欲・境・界が自性を染めないこ とを、衆中尊と言います。

この修行を行なうことは、自分に帰依することです。愚かな人には、三帰依戒を受け入れることが理解できません。仏陀に帰依すると言ったら、仏陀はどこにいるのでしょうか。仏陀が見えなければ、何を頼拠り所にするのでしょうか。その言葉は却って妄言になってしまいます。

みなさん。善く観察してください。心を間違って使ってはいけません。経は、仏陀に帰依すると明言し、仏陀以外に帰依すると言っていません。自分の仏陀に帰依しなければ、帰依する所はありません。良く分かったら、自分の心の三宝に帰依しなければなりません。内は心の性を探し、外は他人を敬うことが、自分に帰依することです。
(引用終。強調付加はわたしです。原文にはありません)

 

 

 

 
 
 
 
 
 
(My Favorite Songs) 
 
ザ・テンプターズ。
「忘れ得ぬ君」

テンプターズで、この曲が一番好きだった。「神様お願い!」「おかあさん」とか、あざとく感じられて嫌いだった。
 
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