佐々木閑 仏教講義 7「阿含経の教え 3,その22」(「仏教哲学の世界観」第10シリーズ) - YouTube
世界は永遠である
世界は永遠でない
世界は有限である
世界は無限である
生命と身体は同一である
生命と身体は別個である
如来は死後生じる
如来は死後生じない
如来は死後生じながらしかも生じない
如来は死後生じるのでもなく生じないのでもない
この10個の誤った見解を質問形にすれば、そのまま、かの有名な「十無記」になる。
後半4つは一昨日の記事で、すこし違う観点から取り上げました。
十無記は、
世界に比類なく勝れたブッダの教えです。
(中部第63 小マールンキャ経 毒矢のたとえ 桜部健訳より引用させて頂きます)
ブッダの言葉。
人は死後存在するという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなことはない。 …
人は死後存在しないという考え方があってはじめて、人は修行生活にとどまるであろうというようなこともない。
人は死後存在するという考え方があろうと人は死後存在しないという考え方があろうと、まさに、生まれることはあり、老いることはあり、死ぬことはあり、悲しみ・嘆き・苦しみ・憂い・悩みはある。
現実にそれらを制圧することをわたしは教えるのである。
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。
何ゆえにそれ[人は死後存在するか否かなどの問題]をわたしは説かないか。…
これは目的にかなわない。
修行のための基礎となるものではない。
世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だたない。
このゆえにそれをわたしは説かない。
これは苦であるとわたしは説く。
これは苦の生起する原因であるとわたしは説く。
これは苦の消滅であるとわたしは説く。
これは苦の消滅に進む道であるとわたしは説く。…
何ゆえにそれをわたしは説くか。…
これは目的にかなう。
これは修行のための基礎となる。
これは世俗的なものへの嫌悪・欲情から離れること・煩悩の消滅・心の静けさ・すぐれた知恵・正しいさとり・涅槃のために役だつ。
このゆえにそれをわたしは説く。
(引用終)
ブッダの無記
世界は永遠であるのか
世界は永遠でないのか
世界は有限であるのか
世界は無限であるのか
生命と身体は同一か
生命と身体は別個か
如来は死後存在するのか
如来は死後存在しないのか
如来は死後存在しながらしかも存在しないのか
如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもないのか
以上、十無記という。
これらの議論を、有害無益であると明確に制止したところに、人類の慈父・ブッダの比類なき知恵と慈悲が現れてる。
これらの問題は、どうにでも考えられる、というレベルから出ることができない。
限りある貴重な修行時間の徒費という致命的な結果をまねくだけだ。
わたしが説かないことは説かないと了解せよ。
わたしが説くことは説くと了解せよ。
に関して、ブッダの「森の落ち葉のたとえ」があります。
スマナサーラ長老法話をお聞きください。⇒22分40秒辺り
理性ある人の選択――危機に瀕した人類が目指すべき勝利|スマナサーラ長老の初期仏教法話
結論は、
苦聖諦を学んでのみ
得ることができる
特別の活力で
ヴィパッサナーを
実践する。
この一事だ。
サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。
(過去記事統合増補編集再録)