我があれば死もある。
この事実にはっきりと気づくことが仏教の入り口だ。
大多数の人々は口先で「そんなこと当然だ」と言う。しかも我と死が両立できないことにも無意識だが気づいている。
それなのに次の自然な一歩
「ということは…我というのはなんかへんだぞ」
とは夢にもおもえない。
おもえないのは、死の事実を受容したふりで不正直にごまかしているからだ。
本心は口先と反対に「我がある。だから死はありえない」と、初めから破綻した考えに凝り固まっている。死の否定できないことは自明だからだ。
大多数の人々は、我そのものを疑うという逆転の発想ができないために追い詰められた結果、背に腹はかえられぬ切実が事実も道理も押しのけてどんな無法でも通してしまう。
すなわち(自分だけは死んでも生きている)と妄信する。
不滅の魂や大我や唯一神やらはそのための道具に過ぎない。
この自分で建てた妄信の壁に阻まれて、ブッダの教えは処世訓のレベル以上わからず、ヴィパッサナー実践の意味もかたきしわからないのでやる気も皆無。
もっともこれはこれで無理のない話だ。「邪に育った心は、自分で自分に仇敵のように振舞う」というブッダの言葉どおり。
死ぬその人がいなければ、死もない。
サッチャカアッギヴェサナは黙ってしまい、三度質問されて、
「そうではありません。ゴータマ様」と答えました。
アッギヴェサナさん。良く考えなさい。善く考えて言い直しなさい。あなたの後の言葉は、先の言葉と合わず、先の言葉は後の言葉と合いません。アッギヴェッサナさん。形は無常ですか、無常ではないですか。
「無常です。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。無常なものは、苦を感じさせますか、幸福ですか。
「苦です、ゴータマ様」。
無常で苦を感じさせるものは、当たり前に変化します。それを自分のもの、自分、自分の実体と、このように見るべきですか。
「見るべきではありません」。
アッギヴェサナさん。あなたはどう思いますか。このような事態の時、あなたが苦に襲われ、苦に至り、苦に沈んでいる時、あなたはその苦を、「それは私のもの。それは私。それは私の実体」と見ますか。
「それは、そうではありません。ゴータマ様」。
アッギヴェサナさん。心材を求める人が鋭い斧を持って心材を探しに森へ行き、その森で、まだ若くて芯のない、真っ直ぐで柔らかい大きなバナナの木を見つけます。彼はそのバナナの木の根元を切り、先端を切り落とし、それから外皮を剥きますが、そこで外皮を剥いても、辺材さえ見つからないように、心材など見つかるはずがありません。
(普通の)目のある人がそのバナナの木を見ると、絶妙の熟慮をして見ます。その人が絶妙の熟慮をして見ると、そのバナナの木は当然空っぽの物であることが分かり、心材のない物だと分かります。比丘のみなさん。バナナの木に心材があろうはずはありません。
バナナの木のくだりは、この文脈ではアッギヴェサナの主張の空虚さを譬えたものです。
しかし、アッギヴェサナなんてあほの事はどうでもいい。
この優れたバナナの木の比喩は、実体のない「我」を譬えたものとして味わったほうがずっと良い、とおれはおもいます。
この身体は自分ではない。バナナの木が外皮の寄せ集めでできているように、どこにも自分は見いだせないと。
「そうだ、この身体は自分じゃない、不死の魂こそ自分なんだ!」
(My Favorite Songs)
ユーリズミックス。
「スウィート・ドリームス」
EURYTHMICS - SWEET DREAMS = are made of this : 》 TOP OF THE POPS 1983