(【真理のことば】ダンマパダ21 中村 元訳)より引用させていただきます。
つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。つとめ励む人々は死ぬことが無い。怠りなまける人々は、死者のごとくである。
(同 22)より
このことをはっきりと知って、つとめはげみを能く知る人々は、つとめはげみを喜び、聖者たちの境地をたのしむ。
(引用終。強調は私です)
「気づき」が抜け落ちれば、その時の自分は死ぬ。
気づきを保持すればその間だけ正に生きている。
「気づき」だけが真実の本物の自分だという発見!
ブッダが「死者のごとくである」と断じたのは、正に気づきのない人間の状態のことを云っている。
真実の本物の自分がいない抜け殻状態だから、
当然死人に等しい。
ヴィパッサナー実践の成就には、片時でも気づきなしでボーッとするのは死に匹敵する恐ろしいことだという、切実な感覚を養うことが必要だ。
このことをはっきりと知って
とは、そういう意味だとおもう。
そして気づきを安定して保持する絶え間ない努力を喜びたのしむ境地に至れば、ヴィパッサナーを成就したといえる。
いまだこの境地に程遠い残念なおれだが。
※サティ
「瞬間の現在(今・ここ)」に気づくこと。
※ヴィパッサナー実践
「瞬間の現在」に気づき続けること。サティをキープすること。
ヴィパッサナー実践の持続には特別な活力が絶対必要だ。これなしでは3分続けるのさえ不可能だ。
この特別な活力が生まれつき備わってる人は稀だが、そうでない大多数の人々も苦聖諦を学ぶと得ることができる。
だから、瞑想者は、最初、漠然と瞑想するより、自身に起こっている四苦八苦という具体的な事実に完全に厭気がさすまで、はっきり気づくことを最優先すべきだ。
(My Favorite Songs)
ライオネル・リッチー。
「Say You Say Me」