野良の仕合せ 不仕合せ

取敢えず私的メモ用とします。少しでもお役に立てるようならお気軽にどうぞ! 文責ハンネ「宇留之祢」で参ります!

秈(うるち)も “今は昔“かも

2022-11-11 15:18:48 | お~ぃ風

不耕起栽培のコーナー (カテゴリー)「土壌っ子」を作りましたので、その宣伝がてら、土壌っ子を作った意味もココに合わせて載せてまいります。 土壌っ子はプロ向きでなく・無論プロでなく、アマチュア・家庭菜園ですので高級農具を5号やソコ等の鉢で使える筈もないのはご理解いただけると存じます。販売店のなかには山5つも持ってるかと誤解なさってらっしゃる店員さんを多く見かけますので、お恥ずかしながら当方の事情を申しのべておきますね。それではよろしくお願いいたします。

 

最近では大手のメーカーから普通に糯麦(もちむぎ)が売り出されているらしい。それを知ってビックリしました。ぇ?情報のキャッチが遅すぎる?じっさい、そのとおりに違いありません。いえ、びっくりしたのは情報の遅さでなくて、糯(もち)は餅に搗いて晴れの日にお供えする食べものですからね!日本の先人は普段の日のお供えと晴れの日のお供えを区別して暮らしてたと思っていたから、晴れのモノを普段用にしている現代の美意識の変化に驚いたと云うほうが当たっているかも。

人さまの宝に興味を持ったところで隣りの花は赤く・餅は甘いに違いありませんから仕方ありません。普段用の糯はヨソ様用として、私のうるちの意味は御馳走でなく普段用でもう十分で、大昔に伝わった秈(うるち)を旨く育てられたら良いなあと。それで野山・荒地で元気に育つ秈麦を念頭に置いておりますから、もしも此処でご馳走をイメージなさってらっしゃると無駄なお時間をとらせてしまいますので、ひとこと添えさせていただきます。普段を平穏に過ごすために「秈麦」を育ててみたいのです。

荒地と言ってもアメリカ他、外国の農家を真似て良いモノでないのは当然ですが、地虫・細菌・酵母菌・微生物・ウィルスや草・木などに限らず、獣・爬虫類・鳥類・人間も含めて、日本には無数の生物が昔から数多く生きている。それらを無視して外国の益虫やコンパニオン植物を導入する気分には到底なれず、身近なモノたちと共生していくべきと、これが家庭菜園に欠かせない心構えかも知れないと(もちろん間違いの恐れが高いとも)、思っておりますが、プロの方々との違いは明白ですね。

プロは均質な品物、最低限の味の保証、買いやすい万人向きの品から高級な味・珍味・希少価値だけでなく、運送に都合がいい同量・同サイズを作りださなければならず、それらは計画生産にも十分に耐えられなければなりませんから、私たち素人相手とは異なって、あらゆる要求角度にもビクともしない生産体制・販売体制・配送体制など数々の要求に応えることが求められていると思います。なにもかも基準が異なるプロとアマの違い。プロの牙城に近づくことさえ畏れ多く思われる昨今かも。

ともあれ、素人の家庭菜園であると自覚するだけでなく、素人「土壌っ子」の感覚は私のような存在を云うのです、とお知らせしておくのはお互いの害にならないのでないかと、そんなことを思っております。素人ゆえにプロの誘いにウッカリ乗って近づく人は私だけでなく多いようにも思います。単品1つでも気持ちよく売ってあげるという、そのような小売り店は少なくなっているようで、業者さま大歓迎の大型店は単品買いの客のせいで売れ残りの品のアリサマはお気の毒に思われてなりません。

 

簡単ですがご挨拶まで。あくまで素人ですのでお手柔らかにお願いいたします。拝。

文責・宇留之祢)


今は麦だが昔も麦だろ(後)

2022-11-07 12:14:25 | お~ぃ風

粳(うるち)と糯(もち)の二種がある、いや三種? これまでの文の流れに導かれる結果、このように疑問が湧いてきて自然ですよね?いやいや、押し麦の味の不味さでつまづいた、のみならずに母まで辛い目に遭わせた私だから想像するのかも知れない。 糯(もち)に付いては言うに及ばず、いやいやココは言うに及ぼう!かつて糯麦という言葉は聞いたことがない。だが今後は分らない。押し麦にしなければ・・裸麦のままなら美味しいのでないか?そんなことを思っている私が在るからです。

どうしてそんなことが云えるのか?じつは縁あって手に入った裸麦の種籾を食べたのですが、この裸麦がナントなんと甘味だけでなくて粘り気まで感じるのです。これは私の願望から生れただけの単なる気のせいなのか⋯? それでの文字を観察すると硬い気がするのだが、裸麦を炊いて噛むとコチラはどうだ、現実に硬さを覚える。硬さがあってもソレを上回る美味い味があるから私は気にならない。しかも、裸麦に押し麦の不味さは少しもない。この程度ならバイオ技術で解決する課題と想えないか?

バイオの助けを借りるとなると営業農業の独壇場であり、家庭菜園の素人は手出しできなくなる筈だが、そんなこと気にならない私の都合を申せば、山奥の水が少ない地形であっても栽培可能な裸麦なんだと知っているからです。人類に実益をもたらす糯麦栽培に大きな魅力を感じるし、私の趣味で育てる鉢植え栽培の麦籾が生みだす微利益などは論外だ。うるちは初めと書き、秈の俗字としてが使われだした。秈は稲の一種で、米の粘り気の少ないものと古書にある。の正体は実にだったんだ!

過去、粳米秈麦のことだった。だから私たちが平日に食べている米は秈(粳)でないことになる。こんなにややこしいことになったのはどうしてなのか?その訳は已むを得ない事情があっただろうことは学者でない私にも分かる。今は令和です。それだけの簡単な理由があったのは間違いありません。映画「荒野のセブン」を私は観たから分かるが、価値ある米は奪われる時代!「これは美味いよ」等と言いふらすお人よしの日本の国だったら疾うに消えてなくなっていた。私にはそう想えるのです。

当時の日本の為政者に知恵・先見の明があったから美味しい麦は奪われずに済んだ。いやいや、まったくの作り話、無責任なホラ話と思っていただいたほうがあなたは恥を掻かなくて済むでしょう。私の夢のなかの物語に過ぎません。ともあれ、気分直しにでも使えるようなら、この後も気軽にお読みになってくださいね。粳稲と書いて「こうとう」と読んだようですから、「うるち」の読みは無かったかも。東南アジアの米の形は日本のと異なりますし、あれは水稲で「秈」と書くのは無理ですよね。

糯米で「餅」を作りますし、餅は正月用のメデタイ「晴れの日」のご馳走ですから話の前後の辻褄はどうやら合うように思われて、「どやぁ」と胸を張りたい誘惑にかられますが、アナタが乗せられてはお気の毒ですのでココは遠慮しておきます。うる➜粳➜イネ、アワ、キビなどの中で、炊いたとき粘りけの少ない種類・・これは新明解国語辞典からの引用ですが、その時々の人々に支持された流行語も載せますから、どちらが良いというのでなくても比較しなければ見えないモノはあるようです。

裸麦の発芽に今トライしておるところですが、水に浸けたものを蒔くべきか、そのまま蒔くべきか、そんなことも素人であれば知らずで、上手く発芽しただけで儲けものと思っております。自然の山のなかで発見した(?)秈(うるち)の稲であれば可能なかぎり自然の状態に近づけておきたいなと、その程度の知識の持ち合せしかない筆者・宇留之祢で、此の記事が、初心者かベテランか、とにかくどなたかの成功譚が世に出る切っ掛けに成れたら愉快だな・・そんな想いで私の記事は始まっております。

運よく発芽したときは糯麦(もちむぎ)の記事を改めてあげたいと思っております。ここまでお付き合いくださった方がたに心からお礼をもうします。有り難うございました。

 

そうそう、追記しておきます。(前)の記事中に、粳米の美味しさとの比較と書いた「粳米」は「一般米・平日米」とでも呼ぶべき米でしょう。糯米(もちごめ)は晴れの日用のご馳走で、市販されている米には糯米と一般米があって、市販されている米に粳(うるち)があると私には思えません。拝。


今は麦だが昔も麦だろ(前)

2022-11-06 22:21:34 | お~ぃ風

記事の初め:2022年11月06日 00時14分19秒

今、読んでいる最中の不耕起栽培の本の題名土を育てる」・・その副題に「自然をよみがえらせる土壌革命」とあって、執筆者の律儀な人柄が想像されて勝手に悦に入り、勝手に楽しみ、勝手に好きになって終いに此のブログの文責名をあやかって宇留之祢うるしね、あるいはうるちねと読みます)にしてしまった。ハンネ程度でここまで騒ぐか?と思われるかも知れませんが、腑に落ちないままでは次への展開が上手く進めそうにありません。ともあれナニゴトも興味が湧いてこそ始まりますからね。

私の漢和辞典とはそれなりに長い付き合いで、それが幸いしているか分りませんが、昭和39年初発行。発行所は合資会社⋯そんなの今どきありませんからね。調べたところ人気のあった字典などを追加印刷して販売してる? ふざんぼう(冨山房)の詳解漢和中字典。なにが良かったか?古い価値に出合った…私の思い違いか知れませんが、初版本のおかげで時代の流れを観たのかも。もしかして「不耕起の神さま」の贈り物かも。いやいやホントに私は底なしの能天気なんです。お恥ずかし。

 

(後半を続けさせていただきます。2022年11月6日 20時30分~)

それにしても知れば知るほど深みに嵌まっていきますね。それは私の場合も皆さまに後れを取らないかも知れず、見込み発車になるのを承知の上で先へ進まなければと思ってそれで、こうして書いております。私の身体の反応を見ておりますと麦は不味い物と感じておるのは間違いなく事実です。口の中に入れた瞬間、ぱさぱさパサついて舌も口も固まってしまって喉に流し込むどころでなかった覚えがある。

あれは健康体でなければ食べられるモノでなかったと云うのは私の実感ですが、勿論、あれと云うのは麦飯のこと。その麦に比べれば芋などは極上のご馳走の味がして、留守番していてナマで食べたり。おかげで世間で不味いと評されがちな人参ほか野菜類も美味しく食べられたのだろうと思いますが、当時の母の苦労を知らないから無責任なことを好きに言えるのだろうと近ごろでは自分もそう思う。

それにしてもどうして麦はあんなに不味いのか? もちろんこれは粳米の美味しさとの比較ですから勝負は初めから着いていたと言いたいところ。だがしかし、その認識がそもそも誤まっていたのでなかったか?そんなことを「詳解漢和中字典」のページをめくりながら思ったのはどうしてか? 麦は不味いという一点で私に共感なさる日本人は多いかも知れませんが、近ごろは麦の味そのものを知らない日本人が多いかも知れない。

いやいや、当の私が麦の味を知らないのでないか? こんなふうに自分の記憶が変わっていくのを味わえるのはすこしもイヤなことでなく、むしろ幸せな経験と云える訳で、自分自身の変化を見れるのは愉快な経験をしているのだと思います。ああ、あれは勘ちがいだったとなってもそれで損するモノでなく、様ざまの多くの経験のなかの1つが悪いモノである筈はもちろんありませんから、そのへんは能天気な性格がプラスに働くのかも知れませんよね。 

色いろ思われたから「新明解国語辞典」を押(し)麦で引いた。幼児の私が嫌ったの正体は押し麦だったことは粒の形状に明らかですが、麦は平たいと思いこんでいた訳で、ダレかが見物していたら滑稽に見えたことでしょう。伴侶は私にない知識を持っていてそれで優しく教えてもらえたのですが、おかげでこの問題に今後出合っても恥じを掻かずに済む。おぼえたてのうん蓄をお披露目すると、湯通ししたか、湯掻いたか、つまりその裸麦を押し潰して平たくした。知ってるって? あは、スミマセン。

茹でた裸麦を押し伸ばして平たくして、それで味は変らないか?今はそんなことを考えているところですが、どうでしょう?炊いてふっくらした米飯は甘いが、冷えるとすこしだけ劣化して味気ないかも。あの現象は粳米に特有なのか?糯米は元もと甘さが強いから搗いて丸めて冷やして固まっても、焼くか煮るかで美味しく食べられる。これは粳と糯の違いが大きいと思う。粳(うるち)と糯(もち)・・私の文責ハンネ「宇留之祢」・・うるしね/うるちね。結局、宇留之うるち粳 ➜ 粳麦!

 

今回で終わる計算だったのですが、時間が経って疑問が増えて、それで「前・後編」に分けます。おやすみなさい。


染まる宇留之祢!

2022-11-03 18:53:08 | お~ぃ風

三重県名張市「宇流志祢神社」の名前に宇流志祢の文字が入っておりますが、ここへ辿り着くのに苦労しました。神社だけで貴くて、さらに「」が名張の土を肥やしているようでもっと嬉しくなります。じつに多くの人たちの様ざまの想いの結晶が土地の発展へ向うところで大輪の花が咲くような、そんなことまで想われております。

宇流志は「」から来たのかなと勝手に想像しておりますが、大阪で「杭」といえば当然ですが「杭全神社」ですからね、杭に非の打ち所は元々ありません。なんのための杭かと想えば、宇宙を支え、天を支え、屋根を支え、私を支えている有り難い杭。この理解でおそらく外れていないと思いますが、いかがでしょうか?

中国から日本にやってきた漢字ですが、日本の先人たちは渡来の文字に磨きをかけて更に更に光らせる努力をしてきた。そのようなことまで想われると「宇流志祢」「杭全」などの名称にもその努力の片鱗がうかがえるのではないかとも。漢和辞典に「」の字はあるが、中国のサイトにはこれが皆目分らない。

日本で創られた字との証言はいっさい見当たらず、中国でもない日本でもない国の漢字?そんなこと有っても不自然ではなくて、東南アジアにも韓国にも漢字文化が入っただろうし。ま、語源の問題は今は置いておいて、県立広島大学 生命環境学部の研究で日本の古書に「」「宇留之祢」がある。どうして私のパソコンでは直に辿りつけないのか?

 

これは私のパソコンの問題か?どこへも堂々と行けるパソコンなのに?「ハテ?」となるのは当然ですね。もしか文字化けなのか?広島大学のパソコンと私のパソコンの間で文字化けが起きるか?私の能力ではココまでしか解明できない。ほかに文字化けが起きるとしたらナニがあるか、これ以上、素人の私では皆目わからない。ハテサテ。

仮にも文字化けを起してる私の記事だとしたら?読んでも誰も真っ当に理解できない。もちろん、GOOの事務局には文字化け状態の判別は出来るだろうから、私の登録メールにクレームの一報も入れるに違いない。それでも文字化けが起きてるとしたら?疑問はこうして繋がって、いずれ行き着くところへ行きつく筈。相性もあるのだろうし。。

 

ともあれ私のこの執念が宇留之祢・宇流志祢・杭全へと導いたことは確かであれば、些細な他人のことはどうでもいいのです。このブログ名の下に「私的メモ用」とお示ししてあるとおりです。ともあれ、このあと本来の課題に戻って「」まで進めてまいります。と云えば? 不耕起栽培ですからね。私には重要な急所になります。

巨樹の「」が田畑の土中に埋まっていたならどうします?大概のお百姓さんは取り除くでしょう。そんなものが埋まっていたら計画栽培に差し障りがあって、たちまち経営の行詰まりの運命をみますからね。計画栽培は緻密な計算の上に成立している事業ですから、整然とした軍隊のような動きが計算され尽くしているだろうと理解しております。

十年一日と申しますし、昔おぼえた杵づかと申しますけど、その形・やり方こそが理想の近代農業のようにも思われますが、それでなければ作物ごとの計画生産は有り得ませんね。不耕起栽培でも計画生産を計画している筈ですが、その実現は未だ遠い先になると思われますが、農業関係の研究所では微生物を飼い慣らす方向で動いているようだからもしかしたら!

私のケースだと「杭」でなくて木の枝ですが、育ちすぎた果樹の幹や枝などを素人の私でも可能な大きさまで細かく手鋸で挽いて、あちこちの水のなかとか隙間とかに放っております。大き目の鉢の底へも埋め込んだりして大概は失敗ですけど。木の株はやっかいですから組み立て鉢に埋める方向に自然と進んだかな。その点、草の株だと割りと簡単に想える昨今。

なんでか分りませんし、誤解かも知れませんがよりが容易に想える。「秈」は偏で稲などの漢字に含まれていて、口当りは軟らかで、味は美味しく舌に優しく想われて、私でなくても大概の日本人の好みに合うのでないだろうか。それはさて置きを中国・繁体文字に訳すと「」で、死去・逝去・除去・退去などのイメージは避けられない。

に稲・穀物・藁・芒などの意味がある。に生えるのは芒に限るまい。豊かな水に恵まれた日本の風土に合わせるなら秈より宇留之祢が相応しそうだし、宇流冨志祢へと想いはどこまでも高く舞い上がったかも知れない。富(ゆたか)は遥かな宇宙まで、それには永遠につづくれを創らなければなるまい。

日本の土地にまり、また留守をあずかる生きた人も、亡くなって守る人の魂・も尊ばれる国にしなければなるまい。そう思ったとするとその人たちはモチロン尊い人のお手本として不足がないと思う。宇宙船に乗る人はもちろん尊いし、後ろで支援する人・社会が有ってこそ宇宙の果てまでも飛んでいける私たちです。には道を外れず永遠に貫こうとの意・心が込められていると思う。

誰もにとしての資格・尊さが具わっているとなれば、日本人同士がいがみ合うのはどうしたものか?いやいや、そんなチッポケなものじゃない!世界の人たちが手を繋いで支えあう社会を創っていくなかでこそ、日本人は永遠に未来を目指せることになる。は世界の始まり、そして人間の始まり、そして一人一人が創って始まる世界へと向かう。の想いに染まればこの程度は軽い軽い!


不耕起~微生物の家

2022-10-31 21:06:21 | お~ぃ風

日本では過去の経緯から「不耕起」より「自然農」の言い方のほうが馴染み深いと思う。只、幅ひろい範囲に及ぶ言葉「自然○○」と言われると具体性に乏しくなりそうだ。自然動物園だの自然植物だの自然食だの、あるいは自然体だの自然人だの話題性のある言葉や表現に兎にも角にも群れるのが人間でなかろうか。

それで私の心は不耕起栽培に惹かれているが、自然農の先駆者にすればそんなこと少しも珍しい言葉でないだろう。それで後発組の私の関心は不耕起栽培の先覚者が発見した知恵に学んで微かでも世界の安全・安定を邪魔しないようにしたい‥それだけ。それで不耕起の意味は微生物の棲み処を壊さないことに尽きる。

ボクサーが体重を短期間に減らすのは健康にどう影響するか分らないが、暴飲暴食に明け暮れていると人体内に住む微生物の生活環境を壊している恐れが多分にあるに違いない。そのような環境破壊は農地の場合も言えるようで、つまり耕起は、人体で云えば内臓を取り出し陽光で乾し、風に当てるようなデタラメ手術。

これまでの農業は科学的に計算し、化成肥料を施し、農薬で害虫を排除することで一定の効果を得てきた。不揃いでなく、見映えのいい、甘い美味しい味に仕上げた野菜は世界中の人々の人気をあつめてきたのだから、需要を満たす商品を提供しようとすると自然農ではとてもとても叶わない相談というほかないだろう。

それにしても問題は食だけに止まらないと云えそうで、絶妙なバランスの上に成立っている太陽系であり、地球であり、私たちの生活環境であれば、科学的に野菜や肉・魚介類の代替品を作れるからと甘く考えて済ませているのは考えもの。未来人はフラスコや密室で生きられると嘯いていられる筈もない。

例えば原爆を落とし合えば、オゾン層が壊れて取返しがつかなくなる程度のことは今どきの大人は考えつかなくても、今どきの小中学生は理解するに違いない。ここまでの読後感を私の想うままに書いている。無責任な内容かもしれないが、あたらずと云えども大きく外れるとも思えない。