「怒りのエッセイ」
私は、バカ親父と父方の親戚は全員大っ嫌いだ。こう言うコラムを書く事は自分の恥を晒す事に成るのは解っては居るが、言わずに居られない。私は物凄く頭に来て居るのですよ。何であんな男が私の父親だったのだろうかと思う。それはいい時も一時はほんの少しはあったが。たとえばこう言う事があった。私は小学校低学年の頃に野球が好きだった。だから親父にキャッチボールがしたいと言ったのだ。すると親父はミット2つと軟式ボール一個を購入して来た。そして家に前の道路っぱたで、キャッチボールを始めた。しかし、同級生の女の子が「何だよぉ〜〜〇〇が野球なんてするのかよ?」と言って通って行ったら。もう次の日からはキャッチボールをしなくなった。また、こう言う事があった。私は小学校3年生の時に扁桃腺の手術をした。どう言う手術かと言うと。先の尖った器具を口の中に入れて扁桃腺を掴み捩り取るのだ。取って見たら扁桃腺はゴルフボールぐらいの大きさに腫れて居た。手術を終えて家に帰って来たら。会社の社員があれ喉を切った後が、無いじゃないかと丸ばかな事を言う。私は家に帰って来てから高熱が出て半年も寝てしまう事になった。お陰で勉強が出来ない。周りの生徒たちからはどんどん遅れて行く。困った私は親父に勉強を教えてくれと言った。すると1日は教えたが次の日からは。朝、私が幾ら起こしに行っても、起きて来ないのだ。私は孤立した。それ以来私は学校に復帰しても勉強は何も解らなくなって行ったのです。子供を助けるのは親しか居ない。私の親は駄目でした・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
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最近、親戚の事で嫌な話を思い出した。まず父方の親戚の話だが、、父方の祖父は身体障碍者だった。そして何時も親父が、羽田空港まで飛行機を毎週日曜日に見せに行くのが日課だった、祖父は中風で腕が効かない。初めは、うちだけが祖父を連れて行ったのだが。そのうちに親戚の従兄弟たちも一緒に行くと言って車で着いて来る様になった。達吉の息子、まさおやら。親父の妹よしこの娘の、香織などだ、私たちは丁度、幼稚園児で5歳ぐらいだった。私は空港内のレストランのウインドウに飾ってあった「鳥の唐揚げ」を初めて見て、どんな肉料理なのか一度も生まれてから食べた事が無いので。食べたくなったので母に食べたいと言ったのだが、母も「まあねぇ、最近は鳥の唐揚げも食べて居ないからねぇ」と言ってレストランに入ろうとしたら、「何食べるの???私たちも食べたい」と達吉とよしこが入って来てちゃっかり席に座って居る、そして、彼らの子供たちも陣取って居るのですよ。母はものすごく嫌な顔をして居たら。「何食べんの、鳥の唐揚げ?ウエイトレスさ〜ん」と勝手に呼んで6人前の唐揚げを注文して居る。そしてがっついて食べて居た。勿論、料金は母持ちだ、、そして皆んなが「う〜〜。腹が一杯だ」と出て行った後で、母は「お前は解らない子だねえ、何時もこうなるだろう?お金幾らかかったと思う!!」と私の頭を拳骨で殴った。
私が小学校6年ぐらいの頃だ。親父の妹よしこが家に来た。私はテストが近いので勉強をして居ると、娘の、香織とうちで話して居る。私はこの2人の会話が煩くて勉強が出来ない、そうしたら、何だかお勝手から椅子をぶん投げる音が仕出した。理由を聞いて見ると、親父の妹のよしこがうちに来てやりたい放題なのを、批判した娘の、香織が暴れたと言うのだ。「お母さんは何時も、叔母さんに迷惑しか掛けないじゃないのよ」そう言って暴れたのだ。よしこさんは「香織ちゃん、勘弁してね、勘弁してね!!」と床に頭をつけて謝って居た。私はその頃は自分の部屋は無かったから廊下の出っぱったところに椅子を持って来て、そこで勉強をして居た。ただ学生の部屋の入り口付近だった事もあり、勉強をして居るのに「〇〇ちゃん、コーラとファンタとポテトチップ買って来てくれない」とよく言われた。私は嫌々ながらも買って来て渡して居た。その日もそうだった。私は「こんなんじゃ勉強どころじゃないよな」と思って居たら、何とよしこさんが何を思ったのか、「今日、此れからうちに遊びに来なさい」と言うのだ?私は「テストですから」と言ったら、自分が教えると言うのだ、私は、まただと思って再び断ったが、どうしても連れて行くと言うので仕方がないと思って。近所にある彼女らの自宅まで着いて行った。もう夜の9時になるのだ、、確かによしこさんは教えはしたが、独りよがりで10分も教えはしなかった。私は彼女らと一緒に寝ながら。侘しくなったのと悔しくなって涙を零した。するとよしこは「あら、〇〇ちゃんは、何故泣いて居るのかしらねぇ(笑)」と言うのだ。翌日、私は朝方帰って来た。要するに自分がうちで恥をかいた腹いせに私に仕返しをしたのだ。翌日学校に行ってテストを受けたが赤点だった。こんな、ど畜生ばかりが親戚だったのです。
この、よしこさんには色々と話がある。ある日、突然一家で夕方になるとやって来て、旦那も会社からうちに直接帰って来て、夕食を食べておまけに風呂まで、一家全員で入って帰る様になったのだ。幾ら図々しくても何かがおかしいと私たちは思った。だから「何故うちに来るの?」と聞いても、、「あら、、いいじゃない。あなたたちお金沢山持ってるのだから💢」と言うのですよね。これは幾ら何でもおかしいと、踏んだ母が。よしこさんと、よくよく二人っきりで話して見たら。何と、あのバカ親父が競馬に注ぎ込む為に、60万円の金を借りて居た事が解った。あのバカ親父はそうなのだ、よく私の占いを見て「今日は、お前のツキがいいから俺に2万寄越せ」だとか。姉さんの家に言って「今日は、お前の占いがいいから2万円俺に寄越せ!!」と言って手を出してせびって怒鳴られて居たほどだ。母はバカ親父と妹のよしこさんと3人で話して、お金に都合を付けて60万円を全額返済した。そして付き合いを絶った。あのバカ親父は言って居た「兄弟から金借りたんだろう。いいじゃないか!?」私はあの世でバカ親父とあったら、ボコボコになるまでぶん殴ってやろうと思って居る。あんな男最低な人間だろ。反吐が出る。親父の親戚も大っ嫌いだ。。。
或日、バカ親父がテレビを見て居たらしい、するとテレビの奥からボンボンと低音が聞こえて来たと言う。バカ親父は「おい、あいつが、また音楽を大きな音で聴いて居るんだろうから。お前があいつの部屋に行って怒鳴りつけて来い」と母に言ったそうだ。母は訝しながらも私の部屋に来たら。私は薬の副作用で寝てしまって居た。母は寝室に戻ると「あなた、何言ってるの?あの子は、今寝て居るわよ?」と言っても、「だってテレビの奥から低音が聞こえて来るだろ」と言う。貧乏人の浅はかさだ。その音は当時、私が母と親父用に選んだ高性能スピーカーが付いて居る、ブラウン管テレビから流れて来る音だった。低音が出て居るのは自分が見て居るテレビのスピーカーから流れてくる音だったのだ。母は怒って居たが。あの馬鹿野郎は最後まで「いやこの音は、あいつの部屋から聞こえて来るんだ」と言って居たと言う・・・・・・・・・。
愛猫、ドラゴンちゃんと戯れる、青木志貴ちゃんです。彼女は、声優で、モデルで、舞台女優で、歌手で、コラムニスト、YouTuberです、、皆さんも応援して下さいね。宜しく・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆
子供の頃の話だ、私の母親は腎盂炎で入院して居た。その間、見たい映画があった。怪獣映画のと言うかモンスター映画の「サンダ対ガイラ」だ。少しホラーがかったモンスター映画だった。なんと善良な山のフランケンシュタイン・サンダと凶暴な海のフランケンシュタイン・ガイラが対決すると言う大映の特撮映画だった。しかもこのガイラは人間を捕まえると頭からバリバリ食べるのだ。そして、このガイラはサンダから細胞分裂した怪物だった。この映画で特出すべき点は、話の中で女性の下着会社の社員がパンティー・ストッキングを使って隣のマンションから隣のマンションに飛び移るシーンがあった事だ。そしてこう言って居た「見てくれたかい、百合子さん、このパンティー・ストッキングは丈夫だろう。最近のパンティー・ストッキングは、此れ程までに丈夫に出来て居るんだよ」と言って居た。1967年ごろの話です。私は何時も映画を見るときにはパンフレットも買うのだが、入院中の母にお金をくれと言ったら「見に連れて行く叔父さんの覚治さんが買ってくれるわよ」と言って居たが。私が買ってくれと言っても彼は「買わない」と言い張るのだ。私は映画券は此方が出したものだし、映画を見た後の食事代だってこっち持ちだったのにだ。私はまたしても父方の親戚が大嫌いになって行った。。。
私が子供の頃、小学校5年生ぐらいに、コダックの6千円のポケットカメラを持つ事が、小学生のステータス・シンボルとなって居た。私はカメラが皆んな見たいに欲しかった。だから親に買ってくれと言ったが、親からは、何故贅沢な事を言うのだと偉く怒られた。学校と言う処は皆んなが持って居るものを持って居ないと仲間外れにされる処だ。私は困って仕舞ったが、同級生の女の子のカメラ屋にコバルト・フィルムで撮影する2千円のカメラが売って居る事を知って、なけなしのお金の2千円を持って買いに行ったのだった。店に入ると同級生の女の子のお父さんが出て来て。「坊主もコダックのカメラが欲しいのかい?」と聞いて来たが、私は「いえ、お金が無いので、そのコバルト・フィルムで撮影する2千円のカメラを下さい」と言った。すると同級生のよしみちゃんが、「お父さん?」と部屋から出て来て何か言って居る。私は何かあるのかと思って居たら。彼女のお父さんが突然、「坊主、そのカメラ1千円でいいから」と言ってくれた。私は喜んで家に帰って来てカメラを飾って喜んで居た。そうしたらそこにバカ親父が帰って来た。そしてカメラを見るなりこう言った。「お前、こんな高価なカメラをどうしたんだ!!」私は言った「高価なカメラじゃないよ」するとこう言う。「幾らで買ったんだ!!」私は「それ1千円だよ」と言った。親父はすると私の指をねじり上げてこう言った「盗んで来んだろう!!」私は指が痛かったが「違うよ」と言った。
あのバカ親父は「このカメラは見た処、1万8千円はして居るはずだ」と言い張る。そして「どこのカメラ屋から盗んで来たのだ!!」とがなる。私は殆嫌になって居たら。今からカメラを返しに行くと言うのだ。私は「ああ、そう、行けば」と言った。そして同級生の父親が経営するカメラ屋までバカ親父と一緒に行った。ドアを開くとバカ親父は同級生の父親に「この度はすみませんでした。うちの馬鹿息子が。お宅の高価なカメラを盗んだ見たいです」と言った。そうしたら、相手はびっくりして「何を言って居るのですか、お父さん。この子は買って行ったのですよ」そう言った。するとバカ親父は今度は私に言った「1万幾らの金をどう都合付けた、金を盗んだのか?」すると店主が言いました「お父さん、このコバルト・カメラはね。構造も簡単でおもちゃみたいなカメラなんですよね」そうしたら同級生のよしみちゃんが出て来て。「そのカメラは2千円でしたけど。私がお父さんに言って1千円に負けさしたのですけど」そう言ってくれた。そう言われたら。それまで怒って居たバカ親父の顔が温和になり「なんだ。〇〇そうならそうと言えばいいのに」と言って。店を二人で出て来た。私は怒り心頭だったがバカ親父は蕎麦屋に入ろうと言って。帰りに蕎麦屋に入りざるそばを食べて「おりゃあなぁ、汁を弾き飛ばして食べるんだよく見て居ろ」と言ってつゆを弾き飛ばして食べ始めた。私は、こんな男が自分の父親かと思ったらムカついて来て蕎麦の味もよく解らなかった・・・・・・。
ゆきかずたちと一緒に海水浴に行くと、何時も彼らは自分の食事を持っては来ない。弁当を作っては来ないのだ。そして、母がゆきかずの母親に、「お姉さんたちは食事どうするの?」と聞くと「海の家で何か買うからいいのよ」と言うのだ。母はその都度、「そんな事言ってないで、私たちの弁当を食べなさいよ」と言って居た。すると、「あらそう」と言って毎回食べるのだった。ゆきかずの母親はだらしがなかった。私が子供の頃にゆきかずの家に遊びに行くと。特に冬なんかは、コタツに入ろうとすると。コタツの掛け布団が味噌汁をひっくり返して居たり。ジュース。コーヒーを溢して居て、とてもではないが汚くてこたつに入れなかった。そんな中、けんじとゆきかずはそのコタツに入って居た。私は子供の頃にたまに遊びに行くとお勝手に、蟻が群がって居るのだ。私がどうして?と見て居ると砂糖が溢れて居てそこに蟻が群がって居たのだった。私は「おばさん!!砂糖が溢れて蟻が群がって居るよ?」と言っても「あら、いいのよ。蟻が片付けてくれるから」と言うのだった。私はどうしようもないと何時も思って居た。
ゆきかずが明治学院大学に入学した頃だった。ゆきかずの母親はうちの子が入った大学は大したものよ。豪勢なエレベーターとエスカレーターがついて居るのよと自慢して居たが。1970年当時出来立ての程度の低い大学なら、そのぐらいの設備がなければ学生も来なかったろうにと思うけどね。そう言えば東洋大学もかなり豪勢だったな。結構程度が低い大学は設備が整って居るものですね。学生を集めないと行けないから。私は前に友人が大学受験の時に、桜美林大学に願書を撮りに行くのに付き合ったのだけども。あそこはーーー駄目だった。大体が来て居る学生を見て驚いたのですよ。言い方が悪いようだが、蒙古症みたいな顔をして居る学生が結構居たからだ。大体が桜美林は誰でも入れる大学だった。最近は芸大も宝塚芸術大学とかも出来た。 東京メディア芸術学部はマンガ、イラストレーション、ゲームなどを学べる。今はいい時代ですよ。私の大学時代は駄目だった。私の大学時代は漫画学科などと言う科は大学にはありませんでしたから、前に、訪問看護婦の20歳の若い女の子から言われましたよ。「何で、kiyasumeさんは経済学部なんか出たのよ。今は漫画学科とか色々とあるじゃないのよ?」と・・・・・。彼女は1970年代当時を知りませんからね。あって学校法人では代々木アニメーション学院しかなかったから。当時は選択肢も無かったし、矢張り芸大か美大に行くしか手は無かったのですよ。まあ、今となってはどうしようもないですね。私は18年前までは放送大学をテレビで見て居たのですが。なんかBS放送に切り替わってしまい。しかもケーブルTVには映らないのですよ。だからNHKの放送をよく見て居ます。。。。時代は変わって行きますね。。。。。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆