インターネットの登場は、社会のありようを大きく変えてしまった。ネットは物流の仕組みを変え、情報の流れ方を変えた。そして、この後はAI(人工知能)が僕たちの暮らしに大きくかかわってくる。AIが人間の仕事の大部分を奪ってしまうという予測もある。それは、人間が仕事をしなくても豊かに暮らしていけるユートピアか、それとも、人間がAIに使われるデストピアか。

人間の集合知がネットの健全性を保ち、コストを限りなくゼロにすることができるようになるという、のんきな予測は大方外れたようだ。人間はネットを悪用し、ニセの情報を流して金儲けをたくらんだり、政敵に攻撃をしかけたりするようになった。だから、ネットの中には悪意に満ちたデマが飛び交っている。50%外れる天気予報と、100%外れる天気予報はどちらが信用できるか。よく冗談で言われることだが、もちろん100%外れる天気予報の方が信用できる。予報と逆の天気を予測すればよいからだ。

ネットの中には真実も虚偽もある、と言われる。だからこそ、ネットの情報は信用できない。すべてが虚偽ではなく、どこかに嘘が紛れている。だが、それは一見、真実のような顔をして僕らに微笑みかけてくる。どれが本当で、どれが嘘なのか。僕らには見分けがつかないのだ。

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真実と虚構のあわいに興味を持ち続けてきた僕の、インターネットに対する意見は本書の中で十分に述べるつもりである。個人が義体と電脳によって強化された近未来を描いた僕の作品で、人間の意識は広大なネットにつながっている。そんな世界を20年も前に描いたが、スマートフォンの登場で、本当に人間が常にネットにつながる世界が実現してしまった。

だが、僕が描いた世界はさらにその先の話で、そこでは人間の意識が広大なネットの海に融合するところまで行ってしまう。もはや機械の体すら必要ではなくなり、意識だけが、世界を駆け巡る。

そのとき、人間はこの世界を、宇宙をどのように認知し、どのような世界観を持つのだろうか。あるいはそのとき、宇宙は人間をどのように認識するのか。物理法則から解き放たれた人間の存在を神は許すのか。これこそが僕が映画で描く、人間の未来像であり、シミュレーションだった。

その思考実験は、現実の今の人間をも照射する。僕らがいつか意識以上の存在になれるのだとしたら、今の物理法則の中で生きている僕たちはいったい何をなすべきか。こんな不自由な、血と肉でできた体を抱えて、なすべきことがあるのだろうか。日々の現実に流されず、本質を突き詰めて考えていくとは、どういうことなのか。

ああああ.jpg

まるで哲学のような問いになってしまったが、本書ではもっと単純に、幸せになるためには何をすべきか、社会の中でポジションを得ていくにはどうしたらよいのか、そんなことも僕なりに論考している。

ただ、本質的な議論からは目を離さずに考えたつもりだ。
どうやら、僕たちは生きている。ゴルギアスが何と言おうと、僕らは世界を認識している。どう考えても、僕らの胸の奥には、何か、僕ら自身の核のようなものが備わっているとしか思えない。それが、心と呼ばれるものか、精神と呼ばれるものかは別にして、その実感は確かにある。

胸の奥の核を、やはりないがしろにするわけにはいかない。その、意識のようなものを受け入れてくれるほどに、ネットの空間はまだ十分に発達してはいない。もう少し、この肉体の中に閉じ込めておいて、その核が命じるものに従って生きていくしかない。

 本書を著した理由はここにある。しょせん僕らはもうしばらく、不自由な人間として、本質を見極め、虚構と真実を手玉に取り、うまくやっていくしかないのである。


『ひとまず、信じない――情報氾濫時代の生き方』

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押井 守 
1951年東京都生まれ。映画監督・演出家。大学卒業後、竜の子プロダクション(現・タツノコプロ)に入社。以降『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984)『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』(95) 『アヴァロン』(2001)『イノセンス』(04)『THE NEXT GENERATION パトレイバー 首都決戦』(15)などを手がける。最新作は『ガルム・ウォーズ』(16)。著書に『仕事に必要なことはすべて映画で学べる』、共著に『身体のリアル』などがある。最近までメルマガ『世界の半分を怒らせる』を配信していた。

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「ライプニッツのモナド」

ライプニッツのモナド論

 

ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz(1646-1716)は、ドイツが生んだ最初の大哲学者である。ドイツ人はライプニッツ以前にもヤコブ・ベーメとマルチン・ルターという偉大な思想家を生んではいるが、体系的な哲学を展開したのはライプニッツが始めてである。以後ドイツ哲学は多かれ少なかれ、ライプニッツの影響を蒙った。

ライプニッツはドイツ哲学の父といわれるにしては、非常にかわった学説を展開した。しかも、バートランド・ラッセルがいうように、彼は生前自分の説の全部を公開したわけではなく、その全貌は20世紀に入ってようやく明らかになってきたといういきさつもある。ラッセルはライプニッツ自身が生前に公開した説と、秘蔵していた説との間には非常な懸隔があるともいっている。一筋縄の解釈ではすまない、懐の広い思想家だというのである。

だがライプニッツが歴史上に影響を及ぼしてきた思想とは、無論彼が生前に公開した著作の中で展開したものだ。それは「単子論」のなかで展開したモナドという実体をめぐる議論と、独特の論理学に支えられた「弁神論」とで代表される。

まず、ライプニッツは何故「モナド」という奇妙な概念を思いついたのか。これはギリシャ哲学における「アトム」と外見が似ているが、アトムとは異なって物質的な内容を持たず、徹底して精神的なものである。しかもこの精神的なものが、我々には物質的に写る世界を構成している真の単位なのだという。世界は無数のモナドが集まって構成されており、それらは自体では消滅せず、互いに交渉を持たず、一つ一つのモナドが宇宙全体を反映しているというのである。

ライプニッツのモナドは、デカルトとスピノザによって提出された実体をめぐる議論への、彼なりの解答であった。また当時盛んであった宗教論議における、神と人間との関係についての、ひとつの優れた解釈でもあった。

デカルトは実体として精神と物質をあげ、さらにこれらを創造した神を究極の実体と定義した。これに対しスピノザは、実体の定義上神のみが唯一絶対の存在つまり真の実体なのであり、それ以外のものは実体としての神の遇有的な現われなのだとした。

ライプニッツもこの二人と同様実体の定義から議論を始め、モナドに行き着いたのだった。

ライプニッツはデカルトのいう延長は実体ではありえないとした。なぜなら延長あるいは広がりは多岐性を含意しているがゆえに、それは実体の集まりを想起せしめるからである。実体とは定義上単一なものであり、したがってそれは広がりを持たないに違いない。

では広がりを持たないものが集まったからといって、何故空間が形成されるのか。この問いに対しては、ライプニッツは空間そのものの実在性を否定した。ライプニッツによれば世界には空間も真空もないのであり、ただ無数のモナドが充満している。そしてそれは一つ一つが魂のようなもので、物質的な色合いはいささかも持たない。

一方神のみを唯一絶対の実体とするスピノザの説に対しては、ライプニッツは表立った議論をしていない。何事につけ抜け目のないライプニッツのことであるから、スピノザの悪評が自分の身に降りかかることを避けたのであろう。その実ライプニッツのモナドは、スピノザの神が属性や様態となって顕現したのだといっても良いほど、スピノザの説に似ているところがある。

ライプニッツは宗教上の心性としては、カルヴィニズムに近いものをもっていたようである。それはモナドの定義のなかにも反映されている。

ライプニッツによれば、この世に存在する無数のモナドの一つ一つは互いに何の交渉もない。それなのに何故、異なったモナドの間に因果関係のようなものが生じるのか。我々人間自身においても、あのデカルトを悩ましたように、精神と身体との間に調和ある現象が生ずるではないか。

この問いに対してライプニッツは、各々のモナドのなかにはあらかじめ確立された調和があると応えた。宗教上の予定調和説の哲学版である。さまざまな事象が我々の眼に調和しているように見えるのは、神によって作られた多くの時計が、互いに関係せずとも同じ時刻をさすのと同じことなのだと、彼はいうのである。

この予定調和説はさらに進んで、モナドの中にはあらかじめ宇宙の全体が組み込まれているのだという、驚くべき主張につながっていく。我々の眼には偶然に映ることでも、モナドにあらかじめ組み込まれたものが実現しているのであり、モナド相互が調和しているようにみえるのも、この組み込まれている運命のようなものが発現したことの結果なのだ。

この主張は、主語と述語に関するライプニッツの論理学の考え方と密接な関係を持っている。ライプニッツによれば、特定の主語に属するとされるあらゆる述語はあらかじめ主語に含まれていなければならない。それと同じことがモナドにもいえる。モナドは哲学上の概念であるが、論理学の上からは述語を包括する主語のようなものである。だからそれは述語に相当するものをあらかじめ自分のうちに含んでいる。

これはかなり踏み込んだ決定論である。世界には偶然のものは何も存在しない。すべてはあらかじめくみこまれたものによって、必然的に生起する。スピノザの神によく似ているであろう。

さて一人一人の人間もやはりモナドであると観念される。そのモナドは自分のうちに宇宙全体の出来事をあらかじめ組み込んで持っている。だからそのモナドにとっての世界の現われは、偶然に見えるようでも、必然の出来事なのだ。ライプニッツにとって、一つのモナドは世界を表象する単位である。その限りでミクロコスモスと言う事も出来る。

「モナドとは何か?」

ギリシア語のモナスmonas(単位,一なるもの)に由来する概念。単子と訳される。古代ではピタゴラス学派やプラトンによって用いられ,近世ではニコラウス・クサノスやブルーノが,モナドを世界を構成する 個体的な単純者,世界の多様を映す一者としてとらえた。これらの先駆思想を継承して,ライプニッツは彼の主著《モナドロジー》において独自の単子論的形而上学思想を説いた。ライプニッツは物理的原子論を批判して,宇宙を構成する最も単純な要素すなわち自然の真のアトムは,不可分で空間的拡がりをもたぬ単純者であり,いわば〈形而上学的点〉とも言うべきものであると主張した。

「アトムとは何か?」

原子と訳される。レウキッポスやデオクリトスによって代表されるギリシアの原子論哲学が提出した用語。〈切る〉を意味するギリシア語の動詞temneinと否定の前綴aとからなる形容詞atomos(切られない)に由来し,単数ではatomon,複数ではatomaと呼ばれた。この哲学はこうした語源的意味を生かしながらアトムを,切断し破壊することの不可能な不変の極微の物質として万物の基礎においた。万物はこれらの複数の原子の統合によって構成されるのである。

 


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「写真論と哲学」

写真論というと、すぐにロラン・バルトの「明るい部屋」を引用する人がいる。かつて-そこに-あったもの、という例の本である。たしかに、写真とは記憶であるのだが、バルトの言っていることはそれに尽きるのであり、むずかしく考える必要はない。写真は哲学ではなく、視覚によるメッセージの手段であり、哲学的な解釈は写真をややこしくするだけだ、と私は思っている。写真論というと、ほかにはスーザン・ソンタグの「写真論」とか、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」などを引用する人も多い。しかし、これらも哲学者による写真論あるいは映像論であり、あまり意味があるとは思えない。私はこれらの本を読んでいるが、写真論に引用しようとは思わない。

写真論はもっと平易な言葉で語られるべきであり、写真論をややこしくしたのは哲学者と一部の写真評論家のせいだと思っている。つまり、小難しい言い回しをして、わざわざ(としか私には思えないのだが)読者を混乱させることによって、なんとなく高踏的な雰囲気で幻惑しているにすぎない、と思うのである。

そういう中で、哲学者だが平易な文章で写真論を展開してくれるのは黒崎政男さんである。黒崎さんの文章はわかりやすいし(本職のカント哲学の著作は読んでいないのだが)、論旨も明快である。このデジタル時代に写真家は耐えることができるのだろうか、という問いかけにはうなずかざるを得なかった。つまり、デジタル画像がモニタ上でピクセル等倍あるいはそれ以上に拡大されて、ピントやブレを指摘される。そして、それだけでその写真がネット上で批評されてしまうのだ。

黒崎さんの写真論はややもすると、ハードウエアからの発想が多いが、傾聴に値する内容が多い。興味のある方は「哲学者クロサキの写真論」などを読まれるといいだろう。

以上、今回は私の生い立ちから、押井守論、そしてライプニッツなどの哲学を語って見ました。ところで今回の哲学の論考を紹介して居る事で、哲学の論争を仕掛けられても、私は何も応じませんので、悪しからず・・・。

それ以外のコメントには対処致しますので、皆さん何か言いたい事があれば書き込んでくださいね。ああ、しかし、私を貶すコメントは無視しますから、その辺は宜しくお願い致しますね、、それでは今回は此処までにしときます。また次回の更新でお逢いしましょう・・・・・・。☆*:.。. o(≧▽≦)o .。.:*☆

 

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Led Zeppelin - How Many More Times Live Danmarks Radio HD

Tea For One/Jimmy Page & Robert Plant_13.Feb.1996@Tokyo Budokan

Taste - What’s Going On - Live At The Isle Of Wight Festival / 1970

Frank Marino The Answer Extract from DVD