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「認知症だったバカ親父」
或日、私が食事をして居たら、バカ親父が突然、私のおかずの魚を寄越せと言って、箸で引ったくってバリバリ食べ始めた。そうしたら「おめぇのおかずを全部俺に寄越せ〜!」と私の食べていた皿事引ったくって抱え込んで食べ始めた。私はその浅ましさに、吃驚し、そして食欲が無くなった。そうするとあのバカ親父は「食べないなら。おめえの飯も俺に食わせろ!」と言って、茶碗を私からもぎり取ってガツガツ食べ始めた。一体なんだと思った。母は「まあ、食い物の恨みは凄い事になるわよ」と言って笑って居る。明らからにバカ親父の様子が変なのだ。普通は人が食べて居る食事を寄越せと言って喰うまい???それからこんな事もあった。私が部屋で本を読んで居たら、突然部屋に入って来て、「おめぇはな、腕にこんな筋肉を付けてな、腹は腹筋で割れ、そして脚は競輪選手見たいになれ!!」「何言ってるんだ50歳廻った息子に対して!!いい加減にしやがれバカヤロー」と言うとこう言うのだ。「ランボー見たいな体におめえはなれ!!俺はそう言う風になって貰いたいんだ!!」私は激怒して言った「い、い、か、げ、ん、に、し、や、が、れ!!この大馬鹿野郎!!」思うに親父は頭がおかしかったのだろうとは思う。認知症になると男の場合は見境が付かなくなる。しかし何故、、周りが気が付かなかったのかだ。この事は何遍も書いて来たが、あのバカ親父がフランス料理のフルコースで、突然料理に顔を突っ伏して意識が無くなった時に、私は親父の挙動不審な様子を見て居て、すぐに救急車を呼んだのに、お袋は、「お前はお父さんが突っ伏すまで見て居たじゃ無いか薄情だ」などと言う、あの日は、バカ親父は散々私の事を色々と蔑んで言って居たのだ、それなのに、私が気づいて一早く救急車を呼んだのだろうに、、私が統合失調症なのは、バカ親父のせいだろうに。あの人がおかしかったから、私も脳の障害が出て来たのですよね、、、
此処でバカ親父の事をもう一回記載して置きます。。。
正月に、弟がプリンスホテルで食事会を模様した時だ。あのバカ親父は当時、私はカカトが6センチあるブーツを履いて居たのだが。親父は車の運転は止められて居て。どうやら認知機能がおかしい事しかやったりいったりしないから。以前に車を運転するなと医者から止められて居たのに「おりゃ〜〜。大丈夫だ。運転するんだ!!」と言って。母が居ない私と二人っきりの時に私が怒って止めたのに、車に乗って行った。そして運転をして車のケツを振って帰って来たから。私が怒って家中のガラスのコップを叩き割ったら、それ踏んでバカ親父が怪我したと帰って来た母が言って居たが。私は怒り心頭だった。もし事故でも起こしたらどうなるのだ。この時も皆んなして電車で行ったのだが。あのバカ親父は背が自分よりも私が大きく見えると言って「このバカヤロー。ブーツ脱いで来い」と怒鳴りまくった。私は「イイ加減にしろバカヤロ〜〜!!」と怒鳴った。そして駅に着くと「ブーツを脱いで見せろ!!」と言うのだ。私は黙って居た、そうしたら「こいつはなぁ、チビなんだ!!」と周りに聞こえる様に言う。私はこんなバカヤローは居ないと思って居た。そしてホテルに着いて姉さんたちがまだ来て居ないので。ラウンジで待って居たら。あのバカ親父はおどおどして居て、「俺が見に行って来る」と居なくなったが。すぐに帰って来て「遅いな〜〜!」と言って居たら。姉さんたちが要約やって来た。そして食事会が始まった、フランス料理のフルコースだ、弟が家族のために奮発してくれたのだ。私は弟に「お前、無理したんじゃないか、これ8万円ぐらいのコースだろう」と言うと。彼奴は微笑んで居た、しかしその直後。あのバカ親父は私の名を呼んで「喰え喰え喰え!!」と言いながら自分はフランス料理にむしゃぶりついた。私は嫌な光景だなと思って前菜を食べ出したら。いきなりバカ親父は顔を料理に突っ伏して気を失って仕舞った。私は冷静にその一部始終を見ていた。そして、私は大きな声でホテルの従業員に救急車を頼んでくれと言った。
そしてコーヒーを注文して飲んで居たら。救急搬送の人たちが怪訝そうな顔をして、部屋に入って来たので。私が状況を説明しようとしたら「うるさい!黙れ!」と救急隊員の人から罵声を浴びせられた。そうしたら。あのバカ親父はひょっこり起き上がって、「なんだ皆んな、どうしたんだ、おりゃ寝てたんだ!!」と言った。救急隊員たちは怒りまくった。それはそうだろう元旦にフランス料理のフルコースを食べて居て、気を失ったバカを見て居るのだ。そうしたら、弟は下を向いて複雑な顔をして黙って居たが。私が言った「弟は医者ですよ。私の隣に座っている兄貴も医者です」そう言ったら。要約、「なんだお医者さんの一家でしたか?」と言って低姿勢になった。「先生・・・。」と救急隊員の人が私に話し掛けるので「俺は違うだろ!!」と怒鳴った。そうしたらあのバカ親父は「なんだ、なんだ?。おりゃ、寝て居ただけだぞ???」と言う。私はこんなバカヤローは親でもなんでも無いとは思ったが。気落ちして居る弟と姉さんたちが何も言えないので。母と2人で「気は戻ったけれども、一応病院まで搬送して下さい」と頼み込んだ。そして弟が乗り込んで搬送先の病院まで行った。あのバカのおかげで8万円の料理が全て台無しになった。皆んなして部屋を出ると会計はもう弟が前もってしてあったので家に帰って来た。2時間ぐらいしてから弟がタクシーであのバカを連れて帰って来た。医者の家系だと言ったら下にも置かれなかったそうだが。そうしたらあのバカ親父は腹が減ったと言うのだ、仕方が無いんで出前でラーメンを取った。帰って来てもあのバカ親父はまだ言っていた。「なんだ。おりゃ〜〜、眠っていただけなのに!!」おそらくは脳梗塞を起こし掛けたのだろうとは誰でも想像が付く。認知症は困る、、
'Bridge Over Troubled Water' - Simon & Garfunkel 【lyrics & 和訳】サイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」1970年
それから親父のパチンコ狂いの日々が始まった。毎日会社が終わるとパチンコ屋に行くのだ。そして、店が閉店になるまで7時間居るのだ。初めは私に「おいATM で通帳から金下ろすのはどうしたら出来るんだ?」と聞いて来たが私は一切教えなかった。だからあのバカ親父は自分では金を下ろせないから、母から小遣いを貰って居たはずだ。そして金が無くなるとパチンコ屋で、隣の人が打って居るのを被り付きで見て居て。仕舞いには「このクソジジイ。球でも欲しいのか!!。何時も何時も隣に来て見て居やがって。乞食野郎!!そんなに欲しければくれてやる!!」と言って数10発玉を叩きつけられる様に貰うと、それをありがたがって使ってまた遊び。そして、それもなくなると床を張って。落ちている球を拾い、それでやって入ったと帰って来て私に得意げに言うのだ。頭が完全におかしいのですよ。そして帰って来ると会社のジャンバーを着込んで居るからタバコのヤニの匂いが凄まじい。私は怒って言った「あんたさ、このヤニの匂い何んだ。この大バカヤロー。肺癌に罹って死にてえのか。」そう怒鳴ると「おめえは何を言っているんだ。」と言うのですよ。だから私がまた「癌になりたいのかと言っているんだ!!」と言うと「ああ、俺はなぁ、親父が72歳で死んでるんだ。だから俺も生きても72歳だ!!」と言う。
そして私が当時は、放送大学の芸術論と心理学をテレビで観て居たが。すると。決まって観させない算段をワザとする。私の前でわざと夕刊を広げるのだ。そして言う「人間はなぁ、勉強は学生時代だけすれば良いんだ!あとは遊んで暮らすんだ!!」そして勝手に人が見て居るのにスポーツ・ニュースにチャンネルを変えるのです。時間はもう12時を廻って居る。そして当時は松井選手が評判で人気があったが。夜中になんか寝ていたら、何処かからスポーツ中継の放送が聞こえて来る。時間を見ると夜中の3時だ。私は父と母の寝室に行って見ると母は寝ているがバカ親父は居ないのです。そして音が聞こえる方を辿って行くと。弟の留守にして居る部屋で、BS放送のアメリカでの松井の大リーグの登板を見て居る。そして松井が出て来るとこう言うのだ「ゴッジラが吠えるぞ〜!!」私は呆れて言った。「おい、親父!!ビデオに録画して置いて早朝見ればイイだろう!!」するとこう言うのだ。「バカヤローだな、てめえは、野球はな、その時見るものだ。」私はもうこんなバカは。どうなっても知らないと思って部屋に入り、鍵をかけて寝て居た。
それから数日経って。私は小さめの丸いメガネを購入して、それを掛けて会社に出勤した。周りの社員たちは「そのメガネ洒落て居ますね。ジョン・レノン見たいですね!!」と言ってくれたが。いきなりバカ親父がやって来て「なんだ?このちっこいメガネは。大体がお前は目つきがおかしいんだサングラスを掛けてろと言っているだろう!!」と。丸いメガネを手で払って叩き落とした。私は身体中から怒りが汲み上げて来た「この腐れ外道が!!」と言って親父をぶん殴って居た。そうしたら親父は言った。「大体がお情けで会社に入れて貰って於いて!。何だその態度は今日かぎり首だ!!出て失せろ!!お前何かいなくなれ、バカヤロー!!」私は前の日にギターを道路に叩きつけて壊していたから。もう辞め時だと思って居た。そして正式に会社には行かなくなった。母は認知症になり掛かって来て居た。大体が統合失調症だと親に言って、本も買って来て読んでくれと言って居るのに。母も親父も読みはしなかった。そして倒れる様な薬を処方されて飲んで居るのに。会社で肉体労働をさせた。障害者年金だって貰えたはずなのに手続きもしなかった。障害者年金は10万は貰えたのだ。年金と合わせれば18万位にはなる。いやそれを少し超える額か?私は働いて居て一時期は無理が祟って34kgも体重が減った事もあった、身内でさえ冷たいのだ。他人が誰が私を気遣ってくれる人が居るのだ。そして、家に居ながら暮らして居たら。姉さんから電話が掛かって来た。
姪が結婚するとかで。その結婚式はハワイで行うとの事だった。処が問題があると言う。新郎の背が低いのだ、姪は身長が170センチはある。だからハイヒールを履くと176センチくらいにはなる。だから私がたまに履く。6センチのブーツがどこで売って居るのか聞きたいと言うのだ。私は「だって男用のヒールのブーツだよ?」と言ったが「バカヤロー!!さっさと教えろ!!」と言うのですよ。私はそれよりもシークレット・シューズの方が良いのではないかと思い。ネットで調べて居ると「このクソバカヤロ〜〜。さっさとしやがれ!!」と怒鳴る。私が姪の旦那の身長を聞いても言わない。何センチぐらいだと聞いても言わないので。多分165センチぐらいだろうと思ったから5センチと7センチのシークレットシューズを紹介したら。「どこに行けば買えるか、ちゃんと教えろバカヤロ〜〜!!」と言われてマジギレしたくなったが。「銀座に「トールシューズ」と言うシークレット・シューズ専門店があるから。行ってみれば試着できると思うよ。それからネットからも購入する事が出来る見たいだね」と言ったら「ネットのアドレス教えろ!」と言う。私はそんな事ぐらい自分で調べる事が出来るだろうとは思ったが。アドレスを教えたら電話は黙って切れた。その後。姪は結婚したが一度も母と私の処に挨拶には来なかった。姪の旦那の姉さんは世界に名だたるバイオリストで。旦那は東大卒で資産家らしいが、どうやら礼儀を知らない連中らしい。
そうこうして居たら、言った通り。バカ親父が肺癌に罹った。自業自得だ。そして入院をした。母はカードで見られるテレビ付きの個室の病室を当てがったが。あのバカ親父はカードを1日5枚は使って居た様だ。毎日数時間テレビを見て居たのだ。ある日。バカ親父はオムツをして居るのにトイレに行きたくなったと言い。身体中にさしてある管を抜いて自分でトイレに行こうとしたらしい。後から主治医と看護師から言われた「あんたの父親が何したか病室に行って聞いて見ろ!!」その当時はバカ親父は2人部屋になって居た。病室に行くともう一人の入院患者が言って居た。「下の始末なんざ、看護婦がするのになぁ、、あの人はオムツも外して廊下でうんちと小便垂れ流して糞尿まみれになったんだよなぁ」私はかわいそうだなどとは、とても思えなかった。どこまでバカなんだと思っただけだ。そして親父は肺癌と骨癌に罹り、病院から電話が掛かって来て。私と姉夫婦と弟が病院に呼ばれた。母はすでに認知症に罹って居て調子が悪くて寝て居た。そして担当医が言うのだ「もう手遅れ状態ですね、骨癌にも罹っているし肺炎にも罹っています。注射をしようと思うのだけども、すると死ぬ確率が高い。私はねぇ、患者から訴えられたくないんだ!!」そう言われ最後は安楽死を主治医から強要された....。弟は「あの医者、訴えてやる!!」と怒ったが、私が「辞めて於け」と言った。「お前も医者なんだから泥試合になるぞ」と言った。あんな手の掛かる末期癌の患者は早く始末すると言う事だ。医者は患者を治すとでも皆さん思っていますか。大抵の医者は患者は特に重症患者は見殺しにするものなのですよ。
さあ、、バカ親父とも最後だ。私はなんかスッキリした気がしていた。ただ癌の末期患者が収容される部屋に入って。口を開けて目を閉じて身体にチューブが刺さっていて。一見意識がないであろう。。横たわって居る親父の手を握り。「親父、、意識がない様に見えるけど、意識あるんだろう。あったら俺の手を握り返してみな」そう言うと。あのバカ親父は必死になって渾身の力で私の手を握り返して来た。そんな様子を見ていて弟が言った。「兄貴、金なら今1千万貯めた金がある。金なんてまた貯めれば良い。親父をもっと設備の整った良い病院に移して末期治療をさせる」と言ったが私が言った。「この人の運命が此れなんだよ。金はお前たちには子供がいるんだから大切に取って置きな。親父はもうダメなんだよ。散々周りに迷惑を掛けてくれて、、もう最後だな.....。」そう言って居たら母が病院に到着した。するとバカ親父は目を開けてこう言った。「鳥が居る。お母さんこの下は鳥屋なのかい?」そして「ショールが舞って居る綺麗だなぁ、あれお母さんのかい。」幻覚を見て居るのです。母も私も黙って居た。さて、これから、安楽死になるのだ。自業自得です。暫くして看護師が来て注射をした。そうしたら親父はかすれた声で何かを言ったが何を言ったかは聞き取れなかった。そして死んだ。。。
弟の嫁は泣いてくれたし弟も泣きそうになったが。私が泣かなかったから我慢した見たいだ。母はすでに認知症の毛が出始めて居た。母も無茶苦茶な事を言う様になって行った。弟の娘だから、母からしたら孫だが「あら、瑠璃ちゃんは豚おかめよねぇ〜!(笑)」と言うのだ。私が怒ってなんて事を言うんだと言うと「あら知らないの?おかめは美人の事なのよ?豚おかめ面白い!!」認知症だが、弟の嫁は真に受けて怒ってしまった。母も親父の最後は立ち会ったが私があえて母を親父から遠ざけて居たから。母は側で見ては居たが、よく臨終の際は解らなかったらしい。そして母は重度の認知症になって行った......。この様に特に男の認知症は始末に負えませんね。しかし私もこの親の子だ。自分が父親見たくはならない様に気を付けたいです。私の場合は両親とも認知症だし。私は統合失調症の病気持ちです。私は一見、健常人とは変わらなく見える。確かに此の間来た、訪問看護師の女性はkiyasumeさんは頭がしっかりして居るし。分別もある(おかしい事やおかしな身振りをしないと言う事)とは言ってくれては居るが。最近自分でおかしいと思う事がありますよ。病気のせいですね。でも私が飲んで居る向精神薬は、よく認知症の薬としても使われる場合がある。だから認知症の予防にはなって居るかなとも思えます。此処まで読んでくれて有難う御座いました。。。
私は若作りだ。今時こんな格好をしている初老の64歳の男は居まい。でも、そんなにおかしくは見えまいとは思う。しかしこの間、J:COMの営業が来て一緒に家の近辺を歩いて居たら。前から来た50歳ぐらいの奥さんがジーと私を見て居た。私は目が合わない様にしたが、しばらく自転車を押しながら見て居た。通り過ぎたら振り帰って見て居た。確かに、歳取ってから長髪にして居る人はあまり居ない。と言うか。ロン毛の若者も余り見ないご時世だ。最近は少しは増えては来たが。私は1970年代風ファッションをして居るだけなのだが、矢張り目立つのだろうと思う。ヘルパーのオバハンが「何時もちゃんとした格好をして居るけど、堅っ苦しくないの?」と此の間聞いて来た。私は少しびっくりして「なんで?」と聞いたら、「だって何時も白いワイシャツか黒いワイシャツを着ているじゃない?」と言う。「そうですね・・・」と言ったら、「それ汚れたらどうするの?」と言う。私がその時は洗濯しますよと言うと。「替えはTシャツ着ないの?」と聞いてくるので「Tシャツは、最近、黒い色の物しか殆んど着ないですね」と言ったら「へぇ〜〜。」と言うので、「替えのワイシャツはありますので、、」と言ったら。「いちいち洗うんだ〜」と言って不満そうにして居た。私は映画監督の小津安次郎がいつも同じ格好で居て、不思議に思った女優が小津監督の家に行った時、「監督が席を外した隙にタンスを開けたら。同じ服が沢山ハンガーにぶら下がって居たと驚いた」と言って居た話を知って居る。お洒落とはそう言った物だと思う。人間こだわりを持たないと行けない。今は、ファスト・ファッションの時代だ、みんな脱個性派の格好をして居る。それは言い方を変えれば世の中、世間に溶け込む方法でもある。1990年代に入ってから個性的な格好をして居る人はメッキリ少なく成った。私はその頃40代だった、そしてミリタリージャケットを羽織り生活をして居た。今やミリタリージャケットを着て居る人は少ない。ああ、以前に、松沢病院で同じ60代の親父が来て居たっけ....私は原田芳雄さんを真似ただけだが・・・。1990年代から2000年代に掛けてはミリタリーファッションが流行ったものだ。
しかし今は何来てもいい時代だと思う。私が、50代の頃、矢張り髪を長髪にして帽子をかぶり、長めのロング・コートを羽織って、冬場、認知症の母を連れて歩いて居たら、若者から「あの人、目立つ格好を仕手居るよな・・・」と声が聞こえて来た事があった。見るとその若者二人は安手のパーカーにマフラーを仕手居たが。最近の若者は虚栄心が強い。ちょっとカッコイイなと思う若者を見ると人の目を気にして男も女もスノッブな感覚で歩き始める。原宿のある人気ナンバーワンのカリスマ美容師の元には日本全国から若者がやって来る。皆んな彼による。カッコイイ髪型を求めてだ。しかしその美容師は注意深くその若者を見て、例えば前髪を長くして目を隠している若者には、「眼が大きいのだから、前髪を切ろうと思うのだけども、どう?」と聞く。若者はその美容師の言う事は意味があるのを知っているから任すのだ。そうすると俄然カッコイイ髪型にしてくれる。思えば若者はいい。美容師でもスタイリストなカッコイイ髪型に仕手呉れる美容師が居る。それに比べたら、年寄りには、そんな美容師は居ないし、大体が髪は短めにするのが決まり見たいな風潮がある。私はよく年配の方から「ご職業は、物書きですか?藝術家ですか?」と聞かれることが多い。そんな時は何時も「ミュージシャンです」と答えて居る。。。私は40代の頃の自分に戻しただけなのだ。それは20代の頃やら30代の頃に戻したいが、寄る年波には勝てない。此間、美容院でパーマを掛けて貰って居たら、57歳ぐらいのハゲ掛かって居る太った親父が髪のカットと染めに来た。私は此の男は何で床屋に行かないんだと思って横目で見て居たら、その男は真ん中が禿げて居るのに、周りの毛を短く刈って貰って居る。
そいつにこう言われた「あの人、女?何で髪の毛あんなに長くして居るの?俺は女かと思ったよ。フン!!」。私は自分よりも若いその男を反対に軽蔑の目で見てやった。「あんた歳幾つだ?長髪の歴史も知らんのか?バカはどうしようも無いな。日頃、競馬・競輪・パチンコあとエロ本しか、読んで居ないのだろうよ」と思った。美容師は私の手前何も言えなくて困って居た。私の住んでいる街にはカット屋が2店舗もある。髪を短くするのなら、そう言う処に行けばいいだろうに。そこだってサービスは良いはずだ。要するに単なる僻み以外の何者でも無いだろう。昔は1970年代から1990年代までは男も長髪の人が可也居たモノだ。何を見て一体何の教養を身につけて生きて来たのだ。最近もまた若者を中心として30代から40代の人が長髪にして居る。大体が人の勝手だ......。そして髪の毛だが、、私は2ヶ月に1回パーマを掛けて居る。、そして次の月には染色をして居る。私も生きても後11年程の歳になった。後11年で75歳ですよ。もう、あと6、7年は若作りを....。嫌死ぬまでだな。して行こうと思って居る。いいでは無いか。生きて居るうちだけだ。おしゃれで楽しめるのは。私はいい加減に自由になりたいのですよ。最近はある障害が薬の飲み過ぎで出てしまったから主治医が慌てて薬を全部外して新薬を少量だけ飲ます様にしてくれた。お陰で調子は少しは良くはなった。
「美」を創る仕事〜美容師としての四半世紀〜
【モーニングルーティン】セルフヘアセット術【高木琢也】スタイリング92歳の母親を在宅医療で医師に診て貰って居た。66歳の男が散弾銃で医師と作業療法士など3人に3発発砲して、医師を殺し作業療法士は重傷を負いながらも外に逃げて助かったと言って居た事件の裁判が、予約始まった。何なんだかなぁ、、医師たちは弔問に来て居たと言う。それなのに母親は心臓マーサージをすれば生き返ると言い張ったらしい。勿論死んで居るのだから。どう仕様も無い。その医師はその界隈でも親切丁寧に患者の面倒を見てくれて居たと言う。それなのに自分の母親を助けて貰えなかったとか、何言ってるんだか。老害だろ、、何でそうなるんだ。その男は母親に死なれてもうどうしたらいいか、解らなくなって自暴自棄になったとか言って居た。66歳にもなって、母親の死が受け入れられなかった馬鹿者だ。金が無かった訳では無いだろうに。母親は92歳だったそうだ、、ちなみに私の母親は今、94歳ぐらいになる。私の父はおそらく老年になって痴呆になったのだろう。馬鹿な事しか言わなかったししなかった。母は、アルツハイマー型の認知症だ。しかも年々具合は悪くなる一方だ。大体は生きているのかどうか?死んで居ても私には知らせて来ないだろうから。そして私は、統合失調症だから。亡くなった弟以外の姉弟、姉からは物凄い勢いで、嫌われて居る。此間。私のblogを興味本位で見て居た人が居た。他人に取ったら、さぞかし私のblog記事は面白いだろうね。
人は絶望すると他人を傷つける。皆んな生きて来た感謝を忘れて居る。私とて人を憎み、人を恨む事もある。しかし、それが自分の運命なんだと何時も何遍も言い聞かせて居る。それでも止まらなくなる事もあった。私は21歳から47歳まで、親父の会社で働いて、従兄弟らに散々嫌がらせをされた。一時は、余りの嫌がらせの為に怒りが収まらなくなり。包丁を鞄に入れて会社に行った事もある。その時はカバンを開けて、包丁を構えて居たせいか、従兄弟は何故か近寄っては来なかった。人は追い詰められるととんでも無い行動に出る。私はただでさえ統合失調症と言う病を持って居る。皆さんはこの病がどんなものか知らない。単なる頭がおかしい病気だと思って居る。はっきり言って人の言葉が突き刺さって聞こえてくるのですよ。ただでさえね。こう言うblogの文字でもそう。だから気が立って来るし、人から揶揄われたり、嫌味を一言でも言われたら、相手が許せなくなります。私は外見から話し方から少しトロく見られる。今までも、そのせいで散々馬鹿にされて来た。人は残酷だ。少しでも人と劣る様な人間は容赦はしない。
私の事はblogの写真でしか皆さんは知らない。私が日々体調が悪く、精神状態が悪いので。人間関係でどんなに悲しんで、自暴自棄になって居るのかを知らない。もっとも知った処で、どうにも出来ないと思う。人は無力だ。でもそれだから・・・、いやただ、他人は見て居るだけしか出来無いと思う。私の弟は外科医だった。嫁さんを貰って、子供が双子が産まれそれから女の子が生まれた。3人の子持ちだった。私はその子らを自分の子供の様に思って可愛がって接して来た。しかし弟と嫁は離婚をした。何故なら、嫁さんは看護師で、弟とはすれ違いの生活だったからだ。私に嫁は居ない。結婚は障害の病のせいで出来なかった。でも此間、私もいい加減に寂しくなった。だから、ある、サークルに入って見た。私が60歳の頃だ、だから50代ぐらいの女性のお茶飲み友達でも欲しいと思ったのだ。しかし、自分の紹介欄を書く段になって、よもや統合失調症だと本当の事は書けない。だから、心の病と一言だけ書いた。結果。断りの通知が来ました。丁寧な文ですが。。
私を診てくれて居る訪問看護師さんは居る。しかし、あくまで仕事で私のことは患者としか診ては居ない。ヘルパーさんも来るが、私がケアマネージャにキチンと掃除をしてくれない時がたまにあると言ったら。「あくまでヘルパーさんで家政婦では無いからね」と言われた。私のことは皆そうだ。人より劣った人間としての認識でしか無い。この間は検査だった。肝臓が悪いと言われた。心臓も少し悪いそうだ。私は今、体の状態も最悪だ。今このblogを書きながら、病院モノのお産のドラマの話を聞いて居る。赤ん坊が生まれて来るのは大変な事だ。ましてや成長するのは奇跡的な事だ。しかし障害を生まれながらにして持った赤ちゃんが生き様と頑張って居る。私は今、台詞を聴きながら、涙ぐんで居る。医師はそれぞれに最大限の努力をして居る、、だから此間の66歳の身勝手な男は許せないのだ。在宅医療の医師に感謝こそあれ、敵意を持つとは何事だ!!。親はいずれは死ぬものだろう。最近は人の繋がりを求める。特に中年男性が多いと思う。前に「55歳の純情」と言うドキュメンタリー番組があった。彼は21歳の地下アイドルが好きになった男性だった。彼はその歳まで恋人も居なかった。ただ、21歳の地下アイドルを応援したくなったのだった。
彼は必死になってその子を応援した。時にはペンライトを振りながら、そして。時には紙テープを投げて応援して居た。彼女も彼の事を疎かにはしなかった。でも別れは突然やって来た。彼女が参加して居たユニット・グループが突然解散したのだ。それでも彼女はTwitterのアドレスを彼に教えた。それ以来、彼は彼女の前には現れなくなった。Twitterで彼女の近況を知る以外すべはない。別れは突然やって来る。私の、最後の好きなタレント?に青木志貴ちゃんと言う子が居る。彼女はもう32歳になった。今年で。しかし私は彼女を応援して居る。彼女は可愛い女性だ。歳の割に可愛いのですよ。それは彼女の持って生まれた性格だ。ただ可愛いのなら猫と一緒だ。しかし彼女は、優しいのですよね。あるYouTubeの動画で年越し蕎麦を食べながら、新年まで皆んなと過ごすと言う番組があった。その時にファンの皆んなが彼女にお年玉を寄付し出したのだ。普通ならどうだろうか、嬉しいと言ってはしゃぐのでは無いだろうか?
しかし彼女は違った。何と「皆んなに悪いから、いいよ、いいよ、わ~~!。そんなに寄越さなくてもいいからね」と言い出したのだ。そう言えるのが彼女の優しさだ。決して驕らず。そして控えめなんですよね。彼女は、自分の事を精神的には男だと言って居ますが、彼女は女だ。賢く優しい女性だ。私は彼女を見て居るだけで、それで満足です。でも此間、彼女が所属して居る三木プロダクションにメールを入れて見た。何故なら、私は彼女の写真をblogに貼り付けて居るからです。私は正式に了承を得たかったのです。しかし勿論何の返事も来なかった。当たり前ですね。でも私にやめてくれとも言わなかった。ちょっとグレーゾンだが、それで、いいとします。私は彼女を直に見たいとは思わないし。彼女と彼女の若いファンたちの輪の中に入ろうとも思わない。私は彼女のYouTubeの映像だけを、見て居るだけで満足なんですよ。私は彼女の事を娘の様に思って居るのだから。私を見て居て、誰でもが嫌だろうと思いますよ。でも精神病は苦しいものですよ。特に私は死んだ弟と姉から阻害されて来た。親に言われて無理をして、会社に行っても嫌がらせしかされなかった。弟も死んだ。姉は私に母の居場所を教えない。私が何をしたと怒りたくなるが。もういいのですよ。さてと私はあと何年生きられるだろうか?前に死にたく思うと言ったら私の恋人が「私のために死なないで」と言ってくれた。彼女だけが私の支えになってくれて居ます。彼女とは1年前に知り合った。彼女はイラストレーターで、アニメーターで勝手は漫画家だった。私とは馬が合った見たいだ。彼女も可愛い人だ。この先、私にはどんな運命が待ち構えて居るのだろうか...。
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=ハードロックの定義=
初期の標準的なスタイルはブルースやブギーを基調としたラウドなサウンドのロック形態を取った。歪んだ音のエレキ・ギターを強調したサウンド形態も特徴である。1960年代後半に誕生した。
初期はサイケデリック・ロックやブルース・ロックの混合物としてスタートし、1970年代前半にはハードロックの呼称が定着し、全盛期を迎えた。
ハードロックとヘヴィ・メタルの微妙な相違点を定義づけるのは難しい。ただ例をあげると、グランド・ファンク・レイルロードは黒人音楽の強い影響を受けており、ハードロックではあるが、ヘヴィ・メタルとは呼ばれない。またディープ・パープルも、70年代にはハードロックと呼ばれ、ヘヴィ・メタルという言い方はあまりされなかった。また、ヘヴィ・メタルと言う名称も比較的早くから存在しており、「レッド・ツェッペリン」、「ブラック・サバス」などが、典型的なスタイルとされる。
ハードロックなどロック分野だけに留まらず、ポピュラー音楽の発展はブルースとの関連抜きに語る事は難しい。ブルースは、もともとは奴隷状態下に置かれたアメリカの黒人の労働歌やワークソングを唄ったものに起源があり、これ故「簡素で分かりやすい形式」(I→IV →Vを基本形とする単純なドミナント)であり、またその境遇故に唄われる内容は少なからず、プロテストな色彩であった。ジャズもブルース起源である。ただジャズはインストルメンタルの楽曲が多いため、ビリー・ホリディやマックス・ローチらを除けば、辛辣、痛烈な批判を暗喩にしたり(奴隷であった彼らは、白人への不満を直接的に口にできなかった)、直接的に伝えることが難しかった。また、アメリカに於いては黒人人口も多く、ロックン・ロールやロカビリーなどの、カントリーに黒人音楽のブルースやR&Bを混合した音楽が発達した。1950年代は、アメリカのロックンロール、ロカビリーが、世界のかなりの数の若者の心をとらえていた時代である。
イギリスではスキッフル・ブームの後、より直接的な感情の発露の手段として、ブルースが若者の心をとらえたことから、ブルースを基調とする音楽を演奏する者が次々現れた。60年代には、イギリスではちょっとした「ブルース、ブルース・ロック・ブーム」になった。これが、イギリスにおけるハードロックの原点である。アメリカでも、原点であるブルースに回帰する流れの中に、60年代後半のキャンド・ヒートやポール・バターフィールドなど多くのバンドがいた。
ロックはブルースから簡素でわかりやすい形式、プロテスト的な歌詞」を受け継いでいるが、黒人文化には直接的に影響を受けていない白人が再解釈したものである。白人の音楽は、「跳ねるリズム感覚」(俗に「黒っぽさ」とも言われる)は希薄だった。リズムが跳ねた感じになるのは、「”裏拍”にアクセント」が置かれているからである。クラシック音楽は、ロックと同様「表拍にアクセントがある」のを基本としており、欧米の白人文化圏は、そもそもクラッシック音楽文化圏なので、ロックも跳ねるサウンドを奏でることが難しかった。
70年代になると、ブルース色はロック性へと昇華(基本的には同じもの)、70年代ハード・ロック黄金時代が到来。
Deep Purple - Wasted Sunsets
SYMPATHY -RARE BIRD 1969
Ningen Isu / Heartless Scat(人間椅子 / 無情のスキャット)
Judas Priest - The Hellion / Electric Eye (Live from Battle Cry)
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「アメリカ南部で「デルタ地方」といえばミシシッピー州北西部にある、二本の河川の氾濫によってできた広大な沃野をいう。河口のデルタと区別して「内陸デルタ」といったりもする。ミシシッピーデルタの北端はテネシー州のメンフィスで、南端はミシシッピー州のヴィックスバーグである。デルタの広さは東京都の面積の10倍近い。木の葉形の平らな大地だ。ミシシッピー川が西の境で、東の境はヤズー川およびシルトのローム層の台地である。地形的にもっとも東西に膨らんだところの直線距離で130キロほどある。20世紀のアメリカ音楽のルーツをたどると、この果てしなく続く空と、まっ平らな大地に行き着く。」
(2)テキサス・ブルース
ミシシッピー・デルタに匹敵するブルースの故郷としてテキサスがあります。この地域のブルースマンにはギターの名手が多くリズミカル&ダイナミックなブルースが生まれる土地柄だったといえます。
初期のブルースマンとしては、ブラインド・レモン・ジェファーソンがいます。彼と一時期行動をともにしていた直系のブルースマン、レッドベリーは、波瀾万丈の人生の後、ニューヨークに移り住み、数多くのフォーク・ミュージシャンたちにブルースの何たるかを伝える役目を果たすことになります。ボーカリストとして活躍したテキサス・アレクサンダーも、その名のとおりテキサス出身で、彼はギタリストとしてロニー・ジョンソンを従えていました。
(3)アパラチア山脈周辺のブルース
アメリカ建国の歴史において、最も古い歴史をもつ土地、バージニア州。スコットランド系アイルランド人の移民が多かったアパラチア山脈周辺のこの地域には、バラッドの文化がどこよりも強く残されていました。そのため、この地にやってきた黒人たちの音楽にも強い影響を与えることになります。こうして、バラッド色、弾き語り的要素の強いブルースがこの地では育つことになります。ジョシュ・ホワイトらのブルース・ミュージシャンは、すぐ北にあるニューヨークへと渡り、そこでフォーク系の白人ミュージシャンたちに大きな影響を与えることになります。ニューヨークのフォークに最も大きな影響を与えたのはこの地域のブルースかもしれません。
<ブルースの特徴>
こうして生まれたブルースについて、黒人音楽研究家のリロイ・ジョーンズは、3つの特徴をあげています。(「ブルース・ピープル」音楽之友社より)
これは、オリジナルの歌詞で黒人霊歌を作りながら英語をマスターしていった黒人たちが韻を踏むテクニックまでも自分のものにしたことで、初めて可能になったことです。それは、彼らが初めてすべての黒人たちにとって共通な言語を獲得したということの証明でもありました。さらにここから、現在のラップ・ミュージックに至る黒人たち独自の音楽・言語スタイルが生まれることにもなるのです。
それまでの黒人音楽は教会か労働の現場において集団で歌うものでした。当然、そこで歌われるのは「神への讃美」か「労働のためのかけ声」でしたが、一人で歌う歌にはそれとは別の対象「個人」もしくは「自分」が登場するようになったのです。そして、集団ではけっして歌うことのなかった自分自身の本音や隠された欲望など、「心」の内側を歌うことができるようになったのです。こうして、「恋」「セックス」「金」「悪魔」「不倫」「殺人」などについて歌う歌、「ブルース」が誕生することになるのです。(もちろん、ブルースでも「神」について歌われる曲はいっぱいありますが)こうした、ブルースの主なテーマは、その後ポピュラー音楽の歌詞にとって大きなインスピレーションの源となり続けることになります。
それまでの黒人たちの歌は、どれもアカペラで歌われていました。しかし、ギターという自分でも作ることが可能な単純な構造の楽器の普及と自由な時間を利用することで弾き語り形式の演奏が可能になったのです。
<ブルースを生んだ時代背景>
こうして初めて、黒人たちは自分たちの心の奥に潜む欲望や悲しみを、自分たち自身の言葉で表現することができるようになったのですが、それにはもうひとつ重要な時代背景の影響がありました。それは奴隷解放が行われ、黒人たちに自由が与えられるようになった19世紀半ば以降、その反動として南部では黒人へのリンチが激増、さらには州ごとに黒人を差別する州法が次々に成立。レストランや劇場だけでなく水飲み場までもが分離されるようになり、奴隷制以前よりも厳しい差別の状況が生み出されていたのです。その影響がそれまで神への歌しかなかった黒人たちに新たな悲しみのはけ口を必要とさせたのかもしれません
「ブルースとは、心の状態であるとともに、その状態に声で表現を与える音楽である。ブルースは捨てられたもののすすり泣きであり、自立の叫びであり、はりきり屋の情熱であり、欲求不満に悩むものの怒りであり、運命論者の哄笑である」
ポール・オリバー著「ブルースの歴史」より
「アメリカにいるアメリカ人が自分たちはアメリカを離れることなどないと気づいた瞬間からブルースは始まった」
リロイ・ジョーンズ著「ブルース・ピープル」より
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