【ボイスサンプル】青木志貴
最近撮ったKiyasumeの写真です、ふぅ〜〜老けたなぁ〜〜!!もう64歳だものなぁ、、
kiyasumeの演奏するジャズ・ブルース(エレキギター)です、また聴いてやって下さいね。。。。
ジャズ・ブルース。
もし昭和の美人女優たちが同じ年齢のまま現代にタイムスリップしてきたら、どんな姿なのでしょう。昭和の美人女優たちを「今っぽく」してみた動画が話題になっています。
動画に登場する女優は、原節子、高峰秀子、若山セツ子、山本富士子、八千草薫、岡田茉莉子、南田洋子、若尾文子、司葉子、デヴィ夫人、岩下志麻、加賀まりこ、吉永小百合、ひし美ゆり子。
昔の写真でも十分綺麗ですが、もし現在若者だったらこんな風に見えるのですね。
動画には「むしろ今の芸能人達よりも美人」「今の人も可愛いけど、前の人はほんんんっとにきれい」「やっぱり美人はいつの時代も美人」などのコメントが寄せられています。
昭和の美人女優を今っぽくしてみました #1
昭和の美人女優を今っぽくしてみました #2
昭和の名女優をAIで現代化してみました
【猫と赤ちゃん】赤ちゃんと添い寝し、赤ちゃんをあやす猫に胸キュン!ほっこり動画まとめ【可愛い】Sweet cat and baby compilation
===「レコードの思い出」===
なんか、、メガネが斜めに傾いて居る......。
しかし、本当に新宿はつまらなくなった。人は出ては居るが、活気が無いのだ。全然面白く無くなってしまった。まだ15年程前は、こんなでは無かったのに。大体がデパートのすぐ脇にUNIQLOがあるし。デパートは売れては居ない。
最早、リアル店舗が駄目なのだ。紀伊国屋書店に行くが、興味の引く本を置いて居ない。18年位前までは思想書、哲学書などが売り場に置いてあったが。今や、売り場さえ無いのです。芸術関係の書籍も置いて居ない。だからか客が居ないのです。置いてあるのはビジネス書とパソコン関係の本だけだ....あと小説。リアル店舗の本屋よりネットの古本屋の方が買うべき本が沢山ある。本屋が廃れて行くのには理由があります。買いたい本が無いのですよ.....
新宿のディスク・ユニオンぐらいか観られる処は・・・
『月刊漫画誌「ガロ」』
『月刊漫画ガロ』は、1964年から2002年頃まで青林堂が刊行していた漫画雑誌。大学生など比較的高い年齢層の読者に支持され、独創的な誌面と伝説的経営難の中で独自の路線を貫き漫画界の異才をあまた輩出した。初代社長兼編集長は、青林堂創業者の長井勝一(ながい かついち)。1998年からは青林堂の系譜を引き継いだ青林工藝舎が事実上の後継誌『アックス』を隔月で刊行している。
『ガロ』は先見性と独自性で一時代を画し、単なる漫画雑誌には止まらない足跡を出版界に遺した。また、独自の作家性を持つ個性的な漫画家たちの作風は「ガロ系」と呼ばれ、『ガロ』出身ではない作家でも「あの作家はガロ系」としばしば表現される。彼らの作風は、海外のオルタナティブ・コミックの作家たちとも親和性が高い。
日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』は、それまで貸本漫画の出版などで知られていた編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により1964年7月24回に創刊された。誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取っているほか我々の路すなわち「我路」という意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあった。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥である。題材・内容とスケールから連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とすることが創刊の最大の目的だった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためという側面もあった。
長井勝一は後年「執筆者が7人以上いないと雑誌と認めてもらえなかった」と創刊時を振り返っており、水木しげるや白土三平が複数の名義を使い執筆者を水増ししての創刊だった。当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて刊行された。雑誌のロゴも白土が発案し、レイアウトのほとんどを白土が構成した。表紙のレイアウトは週刊誌『朝日ジャーナル』を意識した。『ガロ』に触発された手塚治虫は虫プロ商事より『 COM』を創刊、『カムイ伝』に対抗した『火の鳥』を連載する。ともに全共闘時代の大学生に強く支持されていった。
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、長島慎二などがレギュラーとして作品を発表していた。新人発掘にも力を入れていた当時の青林堂には、毎日のように作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れた。
『ガロ』は商業性よりも作品を重視しオリジナリティを第一としたため、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表できた。また、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。こうした事はそれまで漫画という表現を選択する事のなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。発刊3年後の1967年には、主に『カムイ伝』を目当てにした小学館による買収および、当時の同社の中学生以上の男性向け雑誌『ボーイズライフ』との統合話が持ち上がったが、破談に終わる。
1971年に『カムイ伝』が終了すると『ガロ』の売上は徐々に下降線をたどるようになる。当時編集部に在籍していた編集者であった南伸坊や渡辺和博らが一時編集長となり、面白ければ漫画という表現に囚われぬという誌面作りを提唱(=「面白主義」)した。その結果、サブカルチャーの総本山的な立場として一目置かれつつも、単行本の売上で糊口をしのぐという状態が続いた。この時期大手出版社から買収の話も持ち上がるが、長井はこれを拒否したと言う。一方で『ガロ』を強く意識していた手塚治虫の『COM』は『ガロ』のように「原稿料ゼロ」と言う訳にはいかず、1971年末に廃刊する。
1980年代に入ると部数は実売3000部台にまで落ち込み、バブルで金余りの世相にありながら、千代田区神田神保町の材木店の倉庫の二階を間借りして細々と営業する経営難を経験する。この頃になると社員ですらまともに生活ができないほど経営が苦しくなった。原稿料は長井による「儲かったら支払う」と言う「公約」のもと、すでに支払を停止せざるを得なくなって居た。ただ、本当に生活できない漫画家には1ページに500円ほど支払う事もあった。
それでも長井社長を支持する歴代の作家陣などの精神的・経済的支援と強い継続の声により、細々ながら刊行は続く。そして読者は一部のマニア、知識者層、サブカルチャーファンなどへと限られていった。その一方で「『ガロ』でのデビュー=入選」に憧れる投稿者は依然多く、部数低迷期にあってもその中から数々の有望新人を発掘していった。新入社員も1名を募集すると100名200名が簡単に集まったと言う。
この時期は完全に単行本の売上によって雑誌の赤字を埋めると言う、いびつな体制になっており、社員編集者たちは『ガロ』以外の媒体からいかに単行本を刊行させてくれる作家を見つけるか、また実際に編集の合間に営業や倉庫の在庫出しや返品整理をするなどして、『ガロ』を支え続けた。
1980年代後半に、長井が高齢と経営悪化を理由に、『ガロ』や青林堂の売却を周辺に漏らすようになる。長井周辺では、関わった作家や編集者などが、できるだけ長井と当時の編集者たちによる体制を維持できる譲渡先を探る事に奔走する事になる。その中で、PCソフト開発会社のツァイトを経営する山中潤が浮上(仲介をしたのは松崎呉一)。長井らと数回の会談の結果、彼が青林堂の経営を引き継ぐ事となる。山中は1990年9月、青林堂代表取締役社長に就任(長井は会長に)。長井勝一と『ガロ』、青林堂は三位一体であると改めて確認し、そのかたちを維持させながら、慎重に会社としての経営、財務と営業、また出版社としての編集体制などを建て直す事に着手する。
1992年には長井が編集長を辞し、山中が編集長に就任。『ねこぢるうどん』や『南くんの恋人』のヒットや映画のタイアップ企画などで単行本が好調となり、また本誌の売り上げも「名作劇場」や「特集」の導入、サブカルチャー情報を大量に掲載するなどして向上させた。1993年には月刊『ガロ』創刊30周年記念作として、障害者プロレスのドキュメンタリー映画『無敵のハンディキャップ』(北島行徳原作)を製作。また、経営母体となるツァイトでも『ガロ』の漫画をPCゲーム化、1994年には青林堂とツァイトとの共同であがた森魚監督による映画『オートバイ少女』を製作するなど、メディアミックスを積極的に展開し、原稿料も幾らかは支払われるようになった。この時期の『ガロ』はページ数もさる事ながら、全体に対する文章の占める割合がかなり増え、サブカルチャー情報誌としての性格が強く成って行った。
なお、当時の「事件」として、1993年、当時雑誌『SPA!』に『ゴーマニズム宣言』を連載していた小林よしのりが、「御成婚パレードでオープンカーに乗った皇太子妃雅子が“天皇制反対ーっ”と叫びながら、オープンカーから周囲に大量の爆弾を投げつける」という漫画を描き、『SPA!』に掲載拒否されて、『ガロ』に持ち込み掲載される、と言う出来事があった。
順風満帆に見えた『ガロ』であったが、親会社のツァイトがPCソフトのプラットフォームがMS-DOSからWindowsへと変わる時代の変化に乗り遅れ、経営が徐々に悪化する。また1996年には創業者であり、長年『ガロ』の名物編集長で青林堂の顔でもあった長井が死去する。
その後、来るべきインターネット時代を先取りし、1997年当時としては画期的であったインターネットとコミックの融合雑誌『デジタルガロ』(編集長・白取千夏雄)刊行に着手する。だが編集部内では、インターネットを『ガロ』にはそぐわないものとする守旧派と白取ら推進派が対立し、その結果白取は『ガロ』副編集長のままツァイトへ移籍して『デジタルガロ』の編集にあたると言う、変則的な事態を迎える事と成った。
この先見的な試みは、山中社長が強引に搬入部数を10万部まで増やしたため結果的に失敗(最終的な実売は15000 - 18000部)に終わり、大赤字を出す事となった(ただし、白取は「ガロを立て直し、90年代に部数を3倍に伸ばし、法人としての株式会社青林堂を黒字で数億円の売上高に回復させたのは、他でもない山中さんの手腕だ」との証言をして居る)。
しばらくして山中が体調を崩したため、山中と旧知の仲であるコンピュータ業界の先輩・福井源が社長代行となったが、元々山中体制に不満を抱えていた手塚能理子(当時青林堂取締役)以下の社員が申し合わせ、事前連絡も無いまま保管してあった作家の原稿を持ち去り、FAXにてツァイト宛に7月7日付で、副編の手塚を筆頭に青林堂編集部員全員の辞表が送られ、一斉に集団退社するという事件が発生する。同時に彼らはマスコミや取引先を通じ各方面へ「青林堂は版元として終わった」との声明を広く流布した。マスコミはその内容を詳細に検証する事なく報道を行なったため、青林堂と経営母体であるツァイトには大きな風評被害が及んだ。
退職した手塚能理子ら元青林堂編集部員達は長井勝一が生前に「何かあった時にこの名前を使え」と遺した「青林工芸舎」を社名とした新出版社「青林工藝舎」を青林堂の後継と称して立ち上げた。内紛騒動の顛末は、青林堂と青林工藝舎との間で訴訟継続中であったが和解で終了した旨が『ガロ』2002年2月号に掲載された。しかし、休刊騒動の取材を受けた元青林堂社員らは「当時の事は思い出したくもない」と取材を拒否しており、休刊騒動の真相をついに語る事はなかった。
それがきっかけとなりツァイトは倒産し、『ガロ』は休刊に追い込まれた。その後、編集長に長戸雅之を招き、新社員を募集。1998年1月にいったん復刊したが1998年9月に『ガロ』は再び休刊した。
ツァイト社倒産後、青林堂の援助をしていた「大和堂」社長の蟹江幹彦が引き継いで社長となった。大和堂体制となった『ガロ』は2000年1月号より復刊するが2001年なかばより隔月刊、2002年には季刊となり、オンデマンド版(いわゆるネット上での通販)として販売形態を変更したが2002年10月発売の1号が刊行されただけに終わり、実質発行の無いまま現在に至って居る。
その結果、正式な本誌としての『ガロ』は『漫画ガロ/2002年10月/秋号(通巻426号)』を以てして最終刊行号とされ、新刊としてはこれが最後のものとなった。
予告されていた『ガロ』427号は現在まで刊行されず、事実上の廃刊状態となっているが、休廃刊の公式アナウンスはない。2010年9月30日に青林堂(大和堂)はiPad用の電子書籍アプリとして『ガロ Ver2.0』の販売を開始したが、わずか2号で廃刊となった。これは『ガロ』と関係のない同人誌系創作漫画のアンソロジーであり、近年の若者向けであった。
2010年に入ると青林堂は保守系雑誌『ジャパニズム』を創刊。半世紀に渡ったサブカルチャーの専門出版から事実上撤退し、ガロ時代とは異なる雰囲気の出版社と成って居る。1997年に退社した手塚能理子ら元社員達は青林堂の後継を称した青林工藝舎を設立。旧ガロの漫画家や新人などによる『ガロ』の事実上後継雑誌『アックス』を隔月で刊行しており、ガロ時代の青林堂の気風を現在に伝えて居る。
「ガロ」年表。
- 1964年(昭和39年)7月24日 - 『月刊漫画ガロ』創刊。部数は8000部。白土三平が4号目より『カムイ伝』の連載開始。
- 1966年 - 『カムイ伝』が人気を呼び、発行部数が延びる(80000部)。
- 1967年- (ライバル誌『COM』創刊)
- 1971年 - 『カムイ伝』連載終了。
- 1980年- 次第に『ガロ』の人気が低迷するが、一方で有力新人を次々と発掘して行く。
- 1990年 - 青林堂からツァイトに経営譲渡。ツァイト社長の山中潤が青林堂社長に就任。
- 1992年- 長井が1月号から編集・発行人を退き会長に就任。山中が編集長となる。
- 1993年 - 宮城県塩竈市で「ガロとマンガとマンガ文化」開催。
- 1994年- 「月刊ガロ創刊30周年記念パーティー」。
- 夕張国際ファンタジック映画祭に30周年記念製作映画『オートバイ少女』が招待され、新宿シネマアルゴにて一般公開される。
- 1995年- 長井、日本漫画家協会賞選考委員特別賞受賞。
- 1996年- 長井死去。享年74。
- 1997年 - 2月、インターネット・マガジン『デジタルガロ』発刊。『ガロ』本誌8月号で一時休刊(7月7日付で全社員が退社したため)。
- 青林堂全社員退社が引金となり親会社の株式会社ツァイトが倒産。
- 1997年 - 福井源が青林堂社長に就任し1998年1月号より復刊するが、1998年9月号で再び休刊。
- 2000年 - 1月号より復刊。
- 2001年- 6月号まで月刊、8月号より隔月刊化。
- 2002年 - 4月号まで隔月刊、次号の7月号より季刊化。12月発売号よりオンデマンド出版に移行するも1号で終わる。
- 2010年 - 9月30日、iPad用の電子書籍アプリ『ガロ Ver2.0』発刊。10月1日、2.01を発刊。
- 2011年 - 1月、Ver.2.02を発刊。その後DLsite.comやDMMからは2月に2.03が出るがすぐに消滅。iPad用アプリが出る事はなかった。そのまま廃刊となる。