最近、また、頭に来る事があった。此の間、歳を取ったヘルパーと話して居る時に生活保護費が幾ら貰えるかと言う話になった。私は生活保護費は13万6千円ぐらいだけど、自分の場合、障害者加算が1万6千円ぐらい付くので、15万円位は貰えるだろうと言ったら。ヘルパーが皮肉を言い出した。「へー。居住費5万なんだから10万円も生活費使えるの〜」まるでその金額が贅沢だと言わんばかりだ。そしてこう言う。「〇〇さんはどこも悪く見えないわよ。どこ悪いのさ。」だから私は「薬の後遺症もあって身体が動かないんですよ」と言うと「だって、今こうやって何とも無いじゃない?」と言う。私はこの人も私に敵意を持って居るのだなと思ったが、続けて言った。「昼すぎから3、4時間寝て仕舞って、夕方5時から1時間ぐらいに渡り眠くなるんですよ」と言ったら。「じゃあ、先生に言って自分は大丈夫だから薬を外してくれと言えばいいじゃない?」と言う。私が仮病を言って居るとでも思って居るのか?。そして「〇〇さんは何で薬なんか処方されて居るの?先生は何なのよ」と言う。だから「薬を飲まないと、ダメなので」と言った。
要するに「15万円も働かなくて貰えるなんてふざけるんじゃないわよ」自分は「ヘルパーなんて嫌な仕事をしても月に10万ぐらいしか稼げない」と言いたいのだ。大体が「他の統合失調症の患者を見て居てもあんたなんかより皆んな重症よ!!」と言いたいのだろう、私はまた、殆嫌になった。大体がこの歳取ったヘルパーはこう言う事を前に言って居た。「私の近所に中国人の幼稚園があってさ、その園児たちが道に連なって歩いて居るのよ、邪魔なんだよね、その中国人の園児たち。此処は日本なんだから、いい気になって大勢で大手振って歩かないで貰いたいわよ!!」そして音楽の事を話して居てこうも言う「エルトン・ジョンなんかキモいわよ。あいつは同性愛者のホモだからさぁ」そして言う事は「中国人なんて何よ!!人の国に来てデカイツラをして居るんじゃないわよ!!」そして自分がお勝手で洗い物をして居た時に私がテレビの音楽映像に合わせてブルースハープを吹いたら、急いでやって来て言う。「テレビで流れて居るにしては変だと思って居たら、ハーモニカなんて吹くの?」。まるで障害持って居るのに楽器演奏出来るじゃない?とでも言いたげだ。要するに、障害者は障害者らしくしていろ。また、私が調子が悪いそぶりをそのヘルパーに見せないから、私が調子が悪いのは嘘だと言いたいのだろう。
ヘルパーなんて仕事をして居る人間は皆んなそんな風なのか?訪問看護師も以前、私が部屋でブラウンのシャツにブラウンのジャケットを着込んで居たら、やって来てドアを開けた途端に「あら!何でそんな高価なちゃんとした格好をして居るのよ!!」とか、「前は〇〇さんはどうしようもなかったくせに、今は、やにお洒落じゃない!!」とか言う。今は今だ、入院時に比べたら症状はいい方だ。私の来て居るものはGUとユニクロのものだ。高価なものでは無い。訪問看護師たちは、私が障害を持つ様になって、障害の程度が悪い時しか知らない。だから私は彼女らに昔の自分の事を言うのだが、大抵はバカにし嘘を付いて居るか病気のせいの戯言だろうと言った風にしか受け止めない。前に、デザイナーズマンションに居た頃、CDラックに置いてあるCDが1枚無くなった事がある。1枚だけ抜き取られて居るのだ。私は他人が部屋に入るとダメだなと思った。酷い時は私の愛機であるハーモニカ・アンプ「ハーピスト」の上に置いてあるマイクのコードのジャックがそのアンプのスピーカーに突き刺さって居た事がある。私はどうしようもないなと怒りながら破れたスピーカーを補修した事があった。人は醜い。特に女は醜い?。私は女性不振になりそうだ。一体何なのだ。どうしてそう醜い心を持って居るのだ。私は此の間ヘルパーの一人に怒って嫌味を言った。そのヘルパーは私に「カセットデッキなぞ、どうせすぐに壊れるよ!!」と皮肉を言ったからだ。
そうしたら、その歳を取ったヘルパーが此間だ来て言う。「あの人は〇〇さんが、最近太るから、注意して見てやってくれと言って居るよ」と言うのだ。白々しい。此間そのヘルパーが来た時に言うのだ。「〇〇さんは私たちが掃除する以外に掃除するの?」だから私は言った。「しませんよ。」そうしたら言って居た。「掃除は週1回やればいいよねぇ」せっかくヘルパーに来て貰って居るのだ。自分では掃除はしない。ヘルパー代は国が負担して居る。区役所が払って居るのだ。そしてヘルパーはそれを重々知って居るはずなのに、ちゃんと仕事をしないのだ。いつも手を抜こうと考える。そんな事なら自分で掃除をしたくなる。ただ身体が言う事を聞かないのです。そしてヘルパーと訪問看護師に言いたい。私は何も悪気は持って居ないのだ。敵意を向けて来るのは辞めてくれ。あなた方が、仕事で大変なのは解る。でも仕事だよ。その仕事が嫌ならば辞めればいいだけですよ。ああ、愚痴になって居ますね。私は週一回やって来る、30代の訪看が救いだ、素直なのだ、そして此方の状態を良く見て居て、適切な助言をくれる。その人が来る日は気持ちが晴れやかだ。もしかして、彼女らはこのblogを見るかも知れないね。少し考えて下さい。
ヘルパーさんのお仕事とは?
昔、若松孝二監督が言って居たけど、、漫画家の赤塚不二夫さんは実にいい人だと言って居た、そうそうタモリも同じ様な事を言って居たっけ、二人とも言う事は赤塚さんは善人だったと言う事だ。例えば新宿に「思い出横丁」と言う処がある。此処は勝手「ションベン横丁」と呼ばれて居た。1960年代そこには芸術家やら映画監督や俳優、ミュージシャンと言った文化人たちが集まって居た。そこで映画監督の若松孝二は良く酒を飲んで居たそうだ。そこには赤塚不二夫も良く来て居たらしい。或る晩、若松監督は酔った勢いもあって赤塚さんに、「唐十郎がさあ、自分の芝居小屋であるテントが無いと言ってるんだけど、赤塚さん費用出して挙げたら」と言ったそうだ。すると赤塚不二夫はその時はちゃんとした事は言わなかった見たいだけど。それから1週間程して300万の金を持って唐十郎の居場所を探したらしい。そしてその日は大雨が降って居るのにも関わらずに、その飲み屋に居た唐十郎に300万円を挙げて帰って行ったそうだ。生前、若松監督は「赤塚さんの前ではちゃんとしなくては成らないと思いましたよ。彼に誘われたら、どんな事があっても付き合いますよ」と言って居た。またタモリは、自分がまだ全然売れて居なかった頃、クラブで「4カ国語麻雀」と言う話をして居たら赤塚さんが来て「タモリ!お前は面白い。今日から俺のマンションで暮らせ!!」と自分が住んで居たマンションを家具や衣類ごと私にくれたと言って居た。赤塚さんは太っ腹だったのだ。赤塚不二夫は言う「自分は最低なバカだと思って居ればいいんだよ。そうすれば色々学べるし利巧にもなるから」と言って居た。また俳優の高倉健は何時も撮影の時に携帯ポットの魔法瓶に美味しいコーヒーを入れて持って来ては、役者に留まらず、照明係や、メイク係に飲ませたらしいです。
大物になる人は、持ち合わせた能力を生かしながら、要領を得た行動パターンや習慣を日々実行して居ます。大物になる人に共通する特徴があります。それは生まれながらにして物怖じせず、どんな時にも堂々として居るのが、大物になる人の特徴のひとつです。相手の年齢や性別に関係なく、誰とでも自然と打ち解けられ、人からのサポートを受けやすい人徳も兼ね備えて居ます。自らの意思によって一度やると決めた事は、最後までやり抜く根気の良さと責任感があります。大物になる人は、絶対に軽はずみな返事をする事はなく、自信を持って責任が持てる範囲内で、最善を尽くすように心がけて居ます。まさに有言実行を体現できる人です、そしてちょっとした変化も見落とす事が無い程の優れた洞察力を持って居ます。自分の周囲の人々の動きや考えなどにも気を配り、自分自身がなすべき事を的確に見極めて行動を起こす事が出来ます。わずかな兆候や変化を読み取り、一を聞いて十を知る事が出来る能力にも長けて居ます。
大物になる人は、他の人と同じ事をして居ては、何事も成功する事は無いと考え、自分なりの直観や五感を生かして、日々新たな挑戦を繰り返して居ます。失敗は成功の元である事を信じ、あらゆる経験を糧として、将来に活かして行く事が出来る能力の持ち主です。また様々な方向から物事を捉える事が出来、ひとつの固定観念に囚われる事はありません。
状況を一瞬にして把握し、機転を利かせる事も得意として居ます。迅速に対応する事で、人生の中で一度きりしか無い様なチャンスを確実に掴んで行きます。自分にとって、直接的または間接的に縁がある人に対しては、何時も細やかな配慮を忘れないのが、大物になる人の共通の特徴です。ねぎらいの言葉や感謝の言葉を惜しみなく相手に伝え、良好な人間関係を着実に築いて行く事が出来ます。大物になる人は、一瞬たりとも時間を無駄にする事は無く、人の時間も同じように大切にして居ます。常に、予定より早めの行動を心がけ、関係するすべての人々に対して誠意を尽くして居ます。ただし、相手が予定時刻より遅れた場合には、寛容になる事も忘れません。もともと人を惹きつける魅力にあふれ、人望が厚い為、おのずと交友関係も広がって行きます。
「類は友を呼ぶ」とのことわざにある通り、将来にわたって財産だと感じられるような素晴らしい人のネットワークが形成されて行くのです。大物になる人は、子どもの頃からお世話になった人々や、一度でも助けて貰った人の事は決して忘れません。
相手によっては、節目での挨拶に訪れたり、家族ぐるみの付き合いをしたりと、人から頂いた恩に報いる行動を習慣として居ます。大物になる人は、いざと言う時の迅速な判断が出来、大きな決断をもあっさりとこなして仕舞う程の潔い部分を兼ね備えて居ます。決断を先に延ばす事が適切かどうかを迅速に見極める能力は、普段からの地道な努力と緻密な情報収集によって培われて居ます。大物になる人は、もともとの性格や特技を最大限に生かし、たゆまない努力を繰り返して居ます。さらに、人間的な魅力にもあふれており、沢山の人から支持される愛すべき存在でもあります。あなたも自分の長所を生かして、様々な事にチャレンジする事から始めて見ませんか。お互いに大物になりたいですね、、私は無理そうだけども・・・・・
〜若松孝二〜
宮城県出身。農業高校二年時中退、家出し上京。職人見習いや新聞配達、ヤクザの下働きなどを経験。1957年、チンピラ同士のいざこざから逮捕され、半年間、留置場に拘束され執行猶予付の判決を受ける。その時の経験により後に監督デビュー作の『甘い罠』は“警官を殺すために映画監督になった”と豪語した通りに警官殺しの映画になって居る。
その後、職を転々としテレビ映画の助監督になる。ある現場でシナリオの改変に腹を立ててプロヂューサーを殴り、その場でクビになる。その後ピンク映画の企画が巡って来た事が転機となり、1963年にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビュー。低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は「ピンク映画の黒澤明」などと形容され、ヒット作を量産する。若松孝二の映画作りの原点は“怒り”であり反体制の視点から描く手法は当時の若者たちから圧倒的に支持される。1965年『壁の中の秘事』が日本映画制作者連盟推薦の大映作品などを差し置いてベルリン国際映画祭正式上映作品となり、評論家による「国辱」発言などもあってセンセーショナルな騒動となった事から、若松の名前はピンク映画業界を超えて一般に広く知れ渡った。
1965年「若松プロダクション」を創設、足立正生や大和屋笠などの人材が集まる。作品は学生運動を行っていた若者たちなどから支持を受けたが、若松自身は「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と語って居る。自分自身が面白いと思った映画を撮って居るとの事。のちに『実録連合赤軍。浅間山荘への道程』を撮影した時は、前売り券の購入を昔の学生運動家に頼んだものの全く買ってくれなかったと言う。
時に役者として出演する事もある。また、名古屋のミニシアター「シネマスコーレ」を自ら経営。
連合赤軍をテーマにした作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)は、2007年8月の湯布院映画祭にて「特別試写作品」として上映。2007年10月には、第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を受賞した。同年12月に、若松が設立した映画館シネマスコーレで公開され、2008年3月から全国で公開された。2008年2月に開催の第58回ベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)を受賞。第63回毎日映画コンクールで監督賞、第18回日本映画批評家大賞で作品賞を受賞した。ロングラン上映後、DVDが発売された。2007年度宮城県芸術選奨(メディア芸術部門)を受賞。
2010年は、寺島しのぶ主演『キャタピラー』(8月14日より全国各地の映画祭などで上映)を公開。撮影期間は12日間、スタッフ数は11人。日本での公開を前に、2010年2月20日、主演の寺島がベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞した。観客は「戦争がただの殺し合いでしかない現実」と、「生の根源であるセックス」に引き込まれていたという。国内では11月に第2回TAMA映画賞特別賞を受賞。12月には新藤兼人賞・SARVH賞2010の最優秀プロデューサー賞である「SARVH賞」を受賞した。授賞式で「尊敬する新藤監督とこのような形でお会いする事が出来て、本当にうれしい。これからも自分の映画を撮れるように頑張ります」と述べた。
2012年には三島由紀夫(三島事件)をテーマとして、楯の会結成(1968年)から自決までを描く『11、25自決の日、三島由紀夫と若者たち』、続けて船戸与一原作の『海燕ホテルブルー』を制作。また同年には中上健次原作、寺島しのぶ主演で『千年の愉楽』を制作し、2013年春の公開を控えて居た。
2012年10月12日午後10時15分ごろ、東京都新宿区内藤町の横断歩道のない都道を横断中、左から来たタクシーにはねられて腰などを強く打った。当初の報道では命に別状はないとされて居たが、実際には病院搬送時から意識不明の状態が続いており17日午後11時5分、入院先の病院で死去した。76歳没。
『キャタピラー CATERPILLAR』若松孝二監督インタビュー3
激報!日本映画を撃ちぬいた猛毒、牙、才能。 若松孝二復刻シリーズ開始!
「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」予告編
『キャタピラー CATERPILLAR』 予告編
「11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち」予告編 若松孝二監督作品
〜赤塚不二夫〜
小学六年生の時、手塚治虫の『ロストワールド』に大いなるショックを受け、漫画家を志す。上京後は東京で工員などをしながら漫画修業にはげみ、つげ義春の推薦で曙出版から上梓した貸本漫画『嵐を超えて』で1959年にデビュー。
その後、赤塚よりも3歳年下の石ノ森章太郎を慕い、トキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し、1962年に『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』の大ヒットで一躍人気作家となる。1969に代表作である『天才バカボン』の爆発的ヒットと、その後の『もーれつア太郎』『レッツラゴン』『ギャグゲリラ』といった一連のヒット作や長期連載作品等により「ギャグ漫画の王様」 と謳われ、戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。
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新宿は西口にある新宿西口商店街、通称『思い出横丁』かつては『ションベン横丁』『焼き鳥横丁』と呼ばれ、酔っ払いばかりが集まる街として若い女性には敬遠されて居ましたが、今では若い女性のみならず外国人にも人気のスポットとなって居ます。
新宿西口商店街
昔は、そこらじゅうで酔っ払いが立ち小便をする事から、そう呼ばれて居ました。
私は今でも『ションベン横丁』と呼んで居ます。
歴史は古く
かつては小田急百貨店新宿店まで広がり、300軒ほどの店舗が立ち並んで居たと言われて居ます。やきとり屋やもつ焼き屋や定食屋が多く。中に入ると、昭和を思わせる小規模な飲食店が所狭しと並んで居ます。
小さい箱が
下は所有して居る書籍の一部です。。。
さて、映画です。今廻は以前紹介したものの再録です。戦争映画の名作の紹介です。
『戦争のはらわた』(原題: Cross of Iron)は、1977年に制作されたイギリス・西ドイツ合作の戦争映画。
サム・ペキンパー監督作品、上映時間133分。
原題の『Cross of Iron』は、ドイツ軍の鉄十字勲章の事である。
ペキンパー作品の特徴であるバイオレンス描写とスローモーション撮影は、観客はおろか映画制作者にも衝撃を与えた。日本公開時のキャッチコピーは「戦争は最高のバイオレンスだ」。
また、視点がドイツ軍側になって居る事も、それまでの連合軍側視点中心の戦争映画と一線を画する。世界支配をもくろんだナチスによる戦争の非生産的なばかばかしさを描き、ドイツで大ヒットとなった。
第二次世界大戦中の1943年の東部戦線、クリミア半島の東隣のタマン半島でソビエト軍と対峙しているドイツ軍のクバン橋頭堡。そこに西部戦線のフランスから、シュトランスキー大尉が志願して着任して来た。プロイセン貴族であるシュトランスキーは名誉欲が強い男で、鉄十字勲章を得る事に執着して居た。そんな彼は、上司であるブラント大佐や同僚のキーゼル大尉らの信任の厚い小隊長、シュタイナー伍長(Unteroffizier)とソ連軍少年兵捕虜の扱いや行方不明となった部下の捜索をめぐり対立し、疎ましく思う。そのシュタイナーの直属上官となったシュトランスキーだが、鉄十字勲章を得るには有能なシュタイナーを味方につけた方が得策だと考え、ブラント大佐に推薦してシュタイナーを曹長(Feldwebel)に昇格させる。しかしシュトランスキーはソ連軍の攻勢に直面すると狼狽し、地下壕から出て防戦の指揮を執らずに居る。塹壕での白兵戦でシュタイナーとも信頼し合っていた第2小隊長マイヤー少尉が戦死、シュタイナーは爆撃の衝撃で脳震盪を起こして後方の病院へ送られ、恋仲になった看護師のエヴァとドイツに帰って療養する話になって居たが、前線にいる自分の小隊のもとへ戻る事にする。
再びソ連軍の大攻勢が開始されると、シュタイナーの小隊はT-34型戦車へ対戦車地雷を用いた肉薄攻撃を敢行するなど奮戦するが、ドイツ軍は敗退。シュタイナー隊は殿軍となるが本隊とはぐれてしまう。形勢不利と見たシュトランスキーは策を弄して人事に働きかけ、一週間後には安全なパリへ異動できるよう内定を取りつける。ソビエト軍後方へ取り残され、味方から孤立したシュタイナー小隊は、敵の女性兵士部隊に遭遇して地図とソビエト軍の軍服を入手するなどしながら哨戒線を突破、味方部隊への復帰を図る。ようやく最前線へ到着したシュタイナー隊は、ソ連の軍服を着た隊員が居る為、通信機で捕虜と帰還するとの連絡をする。敵味方識別の合言葉“境界線”と唱え、敵対の意思がないことを示しながら進む。しかしナチスの処刑対象であるホモセクシャルであることの弱みを握られてシュトランスキーの指示を受けた副官トリービヒ少尉がロシアの罠だとして発砲を命令。味方前面の障害物まで達していたシュタイナーたちは機関銃(MG40)で掃射され、次々に殺されてしまう。目の前で部下を殺されたシュタイナーは、トリービヒに迫ると PPSh-41で射殺。生き残った2人の部下に別れを告げると、シュトランスキーへの"借りを返し"に向う。
再開されたソビエト軍の大攻勢の中、戦後ドイツの復興を託してキーゼル大尉を脱出させたブラント大佐は、自らMP40を携えて潰走する歩兵を押し留め、防戦の先頭に立つ。逃げ支度をしているシュトランスキーの前に現れたシュタイナーはトリービヒ少尉の死を伝えるが、シュトランスキーは意に介さず、逆に部下を置き去りにしたシュタイナーをなじる。シュタイナーは「あんたが俺の小隊だ」と告げ、シュトランスキーを撃つことなく銃を与え、混戦の中に二人で飛び出して行く。MP40の弾倉再装填法が分からずにあわてふためくシュトランスキーを見て哄笑するシュタイナーであった。
「諸君、あの男の敗北を喜ぶな。世界は立ち上がり奴を阻止した。だが奴を生んだメス犬がまた発情している」
ベルトルト・ブレヒト。
Cross of Iron (Sam Peckinpah, 1977) - "Demarcation!"
「私の独断と偏見で語ると黒澤明監督の影響を最も受けていると思う、アクション映画の巨匠、サム・ペキンパー監督のバイオレンス全開の映像が堪能出来る戦争映画の名作です。映画の舞台は1943年のW・W・Ⅱの東部戦線。歴戦の勇士の主人公の名前はシュタイナー、そうですジャック・ヒギンス原作で映画化もされた「鷲は舞い降りた」の主人公と同名です。そのシュタイナーを演じるジェームズ・コバーンの魅力が最大限に発揮された映画と言っても過言ではないでしょう。
映画はドイツ軍を主役にした「鷲は舞い降りた」同様に、過度に内省的に陥ることなく、きちんとした人間描写も好感が持てます。サム・ペキンパーが最も得意とする分野の“男の宿命”を戦場で描いた男気たっぷりの映画ですので、三人のジョン(※ジョン・ヒューストン、ジョン・スタージェス、ジョン・フランケンハイマー)が好きな方には絶対お勧めしたい映画です。タイトルと監督や主演者で好戦的映画という先入観念は捨てて下さい。映画は凄惨な戦場のみならず、レイプされるロシアの女性捕虜やドイツ軍兵士のホモセクショナルといった戦場の暗部を抉るように描き、かつ、アクション映画として仕上げてしまう演出力は流石のサム・ペキンパーです。またこの映画は階級闘争の映画でもあります。スタイナー伍長の漢っぷりに泣いて下さい。。。。
下はブルージーな歌です。聴いて見て下さい。
ちあきなおみ 朝日のあたる家 Naomi Chiaki - House of The Rising Sun 1989 [Live]
♫ 望郷 ♫ 山崎ハコ
山崎ハコさん「蛍」
長谷川きよし - 「別れのサンバ」2012
山谷ブルース
Shocking Blue - Venus (Official Video)
ミッシェル・ポルナレフ 愛のコレクション Michel Polnareff Qui a tué grand maman
「サテンの夜」 ムーディー・ブルース The Moody Blues Nights In White Satin
Blues blues blues~ナルチョvsヤマギシvs マサオ
自撮りです。最近、眠たいのです・・・・・ニッポンが生んだ家電カルチャーの代表格"ラジカセ"。
そんな"ラジカセ"をいちから作るプロジェクト「MY WEY」が、現在、クラウドファンディングサイト「makuake」で進行中だ。
この「MY WAY」プロジェクト設立メンバーの中核である家電蒐集家の松崎順一氏へのインタビュー。"ラジカセ"というカルチャーに付いて伺った、「MY WAY」で造ったラジカセのこだわり処に迫った。
「ガチャ」って押した感覚が
指に伝わって来るのを再現
─今回のラジカセでは、"「ガチャッ」と押すスイッチの部分にこだわった"と、リリースの方に書かれて居ましたが(笑)。
そうなんです!
いま市販されているラジカセって、だいたいは中国産なのですが、操作のフィーリング……例えば、ラジカセの再生ボタンの押す部分がフニャフニャなんですよ。
─フニャフニャ(笑)!?
そうなんです! 昔はメカがキッチリした、質実剛健が良いとされたカルチャーがありましたけれどね。今は、しっかりした製品、音がいい製品を造ると言うよりは、どちらかと言うと安くて安価なモノを造る方向に向かって居て。
安い製品と言うのは、徹底して安く造って居るから、鉄板の部分も薄かったりして、ボタンを押した時に、昔は「ガチャッ」って鳴って居たものが、今はスカって感じなんです(笑)。
ヘタすると、押した時にグラグラでフニャーって壊れちゃいそうな、そのぐらい華奢ですよ。
─それは、ちょっとイヤですねー。
そう! そして、何よりもデザインがダサい(笑)!
現在、日本国内でラジカセを販売している半分は某T社なのですが、正直言ってデザインは余り良くないです。
─それは、昔からですか?
言え。70~80年代はカッコいいデザインのラジカセを沢山造って居ましたが、中国に拠点を移して、細々とと造って居るうちに、デザインがおざなりになって行ったと言う感じでしょうね。
今のラジカセって、安くて、音が出て、ラジオも使えますよ的な家電で、「しっかりした製品を造る」と言う、そう言うポジションでは無くなって仕舞ったんです。
で、デザインは某T社がやって居ると言うよりは、中国の方のメーカーが中東とか世界中で発売して居る海外向けのモノを、日本向けにちょっと手直して居るくらい。なので、デザインにも殆ど拘って居ないんですよね。
─なるほど。
それと、スピーカー自体の質もイマイチで、音もスカスカ。
最近は、どのメーカーのラジカセのカタログを見ても、音の良さとか、そう言う部分にはまったく触れて居ない。拘りはまったく感じられないです。それって、すごく嘆かわしいワケですよ。だから、まず今回の「MY WAY」のラジカセで、特に再現したかったのは、操作のフィーリングなんです。
スイッチを動かしたときに、押されて居るのかが良く分からない感じではなく、しっかりカチっと音がするとか。操作のときに押した時の感覚。「ガチャ」って押した感覚が指に伝わって来る。「スイッチって、こうあるべき!」という部分ですよね。本来、ラジカセが持っていた質感を、"ドコまで再現出来るか"と言うのが、拘りのひとつです。
─なるほど、つまり「五感で聴いてくれ!」ってヤツですね(笑)。
そうそう。「全身の細胞で聴いてくれ!!」って(笑)。
後は、持った時の重さですよね。市販のラジカセって軽すぎなんです。持ったときに、壊れそうとか、音が悪そうだとか。そう感じて仕舞う。だから、あえて適度な重さを出しました。
軽くするのは幾らでも出来るんですけどね、逆に重くするって、家電の業界的にはナンセンスじゃないですか(笑)。でも、質感で必要な重さはあると思って居るんですよ。
ただ昔のものを回帰させるのではなく、ボクが"いま"「ラジカセとは?」と、思う部分を詰め込みました。
デザインは50年代の
ディーター・ラムスをオマージュ
─デザインに関してはどんな方向性から、現状の形になったのでしょうか?
現存のラジカセのデザインは、丸っこいんです。でも、ラジカセって四角で、カクっとして居る方がカッコいいし、本来のラジカセっぽい。それをベースに、2018年の現代に合わせて表現したら、スクエアで、適度な程度の角に丸みのフォルムがあって、イヤミのないシンプルなデザインになった。
デザイン的に、時代にあまり左右されず、長年つかっても古さを感じない、そう言う処からですね。家電メーカーとしては困るんですけれど(笑)。
─デザインの元ネタになっているようなラジカセは、あるのでしょうか?
僕は、もともとドイツのBRAUN社の50年代のオーディオが好きで、当時はディーター・ラムスというデザイナーがデザインして居たのですが、あの頃のソリッドな感じというか、ムダがなくてめちゃくちゃオシャレと言う処が、家電デザインの原点だと考えて居るんです。だから、今回のラジカセは、70~80年代のラジカセと言う感じではなく、50年代のディーター・ラムスのDNAを継承して、それをある程度オマージュして居る。
1950年時代に彼が考えた、「プロダクトデザインと言うのはこうあるべきだ!」と言う、「"良いデザイン"の10か条」と言うのがあるのですが、具体的にデザインをどう言うよりは、それをボクの中で取り入れながら、落とせる部分は落としたと言う感じですね。
ちなみに、その10か条と言うのは、50年代だろうが、いまの時代でも、そして将来でも、工業製品のデザインのベースとしては不変だと思って居ます。
─以前、今後の展望として、生産拠点を日本に移すと言う事を考慮に入れて居ると言う、お話しを伺いましたが、その辺りは具体的にどんな感じで考えて居るのでしょうか?
先にも話しましたが、今の処生産はアジアに移行して仕舞って居る状況です。ただ、世界的にニーズが広まって、それなりの台数が流通する様になれば、その方向性の野望と言うか、夢はありますよ。
今って、家電は海外から日本にと言うのが主流なんです。ただ、その逆の流れを造って居て、凄くいいなと思う家電メーカーがあって、それは『バルミューダ』ですね。おいしくパンが焼けるトースターでお馴染みですが、『バルミューダ』は生産拠点を日本に持って来て、いち早く国内回帰した企業なんです。
実は国内に拠点を持つと、色々なメリットがあるんですよ。ひとつは、品質の向上。モロモロのやり取りが簡単になるので、よりクオリティの高い製品が出来る様になります。それと、今の家電メーカーって、過剰に在庫を造らないんですよ。つまり売れる数しか造らない。だから、中国で造ってからコチラへ運ぶという手間が無くなるんです。勿論、国内だから物流もローコストになる。特にそれほど高価な家電で無い限りは、国内生産の方がコスト面から流通面から、圧倒的に有利なんですよね。
─確かに。それは実現出来そうですか?
「MY WAY」のラジカセも、そう言う
動きを加速出来たらいいかなと思いますけれど、ただそのタメには、やはりラジカセをシーンに根づかせないと、と言う感じです。
将来的には、第2弾、第3弾と、いろいろなバリエーションを造りたいと思って居ますから、若い方からシニアの方まで、幅ひろい年齢層に「MY WAY」が支持されてくれれば、将来的に、日本に生産拠点を持って来て、もう一度、純粋にメイド・イン・ジャパンのラジカセを造りたいと言う、野望というか、夢は持ってます。
ちなみに今、ラジカセの国内販売規模って年間約10億円なんですよね。勿論、色々なメーカーがあっての売り上げ規模ですが、10億円あれば生産拠点を日本に持って来れない事は無いんです。そこに「MY WAY」が参入する事で、10億の取りあいになって仕舞うのか。どちらかと言うと、パイが広がってくれればいいんですけれどね。
─まずは、パイを広げると言う事を目標としているプロジェクトですもんね?
そうです! 今までラジカセを使用して居ない方に使ってほしいと言うプロジェクトなので、パイが広がってくれれば嬉しいです。この時代に家電メーカーを立ち上げて、「どうなの?」って思われそうではありますが、これが波に乗れれば、日本の経済界、産業界にひとつのおもしろい形にはなると考えてます。他の大手メーカーでは出来ない様な、痒い処に手が届く的なコトが出来ればいいですよね。
実際に、80年代にはこの大きさのラジカセはたくさんあったんですけれど……"無いので造る"って事が出来ればいいんです。
─最後に、ラジカセは、これ以上の付け足しもなければ、引く要素もない、いわゆる「エポックメーキングな発明」と考えますか?
僕は、ラジカセはエポックメーキング的なモノでは無く、結構自由なモノだと思って居ます。時代に寄って色んなものがくっついて、その時代のラジカセがあってもいい。あくまでも僕の考えて居る"ラジカセの三大要素"があればいいと言う感じです。
"ラジカセの三大要素"と言うのは、ひとつは、ポータブルオーディオなので電池で使えると言う点。どこでも使えると言うのがひとつ。そして、最低でもラジオとカセットが付いて居ると言う点。もうひとつは、取っ手が付いて居る。この3つの要素があってこそラジカセだと思って居ます。個人的にですが(笑)。あ、後はスピーカーが付いて居ると言うのも、欠かせない処ですね。
この4つの要素があって、CDプレーヤーとか、ブルートゥースとか、いまのデジタルの要素とか、勿論、今後新しいデバイスが付いてもいいと思って居ますし、時代と共に変化するのはありだと考えてますよ。
─ありがとうございました。
ラジカセ製作プロジェクト「MY WAY」。
松崎順一氏の踏みだした一歩は小さな一歩だが、もしかしたら今後のニッポンの家電を変える大きな一歩となるのかも知れない。