寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

最近、大分暖かく成りましたね。。。

お久しぶりです。。。

相変わらず調子が悪くて苦労しています。
そんなこんなで書く事も無いので、私が好きな漫画家・永島慎二に付いて下に書いておきます。


漫画家・永島慎二について。。。

東京板橋生まれ。生家は雑貨商であった。父を戦争で失い、空襲で家を焼かれ、一家で埼玉や群馬に疎開し、ルンペン生活を経験する。小学校3年の頃から漫画家になることを志望し、中学校中退後、家出して酒屋や洗濯屋、豆腐売り、自転車修理工など十を超える仕事を転々としながら漫画を描いていたがどれも長くは続か ず、半年後に行き詰った。原稿を抱えて街を彷徨っていた(本人談)ところ、偶然再会した目黒一中の同級生に支援され、祐天寺近辺の馬小屋の二階に住まいつつ、昼は豆腐や納豆を行商し、夜は漫画を描き、時折カット描きの稿料を得る生活を続けた。西品川で揚げ物屋を開業した母親ら家族も、反対しつつも支援してくれた。雨天が続き豆腐の行商ができない日が続くと、水しか飲まない日が数日続いたが、祐天寺から現在の山手通りを徒歩で南下し、時には倒れたりしながらも西品川に辿り着いて、店の揚げ物の残りを貰ったり、妹が家族に内緒で誤魔化した店の売り上げの一部を貰ったりしていた。
1952年、『さんしょのピリちゃん』で漫画家デビュー。このときの原稿料は、中卒の初任給が4000円の時代に6000円であった。
初夏のその月のうちに”馬小屋の二階”を引き払い、実家に凱旋したが、「さんしょのピリちゃん」出版の半月前の七月下旬に、兄の成功を誰よりも喜んでいた前述の妹を事故(友人と行った多摩川で水死)で亡くす。

その後、『トキワ荘』に出入りするようになり手塚治虫の面識を得て、手塚のアシスタントとなる。のち、独立して杉村篤(当時の筆名はコンタロー)、石川球太、深井国(当時の筆名は深井ヒロー)らと「むさしのプロダクション」を結成。
その後、同じ国分寺に住まっていた、辰巳ヨシヒロ、さいとう・たかをや「劇画工房」のメンバーと交際。「劇画工房」分裂後は「さいとうプロダクション」に入社し、絵柄が劇画風に変わる。また、新宿でフーテン生活を経験。
1961年に発表した『漫画家残酷物語』は、漫画業界の裏側に迫った作品で、永島の出世作となった。COMやガロなどの漫画誌に数々の作品を発表し、独特の画風で“青年漫画の教祖”と呼ばれるようになった。また、1964年から1966年までは虫プロダクションに所属しており、テレビアニメ『ジャングル大帝』などで主に演出を担当した。
1972年、『花いちもんめ』ほかにより、第17回(昭和47年度)小学館漫画賞受賞。 1974年、『漫画のおべんとう箱』により、第3回(昭和49年度)日本漫画家協会賞優秀賞受賞。
80年代以降、漫画家としては半隠居状態だった。 晩年は阿佐ヶ谷に在住し、1970年頃にある若者にこっぴどく負かされたのがきっかけ(本人談)となり、将棋の駒作りを趣味にしていた。名産地である山形県天童に出かけたり、同好の士の駒作りの会に参加したりなどしていた。将棋の駒にとどまらず物作りを趣味とし、愛煙家でありダンヒルのパイプを愛用していたが、自作のパイプも制作していた。

 下は永島慎二のHPです。
http://www.geocities.co.jp/AnimeComic/7173/nagashinji_room.htm



喫茶店風景 松山晴介 Seisuke Matsuyama 少女画 永島慎二


組曲「宝石の一日」 永島慎二 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」 Music by Shiki Nagashima



第二回「宇宙哲学」勉強会 「テレパシーについて」 Harry山科












誰かが風の中で 小室 等 ファミパライブ









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