久しぶりのメイク動画。2023。
「エッセイ」
一昨日は、京王線の笹塚に行って来ました。ほぼ3年ぶりに行ってみたら、随分と街が変わってしまって居ました。用事は銀行です。駅のアーケード街に次々と店屋が出来て居て、昨日なんかはスターバックスの野外テーブルに外人を含めて16人ぐらいが店の外のテラスでパプチーノだとかカフェラテにベーコンサンドとかホットドックだとか食べていましたね・・・・・・・。僕は家で、レタスサラダとアイスコーヒーと食パン1枚食べて来たので何も食べませんでした。それで、銀行にお金なんであるのか?わかったよ。国が低所得者ワーキングプアの人とか生活保護者に6万8千円ぐらいくれたんだよね。それでだった。それに僕は国の年金降ろしてないから郵便局から一昨日は1万8千円だけ降ろしたけど。それで郵便局を笹塚で探したんだけども無くなってるんだよ以前の場所にさ、それに伊勢丹ストアーと言う建物があったのだけども。そこに「カズ」と言う美容院があったのだけども、、無くなって居て他の美容院かな入って居たね。笹塚駅のガード下に店屋が集まって凄く開けて居たよ。
行きに、アパートの外に出て鍵かけて居たらさ、隣の206号室から白いワイシャツにスラックスの40歳ぐらいの男が出て来たので、「あれ今度越して来た人ですか?」と声掛けたら、「いやぁ、私は管理会社の職員です。例のおさがわせ外国人が越したからと1時間前に電話が罹って来たから中見て居たんですよ。」と言うので、「参りましたよ!!あの人には?テレビつけても、パソコンつけても、ラジカセ聴いても警察に通報されて、しかもですよ????大音響で掛けて居るとか言って居て!?私はハーモニカは吹きますが。エレキギターなんか今弾いても居ないのに!!、エレキの音とかうるさいとか?僕の所に来た人に「弾くの辞めてくれ」と言ったんですよ?」「ああ、あの人勝手な人でしてね、自分がこうだと思い込むとそうなって!そればかり気にして言う様になるのですよ。。。」「でももう安心して下さい!他の人であなたの事を悪く言う人はもういませんから」「私も音には気をつけますから。これから宜しくお願いします」と言ったら。「ああ、あそこ気になるなぁ、、」とまた鍵開け始めたので・・・・・・「それでは出かけますので・・・・」とアパート出て来たけど。可也な問題児でね、、もう出て行ってくれと言った見たいだよ。前に、ジョーさんに「生活保護課なら良いとこ探してくれるんじゃないの?」と言ったら「俺69歳なんだよう!!!!どこも部屋貸してくれないんだよう!!それで不動産屋に行くと生活保護だと言うとお断りだと断られるんだよう!!!!」「だからケースワーカーに頼めば良いじゃないですか?」「あんな若造が何が出来るんだよう」とか言って居たから。「でもケースワーカーに任せないと決まりませんよ????」と言ったら「・・・・・」となって考え込んで居たから。ただ言われたよ。管理会社の社員から「此処木造ですからねぇ、生活音は聞こえて来ますけど。お互い様だと思って下さい」とさ、今日はステレオ掛けて居るけどね誰も何も文句は言わないよ。
ハーモニカも少し吹いて見た。もう1年半ぐらいまともに吹いて居ないからろくに吹けなくなって居るから練習しないと。それでさ、帰りに電車で笹塚から八幡山に行ってそしたらなんか甘いものが食べたくなって、喫茶店には入りたくなかったから、駅のキヨスクで「チョコ・コロネ113円の」一つと「500mlのカフェラテ1本」買って歩きながら食べて飲んで、郵便局まで行ったら昨日、年金が入って居て。7万数千円位になって居たからそこから1万8千円だけ降ろして、持ち金1万2千円と合わせたら3万円になったから、八幡山のスーパー「オオゼキ」に行ったらバーゲンだったから、焼肉用の豚肉と、野菜炒め用の野菜1袋と、もやし1袋と、カットレタス7袋と、おでん、肉じゃが、アジフライ2尾と、お新香と食パン2斤と、レーズンバターロール2袋と、刺身一皿と、卵安かった128円だったから買ったら。罹った費用が6千円ぐらいだった。家には焼肉用の肉とウインナーとか卵もまだ3つあるし、来月まで持ちますよ。ああ、それからシャチハタをハンコ屋から購入したら、1,700円も罹ってしまった。そして家に帰って来てAmazon見て1、8ℓの減塩醤油買って豆電球購入してBlu-rayED(録画用)と金があるうちに買い溜めしておかないと........。
今日はですね、今高井戸福祉事務所に行って、資産証明と言う事を生活保護者は仕無いと行け無い決まりなんですよね。何するかと言うと銀行通帳と資産が何持って居るか?と言う事を書面で書か無いといけ無いんです通帳は記帳したものと持って居るもの全て記入した書類を渡さ無いといけ無い。その用事が済んでから高井戸区役所の出張所に行って・・・・・。マイ・ナンバーカードを住所変更しました。それで書類を貰って書いて渡して待って居たら、「今日はヨウジ・ヤマモト・ブランドの春秋用の薄手のロングコートが良いな、」と思い黒いシャツとパンツにそのコートを着て帽子被って出かけたら、、なぜか人当たりがいいんですよ。正確にはその薄手のロングコートはヨウジ・ヤマモトの弟子が作ったもので安かったから買えたんですけどね。男の職員がまた、「あの人ミュージシャンだろ?」と言って居るし、モード着ると必ず言われる。ただ行きにどう行くのかなと思ってタクシー呼んでしまったら3分で来たのですが。若いまだ28歳ぐらいの運ちゃんで、人を見るなり「けっ!!」と漏らしやがって、高井戸福祉センターですから、ナビ入れますか?と聞いたら「いや!!分かる!!!」と言うので、それで、僕の方から色々話すんだけども、何か気に食わ無いそぶり...。
余程、またか?「あんちゃん俺はさ65歳だよ???」と言いたくなったけど。着るもの安物来て居るとバカにして、良いもの着るとやっ噛む。なんで何だろう若いのって????でも、皆さんの時は、マイ・ナンバーカード作ると何万円か貰えたんだよね????僕は今から10年前に作って居るから、、何も特典無しだよ。暗唱番号を書けって言われて、「覚えてな・・・・・」いや待てよと手帳見たら書いてあって、それパネル画面にペンタッチで数字を入れて・・・・・。それで認証出来たら、今度は特別暗唱番号6桁のもの作りますかと言うので作ると言って、作って、住所変更をしたら、僕のマイ・ナンバーカードは来年の誕生日で期限が来るそうで、区から書類が行くのでそれ書いて送って通知が来たら、「新しいマイ・ナンバーカード」を差し上げますので1年後また来て下さいと言うので、、、、
その区役所の出張所って高井戸駅の中のアーケード街にあるんだよね。前にそこにマニアックな本を売って居るちょっと変わった本屋があったので探すも無くなって居て、何しろ、もう高井戸駅には5年振りぐらいに行くのだから、、それで、またそのアーケード街で、ドトール珈琲店に入って、レタスホットドックとアイスコーヒーのLを食べて、帰りは高井戸駅って京王井の頭線だから明大前で京王線の普通に乗り換え、5つ目が芦花公園だから。成程ねぇ、高井戸福祉事務所から歩いて高井戸駅まで8分だったよ。何もタクシーで1700円も掛けて来るなんてバカの骨頂でした。それから高井戸福祉センター行くには、芦花公園から明大前まで京王線で行って明大前で乗り換えて府中方面行きに乗れば各駅で、6駅目が芦花公園だから、190円で行けますよ。今日、要約行き方解ったのです!!。
kiyasumeのヘタなハーモニカ演奏です、
「年寄り若く見せる方法」
歳を取るとはどう言う事なのだろうか?良く歳成りにしろと言うし・・・。
「おじさん化」するとは、どう言う事なのだろうか?「おじさん化して居ない人は、姿勢が良く、肌ツヤが良く、清潔感があり、年を取る事を前向きに捉えて居る。」要するに『自分に自信がある人』の事。欧米はすぐに自分を信用させたり、すぐに自分の力を感じさせないと淘汰される文化。見た目で劣って居たら、挨拶もさせて貰えない。一方、日本は、『奥ゆかしさ』『控えめ』が美徳とされる。そもそも、『見せ方、見られ方』の意識は、欧米人ほどには持ち合わせて居ない。老いに対する受け止め方が、否定的なのが日本人の特徴。例えばフランス人は歳を取る事に肯定的で、幾つになっても自分への自信があり、何時までも現役で居ようと言う気持ちがある。年を重ねる事は、多様性を受け入れて、人間的に成熟し、人生が豊かになる事だと解釈している。日本では、カッコよさは若い人の特権の様に考えられ、『カッコ良く歳を重ねる』と言う意識が少ない傾向にある。いや殆んど無い。年齢やポジションによって、以前と同じ事をしても違う風に捉えられて仕舞う事は多々ある。清潔感も同様。若いうちは多少清潔感に欠けていても「ワイルドさ」を演出出来たかも知れないが、同じことをおじさんがやっても、ただの不潔になるだけなので注意が必要だ。年齢を理由に何かを諦めて仕舞う自分に気がついたら、年齢を忘れるようにして見るといい。ちなみにフランス人は、「年齢は記号だ」くらいにしか考えて居ないそうだ。どんなに年齢を経ても若々しく見せたい、と考えるのは女性だけでは無いですよね。男性だって何時までもカッコよく若々しい姿で居たいと思うでしょう。もし年齢的には中年と言われる年代になっても、やはり若々しく居る為の努力は怠りなく無いものですね。
オッサン化しないための対策の一つには、自分には若作りかなと思える格好でも。そう言った服を着る事。確かに一般常識を持つ人は年齢が行って居るのに若作りをすると、一見怪訝そうに見るし、酷い人になると「若くも無いのに!何その格好!!」と言う人も居る。私も歳を取った65歳ぐらいの、女性の訪問看護師から以前に大皮肉を言われた。しかしそれは、その人が若作りをした服を着て似合って居る事への僻みとも取れるのです。私の事で言えば。私は1970年代の格好を心がけて居る。モッズ・スタイルやらモード・スタイルなどです。人はこの歳に成ったらこう、在らねばならない。と言う固定観念が強い。でもね、今の時代はどうでしょうか?ニートも居れば、引篭も居る、時代が半端者の存在を許して居る。私は働いてた頃に会社の社員のユニフォームがあった。ジャンバー・パーカーだった。しかし私は余り着なかった。親父が昔会社で作ったブレザーをくれたのでそれを着て居た。グリーン色のブレザーに会社のロゴが入って居た。それが良くお得意先から来る人やら、一般の客に「良く似合って居ていいですね」と言われた。最近テレビのドキュメンタリーでアパレル業界のことを放映して居たが。最近では作業用も兼ねて居る機能性に優れて居て。見た目はお洒落なブレザー・スーツと言うのが。車の修理工場やら中小企業の社員たちの間で人気があり。評判で売れて居ると言う。作業服は、最近物凄くお洒落になって来て居る。時代は変わるのだ。
昨今では、男の化粧は若者たちの間では当たり前の様にして居る。ただ、私が残念だと思うのは、文化(カルチャー)に対する歳を獲った人たちの偏見だ。何時迄、昭和20年から40年代で止まって居る。今、50歳、60歳の歳の人でもそう言う人が居るのだ。確かに個人の好みはあるだろう。しかし、自分は歳だから老人の格好をする。だから人もそうするのが当たり前だ。それはおかしい。自分が知らない世界は蓋をする。覗いて見ようとも思わない。そして、カッコイイ格好をして居る男を見て僻む。そして貶す。私の父が勝手私に言った事がある。「俺だって、ジーパン履いて見たいさ」だから私は69歳の親父に言った。「いいじゃ無い。買って来てやろうか。素敵になるよ」すると「な〜にが」と言ったきり、その話は立ち消えてしまった....。皆さん、お洒落に歳は関係無いのです。若者が来て居るコートとかでカッコイイなと思ったら買って着て見ましょう、例え、あなたが60歳でもそのコートはあなたをカッコよく見せてくれますよ。服とはそう言う魔力を持って居るのです。お洒落に年齢は関係ありません。服も芸術作品なのですよ。芸術は万人に開かれて居ます。
オシャレとは何か。
人は人の影響を受ける。私が小学生の頃に私の周りに居た、大学生たち。ある人は私にシュノーケルと足ヒレを買わせた。川に行って素潜りをさせる為だ。当時私は趣味は音楽を聴く事と絵を描く事だった。その学生は半ば強引に自分の趣味を小学生である私に押し付けて来た。私はその学生は何か変だなと思って居た。私以外にも小学生を連れて来たのだ。よくよく考えればこの学生は同年代の学生の友人は居ない様だった。確かに九州男児で面倒見はいいが、自分勝手な処が有った人だった。その人からは程なくその手下である、その小学生も居なくなって行った、そして彼は自殺未遂を起こした。そして鹿児島へと帰って行った。それからこう言う学生も居た。その学生が部屋に居ない時に一度コッソリ入った事がある。何と部屋には大股びらきのヌード写真が沢山散らばる様に置いてあった。そして、ティッシュの山が(笑)何と東大生だった。学業が出来ても性欲は抑えられなかった見たいだ。色々な学生たちの生態を見て来た。北海道から来た学生は明星大学に入って居たが。頭脳は明晰でおそらく国立でも受かって居ただろうと思う。コレは母も言って居た、「北海道のお兄ちゃんに物事を聞くと何でも知って居る」と。彼は自分より出来が悪い従兄弟に東大に入られて仕舞い。やけになって程度が低い大学なのに推薦で東京に来たのだ。早稲田の学生と高千穂の学生は何時も喧嘩をして居た。早稲田の学生が高千穂の学生をいい様にいじめるのだ。なぜなら高千穂の学生は背が150センチ位しか無く、太って居てチンチクリンだったからだ。私は差別はしたくはないが、、、田舎の学生です。当時はまだ1968年から1970年代初頭だったから。貧しい家の学生は背丈も伸びないし。来て居るものも粗末な服を着て居る人が結構居ました。色んな学生が居て。そして東京の大学を出たと言う事なら地方では、一家総出で、お祝いモノだった。
中には不埒者も居た。親父の会社でアルバイトをして居たのだが。何と姉さんが好きだった様だ。よく家の中の廊下で姉さんが通り掛かるのを待って居た。姉さんは察して、避けて居た。そいつはバイトでもいい加減に仕事をして居て。ゆきかずなどから嫌われて居た。母はお嬢さん育ちだったが、学生の心理状態をよく心得て居た。ある学生が失恋をして元気が無いと。可愛い女の子がセミ・ヌードで海岸を歩いて居るポスターとかを何処かからか買って来て。「これ部屋に貼れば?」と渡して喜ばれて居たし。中央大学の学生がワンダーフォーゲル部に居ると、朝が早いのだが、早起きしてその学生に食べさせて。その上。弁当を作って持たせてやって居た。母は料理が得意だったので、よく握り寿司の型を一つカッパ橋で買って来て、それにシャリを詰めて形を整えてからちゃんと寿司を握って、重箱に入れて学生たちに出してやったりもした。驚いた学生が「おばさん。これ、出前で寿司屋から取ってくれたの?」と言って居た。その度に母は「私が作ったのよ♪」と嬉しそうに言って居た。それから学生は大食いだ。何時もご飯が足りなく成る。すると何時も母は家の前で営業して居た定食屋に行ってご飯を分けて貰って居た。昔だから出来た事です。
私が小学校3年生の真夏の時だ。母は何故かお化粧をし。タンクトップを着てミニスカートを履き私を連れて、新宿に行った。買い物をするのかなとも思ったが、少し浮かない顔で、私の手を繋ぎ、そして、暫く無言で歩いた。私は「母さんどうしたの?」と聞いた。そうしたらこう言った。「此間。近所の魚屋に魚を買いに言ったら、そこの店主から、「ありゃ、奥さんおかしいよ、顔つきがおかしいよ。どうしたの気でも違ったかなぁ〜〜。変なの。ブスになってる?」と言われたのよ」だから言ったのよ「そう見えるでしょう?私、最近、気が落ち込んでいるから」とね。そして「〇〇。今日はどこ行きたい。行きたい処に行くよ」と言うのだ。母は疲れ切って居た。私はなんか気落ちがしたが、「映画見ようよ....。」と言った。そして、丁度、掛かって居た「イージーライダー」を見た。映画の最後にアメリカ南部の住人から、ヒッピー・スタイルのデニス・ホッパーとピーター・フォンダがラスト。差別で無言でショットガンで撃ち殺される映画だ。しかし母親はしっかり最後まで観て居た。そして、映画が終わると、映画館の外に出て、「フルーツパーラーに行こうか?」と私を新宿のビルの地下にあるフルーツパーラーに連れて行き。チョコバナナ・パフェを食べようと言って2つ注文した。私はゴージャスな店の煉瓦造りの雰囲気に少しびっくりして辺りをキョロキョロと見渡して居た。
するとパフェをウエイターが持って来て、二人で食べながら母が話し出した。「お前は今の映画見てどう思った?」私は言った。「酷いと思った。あの二人は全然悪くは無いもの」すると母が言った。「世の中はね。少しでも人と違う事をすると途端に攻撃されるものなのよ」私は黙って居た。するとこう言った。「お前は音楽好きだね」そして続けて行った。「戦後少し経ってから、銀座で働いた事があったのだけども。会社の帰り道にある雑居ビルの地下から、よくジャズ演奏が聞こえて来てねぇ、、」「え〜〜。すごいじゃん」「昔の生バンドのジャズ演奏は凄く巧かったのよ」「私はよくその雑居ビルの前に立ち尽くして、その地下から聞こえて来るジャズを聴いてた....。ひとりぼっちで......。」「田舎から一人で出てきてねぇ、誰も身寄りが居なかった」私が心配そうに母の顔を覗き込むと、こう笑顔で言った「ロックはよく解らないけど。ビートルズの丸眼鏡掛けてる人。あの人の歌好きだよ」「なんで知ってるの?」「お前がよくお勝手の隣の部屋でラジカセで聴いてるじゃ無い?」「それで知ったの?」「そう。あの曲いい曲よね。イマジンだっけ。」「差別なんか無くなればいいのにね」そして帰りにデパートに寄ってから電車で帰って来た事があった。私は今でも「イマジン」をよく聴く。ジョンが生きて居たら。今の世を嘆くだろうと思いながら....。ちなみに私はそれ以来パフェの魅力に嵌まり。男ながら、たまに新宿のその店で食べる事がある。あの頃は大変だったけど、充実して居たね母さん。。。
Easy Rider 1969 End
イマジン - John Lennon - を和訳し日本語で歌いました!【歌詞字幕あり】
kiyasumeの今日の食事。自炊で焼肉とスーパーで買って来たアジフライを食べた。。。
此間、訪問看護師の20歳ぐらいの女の子に「昔はテレビとステレオが一緒になって居たり。ラジカセとテレビが一緒になって居たりしたんだよ。そう言う電化製品が多かった。そしてそれが今のスマホの開発へと繋がって居ると思うよ。」と言ったのだが。そう言うと彼女は大きく頷いて居た、そして私はこうも言った。「音楽とは形があるものだったんだよな、レコードとかカセットテープ、ラジカセ。今はどう?」そう言うと彼女は「今はデーターでしか無いですね・・・・。」と言った。そして薬をセットして帰って行った。私は彼女が帰った後に昼食を食べに出掛けた。そして色々合ったがそれは後ほど話す。スーパーによって、買い物をしたが、その際にエコバックを持って行ったが買い物が多過ぎて入らずにレジでポリ袋を1枚買った。矢張りポリ袋は便利なのですよ。エコバック1つでは収まり切れないから。そして、公衆トイレに行ったが中から長髪の若者が出て来た。そして何故か私に深々とお辞儀をして呉れた。そして通りすがったこれも可也な長髪の男だが彼もまた丁寧なお辞儀をして呉れた、要するに思うのだが、今、男で長髪にして居る人たちは、皆、芸術家かミュージシャンたちが多いのだろう。
私はこのblogで本音を書いて居る。私の事を知って居る人は無数に居ると思う。私はバカか?そうですねバカだ。でもいいのですよ。私は開き直って居るから。私にはいい事は殆んど無い。アパートの住人たちも私は障害者である事に気付いて居る見たいだし。恐らくはこのblogを見て居る可能性も大いにある。私は人の悪口も相手が悪ければ書く。私は障害者として認知されて居ます。どう言う事か。例えば警察。私の事はよく知って居る。私は警察には過去数回病気の事でお世話になった。私のblogを読めば分かる事だ。私はだから最寄りの警察署にはよく電話を掛けて色々と相談に成って貰いたいと話をする。
まあ、忙しいと嫌がられる時もあるけど。私の事は知られて居るので大抵は話を訊いてくれる。ただし私が障害者だと言うフィルターを通してだが。話は変わるが1970年当時の大学生は人によってはステレオを持って居た人も居た。しかしそのステレオは、大概古いものだった。1970年代の初めには可成りなモダンなステレオがあったはずだが、彼らがアパートに置いて居たステレオは古いものだった。その、ステレオは大抵テレビとラジオもついて居たものだった。
また1970年代に成ると、ラジカセでカセットデッキに、小型ブラウン管・テレビが搭載されたものも発売し出して居た。。。。
私は欲しくて年中隣町の大型電気ショップに見に行って居た。しかし変えようも無く。私が買えたのはサンヨー製の普及型ラジカセ1台だけだった。
ビクターの「ラテカセ66」は、とっても格好いいですねぇ…。ぱっと見、アマチュア無線機見たいです。
ブラウン管の性質上、どうしても奥行きを持たせた作りになって仕舞う為、一種独特な風貌になって仕舞った「ラテカセ」ですが、その無骨なフォルムは、かえって安定感と安心感を持たれて、多くの人に好まれた様です。
しかし、ブラウン管テレビから液晶テレビ、アナログ放送からデジタル放送、カセットテープからデジタルオーディオプレーヤー、そしてクラウド・オンデマンド音楽サービスへと移行するにあたり、「ラテカセ」の系譜は完全に断たれて仕舞いました…と思ったら、いまや携帯電話に是等の機能が全て内蔵されて「スマートフォン」となり、ポケットに入るサイズになってしまったのですから凄いですねー。
どれだけ色々な機能を一体化してしまえば、気が済むと言うのでしょう・・・。
ラジカセが日本で誕生してから約半世紀になります。特に隆盛を極めたのは誕生直後の1970年代から80年代にかけて。2WAYスピーカー搭載の「studio1980」、ワイヤレスマイクが側面から飛び出す「MAC ff」、テレビまで搭載したSF的デザインの「JACKAL300」-。機能はもとより、とにかくデザインが秀逸だった。メカニカルで重厚な出立は当時の少年たちの憧れ。かつての日本製ラジカセを愛好するコレクターは今も世界中に居る。
ラジカセは発祥こそ海外だが、日本で独自に発展させたものが世界へ広まっていった日本発の文化だ。小さな箱の中に録音機とラジオを合体させた箱庭的発想。乾電池駆動でどこにでも持ち出せる携帯性。70年代には、屋外に持ち出して野鳥の声やSLの走行音を録音する「生録」やラジオの深夜放送の流行とともに全盛期を迎えた。80年代に入るとヘッドホンステレオに主役の座を奪われるが、海外では「ブームボックス」と呼ばれ、米国のヒップホップ文化の中で大きな役割を果たして行く。
今、カセットテープが再び静かなブームとなる中、ラジカセの往年の名機たちも改めて脚光を浴びている。3年前の12月から今年1月末にかけては、東京・秋葉原でラジカセ・イベント「ラジカセDAY」が開催され、昭和ラジカセの魅力を紹介するワークショップやトークショー、カセットDJライブなどが行われた。あの頃の様なカッコヨクて高機能・高音質の日本製ラジカセはもう出ないのだろうか。「ラジカセDAY」を主催したラジカセ研究家で、ラジカセ修理・販売会社「デザイン・アンダーグランド」を運営する松崎順一さんとともに、これまでの歴史を振り返って見よう。
カセットブーム再来の背景は
-最近カセットがちょっとしたブームになっているのは、カセットを知らない世代が初めて発見したみたいな感じなんだろうか。 昔から40~50代の人がカセットを懐かしいと言うのは一定のニーズがあったと思うが、今ブームになって居るのは、どちらかというとカセットテープを知らない世代がファッションの一部として採り入れて居る処があると思います。音楽を楽しむと言うよりは、自分のファッションのスタイルとして、カセットで聴くのがカッコイイと。自分の個性とか主張する一つのアイテムみたいな感じで、若い人たちの間で静かなトレンドになって居る。カセットの音がいいから聴くというのではなくて。それがトレンディーな話題となって居るのかな。
-アイワがラジカセ1号機を出したのが1968年。これは世界初のラジカセだったのか。カセットテープの規格を作ったフィリップス社が、日本が出す前にラジカセを作って居ます。ただ、あまり普及しなかった見たいです。やはり日本のメーカーが作ってから一気に普及したと思うんですね。そういう意味では日本からラジカセが広まったと言うのは正しいと思います。
そして、それから6年ほどたって、ソニーの名機「studio1980」(CF-1980)が登場するのが1974年。その間にラジカセは一気に普及して、「生録」だったり深夜放送を聴いたりするのに使われる様になりました。若い人たちがみんなやってたのは、外に出ると音を録って、家に入ったらラジオのエアチェック。ラジカセ1台あれば昼でも夜でも遊べた。当時はほかに遊ぶ道具が今と違ってなかったので、それだけブームになった。それで各メーカーもしのぎを削って新しい製品を続々と出した。
そして、その間に、実用的な位置づけから、ちょっとしたオーディオ的な物にも変わって行った。 ラジカセの進化って、カセットテープの進化とイコールなんですよ。テープが良くなれば、そのポテンシャルを引き出す為にラジカセも高性能化する。ラジカセが高性能になるとまたカセットもいい物が出る。そういう相乗効果で製品が成長して行った。
ソニー「studio1980 markII」
アイワがラジカセ1号機を出した頃は音楽用とは考えて居なかったのか。それはアイワの1号機は「ラジオ録音機」と言って居たんですよ。ラジオは放送時間にしか聴けない。聴き逃したら二度と聞けなかったので、カセットテープに録って後で聞くというのが当時からあったが、ラジオとカセットテープレコーダーを接続するのが面倒くさかったのを1台にしてラジオを録音するための機械として出した。ラジオぐらいの音質ならノーマルテープで十分だったんですけど、ソニーがクロムテープを出して、音楽を録ってもきれいに聴こえるようになって、そこから進化して来たんですね。
ークロムテープとかメタルテープとかデュアドカセットとか出てきたのが70年代半ばぐらい。72,73年ぐらいから出始める。
-同じ頃、ナショナル(松下電器 現パナソニック)のラジカセ「マック」が口径18センチの大スピーカーを売り物にしたり、ソニーの「studio1980」も2WAYウェイスピーカーにしたり、音質をアピールする様になった。「studio1980」が出た時代は、アイワが1号機を出した時代に比べて性能が飛躍的に上がってるんです。機械もテープも性能がアップしながら値段はあまり上がって居ない。コスパがいいというか。そこで爆発的にヒットしたんですね。「studio1980」なんかソニーに言わせると何十万台も売れた。
バージョンが変わったりして。「studio1980」は3代続くんです(初代機の後、「マーク2」「マーク5」を発売)。あそこまで続いたのは「1980」が最初で最後では。「studio1980」の最終型「mark5」デザインもあそこで一つの完成形になった。
あのデザインは後々のモノラルラジカセのデザインとして各メーカーに継承されていくんです。ザ・ラジカセと言うスタイルを「studio1980」が確立したと言っても過言ではない。当時のカタログを見ると音質重視でスピーカーも大きくて2WAY。一般のエンドユーザーから、企業とか、あらゆるところ使われた名機だった。ほかにも性能で言うといい物がいっぱいあるが、一つの時代を作ったとか、のちのちのラジカセの基礎を作ったという部分では、「1980」の存在は大きいのでしょうね。ソニーが新しい物を次々に出して、他のメーカーが追従したと言う構図は、90年代ぐらいまでは続いて行った。
リズムボックス機能が付いたソニー「リズムカプセル9000」
SONY リズムカプセル ラジカセ CF-9000 Vintage BoomBox
ステレオ化の時代-1970年代後半
「studio1980」以降、70年代後半になると、ラジカセはステレオ化して行く。かっこよさで記憶に残るのがソニーの「ジルバップ」です。「ジルバップ」は76年ぐらい。「studio1980」の三代目の「マーク5」が出た頃には「ジルバップ」が出ている。なので「1980」の三代目はあんまり売れなかったんですよ。一気にステレオの時代に入った。当時はクロムテープが使えて、音楽をエアチェックという時代に入っていった。でも当時は今と比べるとFM局が余り無かったです。
しかしFM雑誌が売れてましたね。曲の放送時刻とか分数とか掲載されていて。あれを見てテープを買ってスタンバイする。それが若い男性の日課でしたね。雑誌を切って、カセットのケースに入れて資料に出来たんで。それが楽しかったですね。
ウォークマン登場とダブルラジカセ-70年代末
-1979年にヘッドホンカセットプレーヤーの第1号機、ソニーの「ウォークマン」が発売されてから、ラジカセの位置づけも若干変わって来た。カセットテープの楽しみ方が増えて来たと言うだけだとは思う。「ウォークマン」が出た年は、シャープが世界初のダブルラジカセを出した年でもあるんですよ。それまではラジオからカセットに録音して、要らない部分を切って編集するには、2台つないでやらないと編集できなかったのが、1台で2台分の機能を持つ製品が出て、大ヒットしました。
謎なのは、カセット同士のダビングだと絶対音は悪くなるはずなのに、でも、もともとカセットの音質はそんなにいいものではないので、普通に聴く分には問題なかったと思いました。あと本当に好きな方はきちっとしたシステムコンポでデッキでダビングしていたので。
編集したカセットテープをウォークマンで聴いたり、、当時は。ウォークマンも再生専用で。ラジカセはそれなりに重いのでウォークマンは大活躍しましたね。またヘッドホンで聴くスタイルが、当時としてはカッコ良かったんですよね。今の人たちがスマートフォンに憧れる様な、最先端の機械を持つ喜びがあった。最初にウォークマンを聴いたときの印象が、それまでのラジカセなんかの音に比べると、めちゃくちゃ音がいいじゃんと。そういう意外性があった。あんなちゃちなヘッドフォンで、乾電池駆動の小さいプレーヤーなのに。そこのギャップ感が大きかったですね。それまでは大きいシステムじゃないといい音は出なかった。そういうハイファイの音を外でも気軽に聴けるポータブルプレーヤーなので大ヒットしたんですね。
ヘッドホンオーディオが出てから、ラジカセはどのように変わって行ったかと言うと。ウォークマンと共存する道を選んで居ると思うんですよ。たとえば家ではウォークマンで聞くテープをラジカセで作ったり。またラジカセ自体の一部がウォークマン化して、ラジカセの中に収まる製品が出たり。
-合体ロボみたいなラジカセ。日立が出してましたね。
松崎: パナソニックとかいろんなところで出していました。そういう共存の道を選んで。ウォークマンを持っていても、ラジカセも持っていた方がより楽しく使えるよと。両方持っていると楽しみ方が2倍になると。今のパソコンとiPadとかのように。
貸しレコード店の登場とカセットの百花繚乱-80年代初め
1980年ごろから「黎紅堂」や「友&愛」をはじめとする貸しレコード屋が続々とできて、カセットのニーズが一気に広がります。それまでは高いお金を出してレコードを買うか、友達からレコードを借りてカセットにダビングするか、エアチェックで我慢するしかなかった。そこにもう一つの選択肢として、レコードの定価が当時2500円ぐらいなのが、1泊で借りると10分の1ぐらいの料金で、LP1枚自宅に持って帰って録音して。当時は自分で買ったレコードも1回カセットに落とせば締まってましたもんね。
レコードは再生するたびに音質が落ちていくから。それに、だいたいレコードで聴くのって、家の中でコンポの前でしか出来なかった、それに比べるとカセットってもっと気軽に出来る。その辺のカジュアルさ、音楽を聴く手軽さ。そことレコードの音の良さが結びついて、貸しレコード屋は大ヒットしたんですね。僕も当時、近所の「友&愛」から借りてましたけど、店内には録音用のカセットも山積みになってました。
本当は著作権の問題とかがあって。でも途中から貸しレコード店がレコード会社に補償金を払う様になったんです。訴訟問題なんかがあって、和解して。それでレンタルレコードでは途中から新譜を置かなくなったんですよ。発売後6カ月間ぐらいたってから貸しレコード屋に並んだ。また、CDが80年代半ばに出て来て、CDってレコードより長く録音できるので、それまでカセットテープには46分と90分と120分ぐらいしかなかったのが、54分とか74分とか110分とか中途半端な分数のテープがいっぱい出たんですよね。その中からCDにぴったり録音時間が合うようなテープを選んで録音したんですよ。
重低音と大型化-80年代
シャープの大型ダブルラジカセ「ザ・サーチャーW」
80年代半ばにソニーが「ドデカホーン」という重低音の響くラジカセを出しました。「ドデカホーン」は86年ぐらいからですね。最初はカセットの「ドデカホーン」が出て、80年代後半からCD付きの「ドデカホーン」が出て。
その後、大型化の流れができますよね。サンヨーとかが、バカでかいのを出した。 バブルラジカセの時代ですね。重低音を存分に出す方法で各メーカーが競い合って、いろんな方式で。90年前後ぐらいのCDラジカセは、重低音が各メーカー凄いですよ。色んな方式を組み合わせたり、パワーと重低音で競い合っていた。基本的には、エンクロージャーというか、ラジカセの中に音の組み合わせ、重低音が出る仕組みとか、あとは電子回路でブーストしたり。
-ラジカセでもあんな重低音が出るんだと言う驚きがありました。
女性向けおしゃれラジカセの登場
1979年発売されたサンヨー「おしゃれなテレコU4」80年代のラジカセは大型化と小型化の二極に分かれたんですよ。特にサンヨーなんかは80年代に先駆けて、女性向けのラジカセを出した。小型で横長の。横長で赤い。もともとラジカセは70年代は男性向けに作っていたので、男性が好むようなメカニカルな、色もダークな物が多かったけど、サンヨーは女性向けに目を付けた。あれが予想外の大ヒットで、ソニーとかパナソニックも焦って追従した。サンヨーやシャープはもともと大手メーカーにないようなエポックメイキング名製品を作ってたんです。
90年以降はメイド・イン・ジャパンのラジカセがなくなって来て、中国とか東南アジアにソニーとか各メーカーが一斉に移るんですね。ラジカセ自体が日本で生産されなくなった。91年ぐらいでバブルが崩壊して、その後は量産化と低コスト化に入るので、海外に行って仕舞う。家電の生産ラインの移転はやむを得なかった面がある。
ただ、生産は海外に移っても、デザイン自体は日本でやっているはずなのに、安っぽくなって、かつてのかっこよさが失われてくる。安っぽさの背景には、コストを掛けない時代になって来た事と、あとは70~80年代に比べると、極端に製品のサイクルが短くなって来た。昔は一つの製品が2年とか3年もったのに、バブル崩壊後は製品のサイクルが1年とか2年。どんどん新しい製品が出て来る様になって、コストを書けないで新しい製品を出してくる考え方にだんだんなって来た分、デザインや内部のメカニズムにかけるお金がなくなって来た。
もう一つは、部品の小型化があります。80年代だとまだ基板の中にいろんな電子部品がくっついて、それが全体的にラジカセの重さにもなっていたけど、90年代になると部品のコンパクト化が進んで、10分の1とか100分の1とかの基板で済んじゃう。すると、外側は人間が手で動かすのである程度の大きさが必要ですけど、中はスカスカになる。どんどん軽くなって行く。その辺がちょっとチープ化したという意味合いにも捉えられて居るのでは。
昔のラジカセは、スイッチ類の多さが多機能の証のようなところがありました。だんだんそういうメカニカルな感じがなくなってきた。一番ピークだったのは、バブル期のラジカセが、いろんな機能を搭載して居た。本体にもスイッチが付いてるんですけど、リモコンに色んな機能が付いて居て、リモコン一つでラジカセの機能がすべてオペレーション出来る、それが多機能の頂点だった。その後はラジカセがシンプル化して行く時代に入る。自分たちが多機能を使いこなすのではなく、ラジカセが聴く人にとって最適な音を提供しますと、ラジカセの機能が進化していく。エンドユーザーが自分の好みの音を設定しなくても、その場にあった音楽はこれで十分ですよ。ラジカセが音を提案してくれる。ユーザーがいろんな音を決めなくて済む時代に入って行く。
逆に言うと、音楽好きな人が自分の好みの音を作ると言楽しみが無くなる。メーカー側がこの音ですよと設定しちゃう。唯一あるとすると、音楽のジャンルでポップスとかジャズとかクラシックとかの棲み分けしかなくて。それが現代のラジカセの風潮なのかな。ただ、それを今の人たち、現代のラジカセ好きが望んで居るかと言うと、そうでも無いんですよ。そこはメーカーの主張と、ユーザー側の本当はもっといい物が欲しいんだよねと言う意見の相違は今でも一杯ある。
-ー家電が日本製だった頃ーー。
時代背景になるのが、日本が高度成長期に入って、70年の大阪万博が頂点で、それが終わった後も景気が良かった時代が続いている。80年代に入って、半ばからはバブルが始まるじゃないですか。家電を作る側としても時代の好景気の波に乗って自由にいろんな物を作れたと言う背景がある。
今は物が売れない時代なので、メーカーもシビアになって売れる物しか作らない。コストも掛けない。デザインも商品サイクルが短いのでそんなにお金を掛けない。悪循環のスパイラルに陥って、中で物を作っているデザイナーやエンジニアの人たちが悶々として居る。自分がこれがいいという物をメーカーの中で自由に作れない。そう言う事を、メーカーのエンジニアの人は言って居る。
消費者の側からしても、心がときめく製品が少なくなった。なかなか巡り会えない。そこで昔の中古ラジカセに需要と人気が集まる。中古ラジカセは、今は、Yahooオークションなどで。オーバーオールしてリペアしたモノにBluetooth機能を改造して付けて、スマホからストリーミングで音楽を聴く事が出来るラジカセなどを販売して居ます。またラジカセ専門店も渋谷に出来ました。
1970〜80年代につくられたビンテージラジカセを集めました。日本ではあまり見かけない海外のゲットーブラスターもたくさんあります。ラジカセ以外にもいろいろなものがあります。通信販売やレンタルにも対応しています。ラジカセ修理もご相談ください。
お急ぎのご用は03-5941-6242までご連絡ください。
〜〜「懐かし洋画館」(過去記事から再び再録した記事です)〜〜
〜懐かし映画館〜
「続・荒野の用心棒/ジャンゴ」1966年、イタリア製作。
マカロニ・ウェスタンの名匠セルジオ・コルブッチが1966年に手がけた傑作西部劇。メキシコとの国境沿いにある寂れた村。南軍の残党ジャクソン少佐とメキシコの独立運動家ウーゴ将軍率いる2つの勢力が激しく対立するこの土地に、棺桶を引きずった流れ者のガンマン、ジャンゴがたどり着く。彼の棺が開く時、壮絶な戦いの火蓋が切って落とされる。フランコ・ネロ演じる陰鬱で神秘的な雰囲気をまとったジャンゴの姿は強烈な印象を残し、マカロニ・ウェスタンの伝説的ヒーローとして後世に語り継がれる事となった。クエンティン・タランティーノが「ジャンゴ 繋がれざる者」でオマージュを捧げた事や、三池崇史監督が日本を舞台にして撮った「スキヤキ・ウエスタン/ジャンゴ」でも知られる。日本初公開は1966年。2020年1月、オリジナルネガから4Kスキャン・レストアされたデジタルリマスター版がリバイバル公開された。
1966年製作/93分/イタリア・スペイン合作
原題:Django
配給:コピアポア・フィルム
日本初公開:1966年9月23日
○ストーリー
メキシコ国境に近い宿場町。ここでは元南軍のジャクソン少佐とメキシコ独立運動家ウーゴ・ロドリゲス将軍の率いる二つの勢力が対立して居た。棺桶を引きずりながら現れた流れ者のガンマン・ジャンゴは、ジャクソン一味に殺され掛かって居た娼婦マリアを救う。町に入ったジャンゴは酒場で出会ったジャクソンの部下ジョナサン神父を挑発し、話を聞きつけて酒場を訪れたジャクソンの部下たちを射殺する。ジャクソンは40人の部下を引き連れて報復に現れるが、ジャンゴは棺桶から取り出した機関銃を乱射し返り討ちにする。しかし、ジャンゴはジャクソンを見逃し、酒場の主人ナタニエレと共にジャクソンの部下たちを埋葬に向かう。埋葬を終えたジャンゴは、かつての恋人がジャクソンによって殺された事を語る。
ジャクソン一味が居なく無った町にジョナサンが現れ、「マリアが町に災いを呼んだ」と責め立てる。そこにロドリゲス一味がやってきてジョナサンは殺される。ロドリゲスは酒場で、命の恩人であるジャンゴを見付けて再会を喜ぶ。ジャンゴはロドリゲスに対し、ジャクソンが金塊を預けているメキシコ政府軍の砦を襲撃する事を持ち掛け、独立戦争を仕掛ける為の軍資金を求めて居たロドリゲスは提案を受け入れる。ジャンゴたちはナタニエレの荷馬車に隠れて砦に向かい、油断していたメキシコ軍を襲い金塊をの強奪に成功する。酒場に戻ったジャンゴは金塊を山分けして立ち去ろうとするが、ロドリゲスは金塊を独り占め仕様とした為、彼らが祝杯を挙げて居る間に金塊を盗み出し、マリアと共に逃亡する。メキシコ国境まで来たジャンゴはマリアと別れ様とするが、銃が暴発した勢いで馬が驚き、金塊を入れた棺桶が沼に落ちてしまう。棺桶を追って沼に飛び込んだジャンゴは沼に沈んでいき、マリアは助けようとするが、追い付いたロドリゲス一味に撃たれ重傷を負い、捕まったジャンゴは二度と拳銃が握れないように両手を潰されてしまう。
ジャンゴをリンチした後、ロドリゲス一味はメキシコに向かうが、待ち伏せしていたジャクソンとメキシコ軍に襲撃され全滅する。酒場に戻ったジャンゴは、ナタニエレにマリアの手当てを頼み、同時にジャクソンとの決着を付けるために、彼を墓地に呼び出す。ナタニエレからジャンゴの伝言を聞いたジャクソンは、彼を殺してジャンゴが待つ墓地に向かう。両手を砕かれ引き金を引けないジャンゴは、銃の用心金を歯で外し十字架を盾に決闘に備える。5人の部下と共に墓地に現れたジャクソンはジャンゴから距離をとり長銃で十字架を狙い撃つ。追い詰められる中、ジャンゴは1ショット1キルのファニングショットで応戦してジャクソンたちを射殺し、彼らの死体が横たわる墓地を後にする。
「続・荒野の用心棒」予告編
スタッフ/キャスト
スタッフ
Django 1966 tribute
冒頭, 泥土に塗れた砂漠を一人の男が棺桶を引きずりながら歩いて居る。
次の場面では女が鞭打たれている。下衆な笑いを浮かべた男達が縛られた女を取り囲んでいる。鞭が振り上げられる事、何度目か,突如銃声が立ち, 男達が倒れる。観客は当然, 棺桶の男が女を助けたのだと思う。ところがその期待は外れる。川向こうから赤いスカーフを巻いた男達が女のもとにやって来る。女を拷問していた連中を撃ったのは彼らだったのだ。女の味方だろうと思う。しかし彼らも「メキシコ人に寝返った罰だ」などと言って, 女を十字架に掛けて焼き殺そうとする。観客の頭の中がクエスチョンマークで埋め尽くされる。そこへ棺桶の男が現れる。悪党とのありきたりのやりとりの後, 電光石火の早撃ち....
この導入部は『荒野の用心棒』よりもよく出来て居ると思う。「前作」では町に巣食う二つの勢力の対立がセリフで説明されて居たのに対し, 本作では一見めちゃくちゃな導入部によって「ああ, なんか敵対する二つの組織があるんだな」と言う事を活劇らしいアクションで匂わして居る。この差は大きい。
こう言う古典的な活劇が無くなったのは残念だと思う。初めの出会いの時点で, マリアがジャンゴを好き, ジャンゴも彼女を愛して居るのが解る。凝った表現が無くともしっかりと描かれて居る。「嬉しかった。わたしを助けてくれた時, わたしを愛してくれたのだと思えて・・・」と言う単純極まるセリフがこれ以上ない美しい響きを帯びる。同時に, その単純さが彼らのこれまでの人生の過酷さを物語っても居る。この映画はバイオレンスだ。しかし根底にあるのは虐げられた人間の悲哀と男女の愛だ。私は若い頃この映画を観て機関銃で人種差別者の悪党たちをなぎ倒す処と最後の主人公が痛め付けられ、且つて愛した奥さんの墓標を盾にして。拳銃のトリガーが弾けないのを根性で引いて、ジャクソン一味を皆殺しにするラストシーンを見て感動した。いい映画を観たと思ったのだ。今、この様な映画が撮れるだろうか?バイオレンスシーンならこの映画以上のシーンがCGで撮れるだろう。だが肝心の極限状態での愛が描けるか?主人公のジャンゴは且つて早撃ちで鳴らしたガンマンだ。しかし南北戦争が嫌になり、金しか信じられなくなって居る男だ。そして悪党ジャクソン一味に奥さんを殺された恨みがあった。彼に助けられた女は白人とメキシコ人のハーフでこの場所では誰からも愛されて居ない。そんな二人が出会い。そして最後は敵であるジャクソン一味を倒すのだ。何故、マカロニ・ウエスタンが50年も経過しても今の人たちにも感銘を与えるのか。それは低予算なれども、人間を描いて居るからだ。なる程、この映画には、ジャンゴがマリアを愛そうとするシーンが少しだけ描かれて入る。しかし暗示だけだ。セックスシーンは一切ない。ストイックに撮って居るのだ。ジャンゴの悲しみ。マリアの悲しみは最後の方ではまた繰り返されるのかとさえ思う。しかしライフルで撃たれたマリアを両手を潰されながらも担ぎ上げて、酒場に連れて行きマリアを横たえて、ジャンゴは言う「ケリを付ける。ジャクソンを殺さなければ俺たちに安らぎはない」と。この映画は、綺麗事は一切言っては居ない。ジャンゴも金塊が目当てでこの因縁がある町にやって来たのだ。しかし、虐げられて居る女性を助けた。これも何かの縁だ。彼は彼女とまた人生をやり直そうと思ったのだ。死んだ奥さんの墓標に拳銃を備え付けて、電光石火の早撃ちで憎きジャクソン一味を撃ち殺したジャンゴに歌が被る。
ジャンゴ お前が愛したのは一度だけ
ジャンゴ それも忘れてしまったか
生きることも愛することも
たった一度の事だから
ジャンゴ お前が愛したのは一度だけ
ジャンゴ お前はいつも一人ぼっち
愛はとっくに消え失せて
お前は永遠にさすらい続ける
空に星が現れる それはお前のため
地に薔薇が咲く それもお前のため
ジャンゴ 苦しみの後に希望が湧く
〜さすらいのジャンゴいい歌だ〜。
「さすらいのジャンゴ」を三か国語で歌ってみた♪
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