今日は新宿に行って来た。久々です。用事があったのかと言えば、あったのですよ。映画を観に行ったのです。それも1966年製作のマカロニ・ウエスタンの「続・荒野の用心棒」4kリマスター・バージョンのリバイバル・ロードショー映画なのです。15時50分からの廽です。本当は18時30分からの、上映後に今回の上映の字幕翻訳を担当した。「マカロニ・ウエスタン研究家」の二階堂卓也さんなどが行うトークショーのある廽を観に行こうかと思ったのですが、、時間が遅いのと、最近調子が余り優れないので、余裕を見て、15時50分からの廽にしたのです。いや、、矢張り身体が、、調子が悪いと言うか、足が歩いて居て、痛く成って来るのですよ。それと寒いせいか、トイレが近い。だから伊勢丹のトイレで用を足して、伊勢丹の脇にあると言う。「シネマート新宿」を探すも、前に見た時には判ったのに、今回探しても良く判ら無い。試しにスマホで案内して貰うも、もう映画館に来て居ると言う。「おかしいな...。」と思いながら先に行くと。雑居ビルの6階と7階と成って居る。判りづらいなと思い、エレベーターに乗って6階まで行くと、映画館の中がジャンゴ(続・荒野の用心棒)祭りだ。人はまだ公開初日なのでか、それとも矢張り、過去のマカロニ映画と言う事だろうか、余り多くは居ない。
私は映画館で映画を観るのは10数年振りなので、鑑賞券はネットで購入した。購入と言っても鑑賞券が送られて来る訳では無くて、デジタル・データの数字とネットで購入時に考えた暗証番号がメールで送られて来るのだけども、何だか最近は本当にデータ化されて居ますね、何もかも・・・。しかし、カウンターにパンフレットやら置いて居ないし。あれ程、宣伝して居たポスターは売り場の壁に貼ってあるだけで、良く判らないので店員に聞いて見ると、両方とも売って居ると言う。だから「パンフレッド1冊とポスター1枚下さい」と言って購入した。するとその店員が「「ジャンゴ・ウイスキー」ありますよ。」と勧めてくれたが、私はアルコールに弱いから遠慮した。フロワーは余り広くは無く。暖房が入って居て少し暑いのだ。何しろ私は今日は寒いので、ブレザーにロング・コートを羽織って居る。これでは映画の上映中に暑いかなと思って居たが、、映画が始まると何だか寒くて、コートを着たままでも寒かったのでちょうど良かった。暑いのはフロワーだけだった。しかし鑑賞券を貰う為に、タブレットが置いてあるので。それで、メールで送られて来たデジタル・データと暗号番号を入れると、端末から鑑賞券が出て来るのだが、私は指でやるのだろうと思ってタブレットを見ながらキーボードの番号を押すも数字が入力されず、、焦って居たら店員の若い女の子が来て、付属のペンで数字を押したら入力されるので、私が数字番号を言って、やって貰った。端末から出て来た鑑賞券を渡されて、暫く館内の「ジャンゴ」に関する写真などを見て居て、時間に成るから、1階上のシネマ2に行くと鑑賞券のもぎりが居たので渡すと。お客はと言っても年配が多かったが、何も言われないのに私が鑑賞券を渡すと、半権をもぎって寄越して「ゆっくりとご鑑賞下さいね」と言われて少し良い気分に成りながら自分の予約の席へと・・・・。ちなみに私は障害者枠だから1,000円で見られる事に成った。行政に感謝です。。。
壁には、延々と「ジャンゴ」のポートレート写真やらポスターが並んで貼り付けてある。「シネマート新宿」のこの映画を再び、今の時代に上映する意気込みを感じた。私はこの映画館は、普段はどちらかと言うと、ディープな韓国映画を、上映して居る事で有名なので。名前は知っては居たが、韓国映画は余り好きでは無いので、来た事がなかったが。映画館は狭くこじんまりと纏まって居た。写真には撮らなかったが、韓国映画のDVDが何と100円で売って居たのには吃驚した。また、邦画も上映して居る。ミニシアターなので、可也マイナーな作品を上映して居る様だった。それから映画書籍も売って居た。良い映画館だと思った。。。私は良く行く「テアトル新宿」に次いで良いなと思った。
映画の内容は、もう知って居るけど、、この映画は1年間ぐらい見て居なかったから、新鮮だった。しかし、「4kリストアの割にはこんなものかぁ・・・」とは思ったが。多分、8kで撮影された映画を4kにダウン・コンバートしたものをアパートの4kテレビの55インチで見て居るからだろう。少し物足りなく感じたのだ。しかし映画館の大型スクリーンとデジタルに加工し直した音響が凄くて、音に関しては昔の映画なのでモノラルだが、台詞と映像の音楽は別に成って居るので。ドルビーに成って居て臨場感が凄い。矢張り自分のアパートでテレビ画面で見るのとは迫力があって段違いだ。あそこまで臨場感のある音声と効果音そして音楽を大音響では聴けない。満足して帰って来た。
Django 1966 tribute
アパートに帰って来てから。購入したポスターとパンフレットを見てみた。私は1966年公開当時のパンフレットを持って居るのだが。今回のものは今風に新しく書き下ろしたパンフレットだった。
映画館での自撮りでした・・・・。しかし太って居て、自分でも嫌になりますよ....。(● ˃̶͈̀ロ˂̶͈́)੭ꠥ⁾⁾
そして、紀伊国屋書店に行く。まずは久々外食をするので。天ぷらだ。地下にある「和幸」に行く。運ばれて来たものを写真に撮るつもりだったが、お腹が空いて居たので、運ばれてからすぐに食べたので、写真は撮るのを忘れて居た。だからサンプルだけです。
そして紀伊国屋書店の8階にある。ディスクユニオンの中古レコード、CD売り場に行く。久々中古レコードとか見て廻った。時間が遅いので、、今回は見るだけにした。此処は久しぶりに来る。何時もはロック館に行くからなぁ・・・。
(株)ディスクユニオン 会社紹介〔full ver.〕
ディスクユニオン スタッフ採用動画〔full ver.〕
レコード屋入門編inディスクユニオン!
そして紀伊国屋書店1階の書籍売り場に行く。。。雑誌を主に見て廻る。。。
何だか昔のアニメの特集号が連なって置いてあるのです。「シティー・ハンター」「機動戦士ガンダム」「北斗の拳」「うる星やつら」「キャプテン・ハーロック」「銀河鉄道999」など、往年の人気アニメだ。私は思うが、最近のアニメを特集した雑誌やら書籍をとんと見かけない?最近のアニメの特集号は売れないのか?例えば「新海誠特集号」でも良いではないか、、私は新海誠も好きですよ。一番好きなのは短編なれど「言の葉の庭」かな。大ヒットした「君の名は」は余り好きでは無いのですが、、「天気の子」はいいと思うし。と言っても見て居ないけど。大体の雰囲気で良いと言える。そして奇妙な事に、押井守は「うる星やつら」があったけど。「スタジオジブリ・宮崎駿作品」の特集号がない?何でも今年に宮崎駿の最後の新作が公開されるはずだが....。今持って、情報が漏れて来ないし。宮崎駿関係の書籍は、此処もう8年間ぐらいは何も発売に成っては居ない。マスコミは、宮崎駿が旬なうちは記事にして稼いで居たが。最後とも成ると、もう用無しなのだろうか?そう言えば、新海誠について、いや、彼の作品群についての書籍が、一向に発売に成ら無いですね。新海誠に付いては、彼に付いての、インタビュー記事などは良く雑誌に載るが、、作品の解説本だとかを見た事が無いのです。
『言の葉の庭』 予告篇 "The Garden of Words" Trailer
映画『天気の子』スペシャル予報
見て廻って、月刊雑誌「pen」が「ジョン・レノンを語れ!」と言う特集号なので購入して来た。
私はもう1年近く散髪をして居ない。美容院でカットもして居ないから髪が可也長く成って居る。そのせいか、今日は後ろから若い女の子の笑い声が聞こえた。私の事では無いのかも知れないけど。若い女の子の笑い声は私は嫌いなのです。しかし今日トンカツ屋で食事をしたら。私以上に髪が長い、30歳ぐらいの男性と。矢張り可也な長髪の40代ぐらいの男性が食事をして居た。二人とも可也長い長髪だった。だから私を含めて3人長髪の男がとんかつ屋で食事をして居た事になる訳だ。。。。食べて居たらサービスで、「キャベツのお代わりするか?」とまかないのおばさんがキャベツが残り少なく成ったら、キャベツの入った入れ物から入れようとするから。「いや、、良いんです」と言った。サービスは分かるが、量が多いものなぁ、、しかし、新宿では手軽に此処で天ぷらが食べられるので、また食べようかと思った、贔屓に仕様と思う。何だか新宿の芸術肌の男がよく食べに来るのだろう。あの可也長い。長髪の男たちは只者では無い雰囲気を持って居た。。。
そして、新宿の通りを暫く歩いて居た・・・。すると、「ねえ!あんた外人かと思っちゃったわよ!!」と誰かが側で言う。私は吃驚して振り返ったら68歳ぐらいのお婆さんだ。私は何だか判らずに立ち止まると。そのおばあさんは、唐突に「あんた五百円くれない」と言う。私は「・・・・」と一瞬固まった。「夕食代なんだよ。五百円で良いからさぁ〜」見れば身なりはきちんとして居る。私は「何だ〜」と思ったが「俺、金ないんですよ・・・。」と言ってその場から歩き始めたら、「今度奢ってね〜〜。」と言うのだ。しつこく追っかけては来なかった。何か事情があるのだろう、今時、浮浪者は居ないだろうに....。今日は、久々夜の新宿を歩いた。
ーー新海誠のアニメーションの成り立ちーー
新海誠作品はしばしば、その美しい風景描写によって高く評価されて来た。 この風景描写がもつ含意について、アニメーション研究者のトマス・ラマールによって導入された〈局所化された運動〉、〈局所化されていない運動〉、〈合成〉という概念を援用する事で、アニメーション・スタイルという観点からその特異性を明らかにすると共に、風景論やスティーヴン・シャヴィロによる思弁的実在論への注解を参照する事で、ナラティヴと言う観点から考察し、近年の SNS 文化との関連を指摘する。 SNS 文化 デビュー作『ほしのこえ』(2002 年)以降、大ヒットを記録した『君の名は。』(2016 年) にいたるまで、新海誠作品はその特徴を美しい風景描写にもって居ると考えられて来た。たしかにこの主張は正しいだろう。とは言え、この言明はあまりに明白である為、それだけではほとんど何も意味して居ない。此処では新海作品における風景の意味をより深く考察する為、アニメーションのスタイルおよびナラティヴの観点から検証する。 以下、アニメーション研究者のトマス・ラマールによって導入された〈局所化された運動〉、 〈局所化されていない運動〉、〈合成〉という概念を援用する事で、新海作品のアニメーション・スタイルの特異性を明らかにする事から始める 。つづいて、新海作品の物語構造を分析する共に、柄谷行人の風景論やスティーヴン・シャヴィロによるアルフレッド・ノース・ ホワイトヘッドおよび思弁的実在論(speculative realism)への注解を参照する事で、新海作品のナラティヴのなかで風景がもつ意味を、世界との交感およびソーシャル・ネットワー キング・サーヴィス(SNS)文化との関連で考える。.風景の審美化 〈局所化された動き〉、〈局所化されていない運動〉、〈合成〉 新海作品における風景の含意をアニメーションのスタイルという観点から考え、新海作品 をアニメーション表現一般のなかに位置づける為めに、トマス・ラマールの論文「生を得る ――カートゥーンの動物と自然哲学」を参照する事から始めよう。この論文で、ラマール はまず、「生気=動きを吹き込む事」と言う「アニメーション〔animation〕」の原義を確認している 。すなわち、アニメーションという表現形式はパラパラ漫画の原理によって静止画 を動かす事で、そこに描かれたイメージに生を授けることを本質として居ると言うのである。とは言え、この点は従来のアニメーション研究においても十分に強調されて来たのであり、ラマールがこの論文で試みるのは、〈局所化された運動〔localized movement〕〉と〈局所化されて居ない運動〔non-localized movement〕〉と言う二種類のアニメーションの運動を峻別する事で、アニメーションの本質=〈動き〉と言う命題を複雑化する事である。すなわち、従来のアニメーションに関する言説は、とりわけキャラクターの動きによって具現化される〈局所化された運動〉――まとまり=形象として組織された運動――のみに焦点を当てて来たのに対し、ラマールはこの〈局所化された運動〉を超えて、〈局所化されて居ない運 動〉を含めて、より総体的にアニメーションの運動を捉えようと企図するのである。
ラマールが〈局所化されて居ない運動〉によって意味するものとは、形象の動きとして組織されて居ない運動の事である。〈局所化されて居ない運動〉は、映像そのものの運動、とりわけ背景における風や雨による運動、視点移動にともなう背景そのものの運動によって具現化される。ただし背景の運動と言っても、たとえば雲の動きは場合によって、形象の運動= 〈局所化された運動〉としても描く事が出来るし、出現と雲散霧消の過程にあるものとして非形象的にも描かれうると言う点は注意が必要だろう。そしてラマールは〈局所化されて居ない運動〉――あるいは〈局所化されて居ない運動〉と〈局所化された運動〉の関係(ただしいずれにしても〈局所化された運動〉を超過して居る運動)――に焦点をあてるために、 〈合成〔compositing〕〉という論点に注目するのである。 ラマールはアニメーションにおける〈合成〉の技術を支える決定的な装置ないし機械として挙げるのが、マルチプレーンのアニメーション撮影台である。すなわちこの撮影台によって、それぞれ異なるイメージが描かれた、互いに独立した複数のレイヤーを重ねる事が出来る様に成ったのであり、この操作を通じて、前景の運動(キャラクターなど)と後景の運動(背景の山々など)を合成する事が可能になったのである。さらにマルチプレーンの撮影台は、レイヤー間の関係を水平方向へずらすことやレイヤー間の距離を調節する事によって、横移動や奥行きの運動を作り出す事も出来る。こうした運動は、キャラクターの 動きに具現化される〈局所化された運動〉を超えた、キャラクターをある平面座標内に位置 づけるモメントを内包した〈局所化されて居ない運動〉――図としての〈局所化された運動〉 -- を地としての〈局所化されていない運動〉のなかに位置づける運動――を含意している。くわえて、こうしたレイヤー間調節の結果、視点移動、色調やピントの変化と言った〈局所化されていない運動〉も組織されるのである。(ラマールは撮影台にくわえ、色調の変化を初めとする〈効果〉を生み出す最近の技術として、デジタル CGI を挙げて居る。) 以上の様に〈局所化されて居ない運動〉と〈合成〉に注目する事の利点は明らかである。まず従来のアニメーション研究は、ディズニーの動物キャラクターの流麗な動きにせよ、 リミテッド・アニメーションに基づくテレビ・キャラクターの平行移動にせよ、ほとんど〈局所化された運動〉にのみ焦点をあてて来た。たしかにアニメーションの魅力の多くは、こうしたキャラクターの動きから引き出されて居るとしても、アニメーションはその初期から ――ディズニーがマルチプレーン撮影台を奥行き表現のために活用する以前から――、たとえば『恐竜ガーティ』(ウィンザー・マッケイ、1914 年)における背景の湖面のさざ波や『インク壺の外へ』(フライシャー兄弟、1919 年)におけるキャラクターのココがスケッチブックから飛び出して来る場面において、〈局所化されていない運動〉を描いて来たのだった。と すれば、より詳細かつ厳密なアニメーション史を辿る為めには、〈局所化されていない運動〉 を十分に考慮する必要がある。
また〈局所化されていない運動〉を考慮に入れる事によって、社会との関係においてアニメーションがもつ、幾つかの理論的含意を理解する事が出来る。まずラマールは、アドルノのドナルドダックに対する批判を、〈局所化されて居ない運動〉をキャラクターの〈局所化された運動〉のために馴致化する事に対する批判として再概念化する事が出来ると主張して居る 。ドナルドダックは打たれる事によって、ディズニー映画が「プラズマティックな動き」(セルゲイ・エイゼンシュテインのミッキーマウス論)として保持して居た 〈局所化されていない運動〉――脱形象化を含意する痙攣的運動――をキャラクターの運動へと局所化するのであり、これがとりわけ文化産業の問題なのは、観者がこの打たれることを サディスティックに喜びながら見るためである(かくして、観者は監視者としての消費者の 位置を占める事に成る)。 さらに、ラマールは〈局所化されて居ない運動〉と〈局所化された運動〉の問題を、ジョルジョ・アガンベンの生政治論に結びつけて居る。すなわち、前者を「ゾーエ〔zoe:ありのままの生〕」、後者を「ビオス〔bios:国家によって統治される生〕」と関連づけ、いくつかの戦争プロパガンダ・アニメーション作品(「のらくろ」作品)を例にとりながら、これらの アニメーション作品は〈局所化されていない運動〉を〈局所化された運動〉へと置換する事によって、「生」を国家によって統治されるものへと――「ゾーエ」を「ビオス」へと―― 還元する装置として機能して来たと論じるのである。逆に言えば、ラマールは〈局所化されて居ない運動〉に注目する事によって、近代国家による生政治の枠組みに還元されないアニメーションの含意――論文のタイトルにある自然哲学的 意味――を救い出そうとするのであり、以下で見て行く様に、この自然哲学的含意こそが新海作品に関わって居るのである。
アニメーションはそもそも、ディズニー作品における動物や台所用品が例証するように、アニミズムの想像力に支えられたメディアであったと言う事も出来る。こうした観点から言えば、新海作品における事物――光や、 風や重力によってざわめく原子を含めて――の特異性は、擬人化されないまま汎心論的に登場人物たちとコミュニケーションをおこなう点にあると考える事が出来るだろう。 新海作品においては、〈局所化されていない運動〉が〈局所化された運動〉にたいして前景化される事で、世界との交感が描かれる。主客構造の棄却とともに、人間主体が究極的には消滅してしまう消去主義へと向かう傾向を持ちながら、新海作品は世界の事物が相互にコミュニケーションをおこなう汎心論的世界を描いて居る。ただし注記したいのは、こうした消去主義も情動の計算という今日のポストフォーディズム社会を背景として居ると言う事であり、さらに言えば、事物と人間のコミュニケーションも完全に対等ないし「民主主義」的なもので無いと言う事である。すなわち、主人公をはじめとする登場人物たちはその無力さゆえに行動をおこさないとしても、全編にわたって覆われるナレーションによって世界を支配して居るのであり、登場人物を触発する風景や事物も、特定の人間中心的な視点から取捨選択され、配列されて居るのである。 こうした観点から指摘したいのは、新海作品は今日の SNS において具現化される経験モデルと親和性があると言う事である。デジタル技術の発展とインターネット環境の整備によって、私たちは特別な出来事(卒業式など)や旅行ばかりでなく、日常生活の光景を 撮影・加工し、共有する事が出来る。まず指摘出来る様に、インスタグラムやフェイス ブックにはしばしば、新海作品に頻出する、きれいな夕日や虹がかかった高層ビルの谷間、 雨上がりで緑に映える公園などの風景がアップロードされる。しかも、それぞれの写真はしばしば対象を魅力的に切り取るフレームとアングルから撮影された上で(流行語 で言う「インスタ映え」)、デジタル技術によって画質補正させられ、複数の写真が並列される事で、物語性とは言わないまでも、ある種の連続性を獲得する。
くわえて SNS 上には、 身近な事物や食事の近景が氾濫しており、この様な真上から料理の盛り付けられた皿を撮影したショットは、『言の葉』においてタカオが調理する夕食をはじめとして、新海作品にも見つける事が出来る。食べ物はまさに味わうものであり、この意味で世界との交感を美的に表現している。いずれにせよ、SNS 上には新海作品と同様、世界との交感を美的に喚起する映像が溢れており、その取捨選択と配列には作為(とりわけ「おしゃれなもの」という商業主義と「身近なもの」という保守主義)が働いて居る以上、たとえ能動的人間が姿を消して居る様に見えるとしても、こうした映像は無邪気に――そして解放的に――世界との交 感を言祝いで居るとは言えないのである。あるいはもし新海が今日のSNS文化をモデルとし、 新海作品が SNS へとアップされる画像に模範を与えて居るのだとしたら、私たちは此処に、 今日の社会と新海作品の閉じた共犯関係を見る事が出来るのである。 結論にかえて――ミディアムの具現化と〈局所化された運動〉に対し〈局所化されて居ない運動〉を前景化させる事は、アニメーション・スタイルの水準で、多数の原子の集合とその相互作用 としての世界の称揚および反人間中心主義を含意して居る。まさにこうした性質こそが、新海作品と思弁的実在論(およびホワイトヘッド)を結びつけるのである。とは言え、本論は シャヴィロを参照しながら、新海作品に含意される〈世界との交感〉の称揚を、デジタル技術にもとづく操作(消去主義)および事物の使用(汎心論)という観点から考察した。先述したとおり、シャヴィロはメイヤスーの消去主義にたいして批判的であるが、ハーマンの汎心論的解決にたいしても留保を付して居る。すなわちシャヴェロによれば、ハーマンは「〔関係からの〕ひきこもり」と言う概念に訴える事で、事物に内在するとされる実体をあまりに本質化して仕舞うのであり、シャヴィロはホワイトヘッドに言及する事で、諸事物の相互作用から生じる変化の可能性を強調するのである(シャヴィロはこの点において、実体化 以前の――ホワイトヘッドの言う二元分岐以前の――過程 の次元を強調して、この過程の一義性の立場を取る)。
デジタル技術をめぐる実践に関して言えば、シャヴィロはこうした立場から、反復から予想もつかない効果を生みだすサンプリングを高く評価して居る。 それでは新海作品は、シャヴィロが評価する、変化の可能性へと開かれている美的経験としての世界との交感と言う観点から、どの様に考える事が出来るだろうか。以上で論じて来た様に、新海作品で語られる物語に関して言えば、たしかに登場人物たちは「ひきこもる」かのように受動的である。とは言え、この受動性は美的経験からの撤退を意味してい居る訳ではないし、行動の水準における変化への不活性化は美的水準における不活性化と同義である訳でもない。しかしながら、より広義に新海作品のナラティヴに関して言えば、 もし事物の意味がSNS文化と商業主義によって決定された意味を再生産して居るにすぎないとすれば――どれほど美しく示して居様と、あるいは美しく示して居るからこそ――、新海作品は、いまだ汲み尽くされて居ない潜在的なものの実勢化を含めた、変化の可能性へと開かれた美的経験を締め出して居ると言わざるをえないだろう。 とは言え、たしかに新海作品は今日の SNS 文化と共犯関係にあるのだとしても、その特異性は〈世界との交感〉を美的に表現して居ると言う点にある。さらに、新海作品は一作ごとに変化を続けており、そこで示されて居る可能性を考える為に、新海の最新作『君の名は。』が示して居る世界に言及する事で結論としたい。まず物語について概括的に述べれば、新海はこの作品で、村と言う世界の運命をひとりの女性に担わせるという〈セカイ系〉 の世界設定に回帰している。また『君の名は。』で、新海はこれまでのどの作品以上に、世界を救う為めに能動的に行動する人物を主人公に据えており、アニメーション・スタイルの水準においても、たとえばヒロインの三葉が村を彗星落下から救うために坂道を駆け下りる シーンで、〈局所化されていない運動〉に対し〈局所化された運動〉を中心に捉えて居る。
とは言え、新海はこの作品においても、SNS 上でしばしば見ることの出来る田舎や東京の風景、さらにはお洒落なカフェや料理の皿を捉えたショットを多用して居るのであり、そうだとすれば、『君の名は。』の特徴は、世界との交感(とりわけ SNS によって媒介された)を言祝ぎながら、人間のアクションにも十分な注意を向けた点に存しており、この作品が広く受け入れられた理由のひとつはこのバランスの良さにあるのだと言う事が出来るだろう。 ただし人間のアクションの前景化は、よりオーソドックスなアニメーション作品という帰結を超えて、風景に新しい意味を与えて居る。すなわち、『君の名は。』の登場人物は行為性を持って居る為めに、風景を受動的に経験するだけではなく、その行為のなかで風景と融合するのであり、風景はその行為の遂行を可能にする超越的なものの媒介と成るのである。たとえば、口噛み酒を介して、山頂にて主人公の瀧と三葉が出会う場面において、二人の人物形象はイメージの水準で、分裂しながら流れ落ちてくる彗星の光景のなかで融解し、結ばれる(風景はただ呆然と見られるものではなく、登場人物の遭遇=世界の救済を媒介するミディアムと成って居る)。そしてこの風景の新しい意味に呼応する様に、事物もまた、強い運命の意味を担う事に成る。とりわけ、この作品において重要なアイテムである組紐は、物語の水準で、千年を超える歴史と契りを与えられ、瀧と三葉を結びつける役割を演じている。 アニメーションの表現としても、瀧が口噛み酒を飲んだシーンで、スクリーン全体に組紐がほどける場面がある。見て来た様に、新海作品においては、事物が汎心論的に語り掛けて来るが、此処では、ひきこもりの状態にあった事物の潜在力が開かれる様子が、ナラティヴ およびイメージの水準で明示的に示されるのである。
此処では、みずからの潜在力を開陳し、登場人物に対し変化の可能性へと開くという意味で、事物はより積極的に美的な意味――シャヴィロが評価した意味――を獲得して居る。 しかしながら、看過すべきでない点として、この未来へと開かれた変化の可能性は運命によって定められても居る(シャヴィロが「美的なものの一義性」を主張した時に、同じ問題がある)。新海作品が 2010 年代後半において示して居た、おそらくもっとも重要な問題とは、 高度にデジタル化された世界における、変化と運命のアンビヴァレンス ...。にあるだろう――しかも『君の名は。』が見事に示して居る様に、この変化と運命はスマートフォンと言うメディアを介して開かれる(運命の人とスマホを介してマッチングされると言う想像力)。とは言え、 この運命の行き先は、東京で出会ったあとの三葉と瀧の未来が開かれて居た様に、未知の侭にとどまって居る。本論で見て来た様に、新海作品はアニメーション・スタイルとナラティヴの水準で、〈世界との交感〉に興味深い表現を与えて居るのであり、この交感が SNS によって媒介されて居る限りにおいて、新海作品は、人間がデジタル技術と接続した時代における社会を特異な仕方で映し出して居るのである。
ー私が好きな新海作品「言の葉の庭」ー
『君の名は。』で一躍脚光を浴びた新海誠監督。彼の5作目のアニメ映画『言の葉の庭』は2013年に公開されました。本作は全編46分とアニメ映画にしては短い作品です。
また、映画公開後に漫画化や小説が刊行されるなど『君の名は。』に劣らない広がりを見せてました。『君の名は。』同様、和歌がキーワードになって居ます。
ーあらすじー
秋月孝雄(あきづき たかお)は、母親と兄の3人で暮らす高校生一年生の男の子。靴職人になる事を密かに夢見る秋月孝雄は、雨が降る日は決まって学校の一時限目をサボります。スケッチブックを持って一人、都心の庭園に向かい、庭園内の休憩スペースで靴のデザインを考えて居たのです。
ある日の雨の朝、いつも通り庭園に向かった秋月孝雄は、朝からビールを飲んで居る美しい女性に出会います。ふと、どこかで会った気がした秋月孝雄はその旨を訪ねますが、女性は否定しある短歌を残し去って仕舞います。その日から雨の日の朝、2人だけの交流がはじまります。
『言の葉の庭』の登場キャラクターとその声優
雪野 百香里(ゆきの ゆかり)
秋月孝雄が雨の日に出会った女性。朝からビールを飲み、おつまみがチョコレートだったことで秋月孝雄に不思議な顔をされます。ミステリアスな雰囲気で全てが謎めいた存在でしたが、実は秋月孝雄の通う高校の古文を教える教師だったのです。
生徒からのいやがらせによって味覚障害を起こし、味を認識する事が出来るビールとチョコレートのみを口にして居ました。秋月孝雄と交流を繰り返すうちに、味覚を取り戻して行きます。
声優は花澤 香菜(はなざわ かな)
当時、新海誠監督は雪野 百香里の声優を決める際に25歳以上で応募を募って居ました。しかし、実際にキャスティングされたのは当時23歳だった花澤香菜。
新海誠監督は後にキャスティングの理由を「一番よく分からなかった」からであると話して居ます。結果として、少女のように澄んだ声でありながら落ち着いた雰囲気が雪野百香里にぴったり馴染んで居ます。
秋月 孝雄(あきづき たかお)
本作の主人公。靴職人に成る事が彼の夢で、雨の日の朝は授業をサボり、靴のデザインを庭園で考えて居ます。母子家庭で、また母親が恋に生きる奔放な性格の為、秋月孝雄自身は大人びた考えを持って居ます。
声優は入野 自由(いりの みゆ)
入野自由(いりの みゆ)は、新海誠監督作品『星を追う子ども』に引き続き今作でも主人公の声優を務めて居ます。さわやかな声質から、歌手としても活動しており人気も高いよう。
主な出演作に『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』宿海仁太役、『電波女と青春男』丹羽真役、『ハイキュー!!』菅原孝支役、『おそ松さん』松野トド松役などがあります。
「雨」は『言の葉の庭』のもう一人の主人公だと新海誠監督も話して居ます。秋月孝雄と雪野百香里が出会ったのも雨の日でした。
「雨が降る日は庭園で会える」と、秋月孝雄と雪野百香里は雨が降る事を願う様に成ります。優しく降ったり、激しく降ったりする雨は、その時々の秋月孝雄と雪野百香里2人の気持ちを表して居る様です。
雨が降らない日は秋月孝雄は学校をサボる事はありません。秋月孝雄に会おうと、腫れた日に雪野百香里が庭園を訪ねても知らない人が訪れるばかり。雨が降らない日の庭園は、まるで知らない世界の様だと話して居ます
秋月孝雄、雪野百香里、雨。この3つの要素がそろってこそ、『言の葉の庭』のストーリーが流れて行くと言っても過言ではありません。
『言の葉の庭』の舞台となったのは、新宿御苑であると作品の最後で紹介されて居ます。
入り口は3つあり、新宿門・大木戸門・千駄ヶ谷門のいづれかより入る事が出来ます。秋月孝雄は新宿門から、雪野百香里は千駄ヶ谷門からそれぞれ入園しました。そして、新宿御苑の中には休憩できる東屋がいくつかあります。
秋月孝雄と雪野百香里が交流を重ねた東屋は旧御涼亭付近にあるものがモデルであると言われて居ます。本作のヒットにより、雨の日には多くのファンが足を運ぶ場所となりました。雪野百香里は此処でビールを飲んで居ましたが、実際は禁止されて居るのでお気をつけ下さいね。
『言の葉の庭』の小説を紹介
アニメ映画では描ききれなかった人物やドラマを盛り込み、より深く『言の葉の庭』を知ることが出来る小説。映画は秋月孝雄、雪野百香里の2人にスポットをあてた作品でしたが、小説では秋月孝雄の母親や兄の目線からも丁寧に描かれており、様々な視点から物語を見る事が出来るのも小説ならではの楽しみ方です。
言葉だけで描かれる作品だからこそ、登場人物のセリフや心象描写も細やかで心に残る美しい表現がとても魅力的。
若い音楽好きの間で人気になっているカセットテープ。「アーティストがリリースするカセットを買う機会が増えてきたが、きちんと再生できる機械は持っていない」という平成生まれのライターが、興味を持ったのは東芝から発売されたCDラジカセだった。カセット全盛期に育った昭和生まれのAV評論家と開発担当者を訪ね、製品開発の背景と実際の音を聞いてみた。
◇ ◇ ◇
レコード同様、アナログメディアとしてカセットテープが再評価されている。日本では奥田民生やくるり、銀杏BOYZなどが作品をカセットテープでリリースしており、海外ではテイラー・スウィフトやJay-Zといったベテランから気鋭のアーティストまで、毎週のように新しいカセットテープが発売されて居る。
一方、これだけカセットテープが発売されていても、きちんと聞ける再生機器は少ない。カセットに記されているダウンロードコードを使ってデジタルデータを入手してスマートフォンで聞いている人も多く、中には「カセットは記念品」と割り切って飾って居る人も居る。
そんな中、2018年3月、東芝エルイートレーディングから「カセットをハイレゾ相当の高音質で楽しめる」と言うCDラジカセ「TY-AK1」が発売された。
TY-AK1はどんな経緯で開発されたのか。昭和生まれのオーディオ評論家と、平成生まれのライターが話を聞き、実際にその音を聞いてきた。
メインターゲットはまだまだシニア層
小原由夫(54歳のオーディオ・ビジュアル評論家、以下、小原) 今日は東芝エルイートレーディングに来て居ます。
小沼理(26歳のライター、以下、小沼) 事前にホームページを見たのですが、東芝の中でもラジカセや、ラジオを担当している会社なんですね。
小原 現在市場では年間60万~70万台のラジカセが購入されて居ますが、そのうちの約半数が東芝の製品だそうです。中心は1万円以下の製品と言う事ですが、今回はこちらが高音質のCDラジカセ、TY-AK1を発売したと言う事でやって来ました。商品企画を担当した事業統括部オーディオ事業部部長の堀越務さん、どうぞよろしくお願いします。
小沼 よろしくお願いします。カセットテープは僕と同世代くらいのインディーズアーティストがリリースする事も増えて来ましたが、きちんと再生できる機器がなかったんですよね。そんな中での発売と言う事で、期待してやって来ました。
堀越 そう言って頂いて有り難いのですが、実はまだ若い層のカセット人気は具体的な数字では把握出来て居ないんです。だからTY-AK1も50代がメインターゲットです。
小沼 えっ……そうなんですか。
堀越 CDラジカセを購入したお客様にアンケートをした処、70パーセント以上が50代以上でした。
小沼 想像して居た以上に年齢層が高いですね……。
小原 価格帯も安価なものが多いんですよね。
堀越 そうですね、1万円以下が主流です。
小原 では、どういった理由からTY-AK1の発売にいたったんでしょう?
堀越 CDラジカセの購入者にアンケートを取って見たら、そのラジカセでCDを聞いて居る人がもっとも多く、カセットを聞いて居る人は約50パーセントでした。でも、カセットを持っている人は全体の95パーセントだったんです。
小原 つまり、半数はカセットを持って居るのに聞いて居ない訳ですか。
小沼 聞かないカセットを取って置いてあるんですね。
堀越 詳しく聞いて見ると、まず聞かないのに持っている理由は「思い出だから」。若い頃の記憶にまつわる大切な品だから、捨てられないと言う事ですね。そして「聞くなら良い音で聞きたいから」と言う人が一定数いる事も解りました。
他のラジカセとは一線を画す音のこだわり
小原 実はTY-AK1が発売される前に、東芝のテレビ「REGZA」の音声回路担当のエンジニアの桑原光孝氏が、この試作モデルを携えて僕のもとを訪ねて来たんですよ。彼とは付き合いが長いので、気軽にあれこれと意見をしたのですが、出来あがった製品は初めて見ます。なかなか本格的なつくりと言えますね。お、ハンドルがついて居るのか。
小原 通常のラジカセはカセットとスピーカーがついて居るだけですが、これはスピーカーボックスが独立している。ウーファーとツイーターも分かれて居ますし……。ちなみに、ハイレゾ対応というのは、カセットをハイレゾで聴けると言う事ですか?
堀越 カセットテープをハイレゾで再生出来る訳ではありません。ただカセット音源を高音質化する「アップ・コンバート」と言う機能は搭載しました。