今日は朝から眠たい。鬱病のお陰で精神安定剤が増えたからだ。今、夜の10時20分頃だが夜食事してから、今までうたた寝をして居た。毎日何も出来ない。体が痛い。私が飲んで居る薬は、躁状態になる。だから、例えば美容院などで勝手に話し出して、よく胡散がられる。よく思われないのです。私は本来、無口な男だった。殆んど口を聞かなかった。若い頃はそれはそれで色々あった。「口が聞けない。話が出来ないバカ」だと思われて居た。だが今は違う。聞かれなくても何かしら話して居る。自然と口から出て来てしまうのだ。此間は年配の女性と話した。私はスマホで自分のblog記事を観せて見た。この人は常識があるからと思ってだが、、しかし、期待は裏切られた。私が難しい事を書いて居ると言うのだ。どうやら、気に喰わなかった様だ。それは、私だって参考資料は見る事もある。何故なら正確ではない事は書けないからだ。
だから私は言った。「私を幾つだと思って居るのですか?私はもう63歳ですよ。このぐらいの事は経験上知って居るし。大体が参考文献も読んで居ますから......。」と言った。すると、こう言う。「へっ。本の知識じゃない!?」とね。自分じゃ何も知りもしないで言いたい放題ですよ。人は何なのだろう?自分が知らない事を人が知って居ると徹底的にやっ込めるか、揶揄い始める。何でなんだ?それは人を頭からバカにして居るからだ。知的な話が相手に伝わらない。そして自分が知らない事を此方が言うと頭に来るらしいのだ。すぐに対抗しだす。まあ、私はこの人ならば私のblogを見せてもいいかなと思ったが。飛んだ期待外れだった。日頃、上手い事を言って居る様な人は、とことん疑って罹った方がいい様だ。要するに「精神障害者が一丁前に。何、文書いて嫌がるんだ!」と思ったらしい。
普通の人なら、自分が知ってる事なら一言「そうですね。」知らなかったら「そうですか?」と言うはずだ。それが利口な人の対応だ。そうする事で、自分が相手に敵意を向けて居ない事を示し。知らない事は学ぶ姿勢を見せる。私はそんなに知識がある方では無い。しかし知って居る事は皆んなに話したい。それは私の信頼の証なのだから。しかし世の中の人はそれを自慢としての敵意と取る。「自分が知らない事を言って居る。何偉ぶってんだ。バカ野郎!!」と・・・・。最近はあまり言われなくなったが。大抵、昔は私よりも歳が行った人から、喧嘩を挑まれる事が前はよくあった。嫌、自分の方が上だから、気に喰わない。私を認めたく無いと言った処だろうか。だから「うわぁ、またか・・・。」と思う事が侭あった。何故、人の話が聞けないのだろう?。「聞くは一時の恥」と言うでは無いか。人の話は何でも聞いて置く事だ。私はそう思います。人の話とは私がよく言う「キュレーション」だ。「キュレーション」(curasion)とは、情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業を共有する事です.......。
元は 博物館や図書館などで所蔵物などの展示を企画・運営する役職「Curator」がその語源と言われて居ます。人の話とはその人が学んだ事に。その人なりの解釈で、それをまとめて付加価値を付けて話すものです。だから手取り早くその人から情報が解るのですよね。だから人の話を聞かない手は無いのですよ。此処で言えば、こう言ったblogなどがそうですね。だから人の話やらblogなどは皆さんよく聞き。また、よく読みましょう。私のblogと言う事では無く....。人は皆、利己的に生きて居る。だが、それでは、持ったい無いし。つまらないでは無いか。人から聞いた話が自分の血肉となり。自分の中で膨らみ自分の知識に幅を持たらす。だから何遍も言うけど、人の話は聞くものですよ。特に自分が知らない話だったら尚更だ。どんな分野の話でも聞きましょうよ・・・・・。
それから、先程、ある女性のblogにお気に入りのボタンを押して、「私のblogは障害者のblogですけど、見に来て下さいね」と書き込んだら、言葉は丁寧だが、断りの文が掲示板に書き込まれた。まただと思ったが、仕方が無いのですよ。こうやって嫌われるのです。私は本当にもう、このblogは更新を辞めようかと思って居ます。いい事なんざは何も無いのですよね。どうせblogも惰性で書いて居る訳だしね。ただ、今まで何遍も辞めると言って来たけど。その都度、励まされるのですよ。はっきり言って酷い事も言われて居ますけど。それ以上に励まされて居ますから、、なんか、また鬱ですね、、精神状態が良く無い。だからリスパダールを飲もうと思います。ただ一人、女の子が、酷い目に遭って居る子が居たので、励ましの意味で書き込みしましたが、果たして表示してくれるかどうか。女性の気持ちは解りませんよ。幾つになっても。処で、ゆうこさん、乳がん全摘だそうだけど。大丈夫かな。此の子とも。私は折り合いが悪くなって仕舞った。女性の心は本当に私に取って掴み難いのです。ある女性から、私は何時も自分を構ってくれ。自分中心に世の中が廻ってくれと思って居る。そう思うのは辞めた方がいいと言われたけど。そう見えるのかなぁ。確かに愚痴しか言って居ないから、そう取られてしまうのか・・・・・・。
そう言う訳で、昨日の更新した「三島由紀夫」の記事からまだ1日しか経っては居ませんが。鬱が酷いので、、当分また。更新の期間が開くと思いますので。2日続けて記事上げて見ました。「三島由紀夫」の記事の方も宜しくお願いしますね。読んでみて下さいね。皆さん宜しくお願い致しますね。。。(๑>◡<๑)
私が応援して居る、青木志貴ちゃんです。彼女は声優さんで。モデルで。舞台俳優で。タレントで。YouTuberです。。。
怪獣アオキング秘密基地
私は『ガロ』と『COM』は、まだ数冊は持って居るのです。『ガロ』は白土三平が載って居る号のは余り所有して居ませんが、1970年代前半から1990年代の廃刊間際まで、不定期だが買って居ました。『COM』は1970年代の中頃から矢張り不定期ながら買って居ました。今までに何回か捨て様かと思ったのだけども、捨てられなくて、其の儘、仕舞い込んで居たのです。
日本初の青年漫画雑誌『月刊漫画ガロ』は、それまで貸本漫画の出版などで知られて居た編集者の長井勝一と漫画家の白土三平により1964に創刊された。誌名は白土三平の漫画「やませ」に登場する忍者「大摩のガロ」から取って居るほか。我々の路すなわち「我路」と言う意味合いもあり、またアメリカのマフィアの名前(ジョーイ・ギャロ)も念頭にあった。誌名の複数の候補からガロを選んだのは長井の甥である。題材・内容とスケールから連載する場所がなかった白土の漫画『カムイ伝』の連載の場とする事が創刊の最大の目的だった。同時に、活躍の場を失いつつあった貸本漫画家への媒体提供と、新人発掘のためと言う側面もあった。
長井勝一は後年「執筆者が7人以上居ないと雑誌と認めて貰えなかった」と創刊時を振り返っており、水木しげるや白土三平が複数の名義を使い執筆者を水増ししての創刊だった。当初は白土三平の赤目プロの援助を受けて刊行された。雑誌のロゴも白土が発案し、レイアウトの殆んどを白土が構成した。表紙のレイアウトは週刊誌『朝日ジャーナル』を意識した。『ガロ』に触発された手塚治虫は虫プロ商事より『COM』を創刊、『カムイ伝』に対抗した『火の鳥』を連載する。共に全共闘時代の大学生に強く支持されて行った。
1960年代の『ガロ』は、白土三平の『カムイ伝』と水木しげるの『鬼太郎夜話』の2本柱でおよそ100ページを占め、残るページをつげ義春、滝田ゆう、つりたくにこ、永島慎二などがレギュラーとして作品を発表して居た。永島慎二は『COM』にも連載を持って居たが、『COM』の編集長の手塚治虫から、何で『ガロ』の連載を辞めないのかと訊かれ、「永井さんには売れない時に面倒を見て貰って居たから」と答えて居る。新人発掘にも力を入れて居た当時の青林堂には、毎日の様に作品が郵送で届き、多いときには2日、最低でも3日に一人は作品を小脇に抱えた若者が訪れた。
『ガロ』は商業性よりも作品を重視しオリジナリティを第一とした為、編集者の干渉が比較的少なく、作家側にすれば自由に作品を発表出来た。また、新人発掘の場として独創的な作品を積極的に掲載した。こうした事はそれまで漫画と言う表現を選択する事のなかったアーティストたちにも門戸を開放する結果となり、ユニークな新人が続々と輩出されるようになった。発刊3年後の1967年には、主に『カムイ伝』を目当てにした小学館による買収および、当時の同社の中学生以上の男性向け雑誌『ボーイズライフ』との統合話が持ち上がったが、破談に終わる。現在は『ガロ』『COM』両誌共に廃刊。
下は所有している、『ガロ』と『コム』から一部の写真です。
初代編集長、長井勝一氏
白土三平。
水木しげる
高校生の頃、私が描いたマンガです。goo blogにはイラストやら絵が上手い人が大勢いらっしゃるので、恥ずかしいのですが....。まあ、幼き日に描いた物だから、下手ですが、また挙げて於ます、
( ´Д`)y━・~~
今日は、久々に散歩に出かけた。外で食事をしようと足を運んで見たのだが、、本当に毎日眠くて仕方が無い。私も生きても、あと13年ぐらいの年齢になった。時間は有限です。だから、此れ以上人生に於いての無駄な時間は、過ごしたくは無いのだけども。薬の後遺症で寝て仕舞い。どう仕様も無い。生きた時間がどんどん流れて、私から遠ざかって行ってしまう。それから、私は小柄なものだから、歩いて居て、すれ違う男性たちを見て居ると、最近の若者は身長が最低でも176センチはある。ちょっとすると180センチ位の人はざらに居る。最近は女の子でも170センチある人はざらに居ますよね。私が小柄なせいか、皆さん逞しく見える。どうやら、私が背が高くならなかったのは、お袋のせいか、嫌、お袋の家系のせいだろう。母方の祖父は身長が低くて165センチしかなかったそうだから。昔ならば、それでもあまり問題はなかったが。今は背が低いのはバカにされる要因だ。私は母方の祖父を知らない。母が17歳の頃に他界して居るので。東大出の医者で、訊く処に寄ると可也な名医だったらしい。
今日の夕食。タンメンと餃子です。。。
また、地主でもあった。しかし母に言わせると戦後の農地改革で所有していた土地を殆ど取り上げられてしまったらしい。母は長女だから、祖父母が亡くなった17歳の時に「誰か男を見つけて養子にして結婚でもすれば、土地は手放さなくても良くなる」とか言われたらしい。何時の時代も役所は横暴だ。処で、1970年代はマキシにロンドン・ブーツが流行って居た。流石に16センチはあろうかと言う、ブーツは私は履かなかったが、高校時代の友人たちは結構履いて居た。ロンドン・ブーツと言えば、新日本プロレスで外タレ・レスラーだった、ハルク・ホーガンがデビュー仕立ての頃、身長が192センチもあるのに16センチのロンドン・ブーツを履いて居て、なんだあれはと思ったものだが。彼は猪木に見出されて、新日本でプロレスの修行に来た当初、ロック・バンドでギターも演奏して居たそうで、それでかと理由を聞いて納得したのだった。
本当に音楽をやって居るミュージシャンの卵はこぞって履いて居た。最近では、若い女の子の間で17センチの厚底サンダルとか言うのも、18年前ぐらいに流行って居たっけ。あれは、何だったのだろうか?ヘタな男性より背が高くなって居たのですが....今では持って居る女の子は厚底を削って普通のサンダルにしたらしい(〜〜;そう言えば、この間、スーパーに行ったら食料品売り場の処で、身長193センチはあろうかと言う30代の男が奥さん?を連れて買い物をして居たので、いや〜デカいなと思い足元をふと見たら、何とロンドン・ブーツを履いて居た。今でもロンドン・ブーツは売って居ますよ。1万数千円で買えます。
マキシと言えば、10年程前にマキシでは無いが、よく似たロング・コートを買って、持って居る。私は、1970年代のファッションが好きで、影響を受けて居る。だから今だに長髪です。もう歳ですけど・・・1980年代になるとテクノ・カットだとか剃り上げる髪型が流行って居たが、あれには着いて行けなかった。最近の若者のヘアスタイルは結構モダンだ。部分的に長髪で横側などのサイドにソリを入れて居る。まあ、サラリーマンはやらない髪型だけども。良いでは無いか、若いんだから。私は70歳を超えても長髪を貫き等して居る、ヨウジ・ヤマモトだとかレオン・ラッセルとか良いセンスだと思う。まあ、あそこまで長くはしないが。もう、会社勤めもして居ないし、良いでは無いですか、残りの人生、好きな格好をしたい。ただ、美容室でパーマをかけると必ず美容師さんが髪の毛をバックに撫で付けるがあれは止めて欲しい。「だって、前髪垂らすと可愛くなってしまいますよ」と前に今の美容師ではなく。他の美容室の美容師から言われたけど。何だか違和感があるので嫌だ。自然体が良いのです。
kiyasumeのハーモニカ
さて「懐かし映画館」です。今回は「約束」を紹介します。
『約束』は、1974年(昭和47年)公開の日本映画。製作は斎藤プロダクション・松竹、配給は松竹です。
1972年度キネマ旬報ベストテンで第5位を獲得しました。
監督:斎藤耕一、主演:岸恵子。岸の相手役を演じた萩原健一の出世作としても知られる。
松宮螢子は、夫を殺害した罪で服役中の女囚であり、女性看視官に付き添われて仮出所中の身だった。仮出所の目的は、夫の墓参りと、同房の女囚から頼まれた手紙をその夫に届ける為であった。その螢子は列車の中で、ある男に出会う。男は螢子にしつこくつきまとい、待ち合わせの約束をさせる。螢子は約束どおりに男を待つが、待ちぼうけをくわされる。しかし男は、刑務所に戻るために夜行列車に乗る螢子を追って来た。
螢子は男に心を許し、自分の身の上を打ち明ける。やがて列車は土砂崩れのために停車する。二人は列車を抜け出して抱き合う。男は此の儘逃げようと螢子に言うが、彼女は、又、列車に乗り込んでしまうのだった。到着した女性刑務所の前で二人は、螢子の刑期が終わって出所してからの再会を約束して別れる。男は自分の名を中原朗と名乗った。実は中原も、傷害現金強盗の罪を犯して警察に追われる身であったのだが、螢子はそれを知らなかった。 中原は螢子に差し入れる女性下着を衣料品店で夢中で買いあさる。そこに中原を追ってきた刑事が現れる。「彼女に会わせてくれ、差し入れをさせてくれ!」と叫ぶ彼を刑事は取り押さえて連行するのだった。2年後、刑期を終えて出所した螢子は、中原が逮捕された事も知らず、約束していた公園で中原を待ち続けるのだった。
『約束 』
この映画は日本のクロード・ルルーシュとも呼ばれる斎藤耕一が脂が乗り切って居た時分に撮った映画です。岸恵子は、国際派女優でフランス人の映画監督イブ・シャンピと結婚し。挙式はフランスで、川端康成が立会人となって行われたそうです。以後、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、フランス人たちから「空飛ぶマダム」と言われました。この頃に、ジャン=ポール・サルトル。シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン・コクトーなどの実存主義の哲学者らと親交を持って居ました。また、アラン・ドロンとも交友があります。高倉健主演のシドニー・ポラック監督作のアメリカ映画「ヤクザ」では夫人役を演じて居ます。「傷だらけの天使」で有名なショーケンこと萩原健一はグループ・サウンズ「ザ・テンプターズ」のボーカリストから役者になり、この映画「約束」が演技派としてのキャリアを磨いた初めての映画でした。
この「約束」は1966年の韓国映画「晩秋」を原案にした作品で、服役中の模範囚・螢子が夫の墓参りを特別に許され、看視官付きで列車に乗り込んだところ、一見軽薄そうな青年・中原からしつこく付纏わられるものの、やがて彼の純粋さを知り……と言う、たった3日間の短くも燃えあがる愛の情熱を描いたものです。斉藤耕一監督はこの「晩秋」は韓国旅行の際に映画館で見たそうで、良い話だと思い、日本人のキャストでリメイクして見ようと思ったそうです。撮影はフリーな感覚で、セリフなども大方は決まっているが、撮影の雰囲気でその場でどんどん役者の自由な発想の言葉を拾う用にしたそうです。まあ、最近では北野武がやる手法です。音楽は「宇宙戦艦ヤマト」「ウナセラディ東京」などでお馴染みの宮川奏で叙情性豊かなロマンティシズムな調べを披露しています。そして、この曲はジャン・ピエール・メルヴィル監督作「賭博師ボブ」というフランス映画の曲にインスパイアされています。
この映画を知ったのはビデオデッキが普及し始めた1980年代の頃です。私は気に入った映画、名作映画は必ず録画をしていました。ビデオデッキは後の方になってCMカット機能が搭載されて使い易く成って行きましたが、1980年代当初はまだ、そんな機能はなく自分で小まめにCMをカットしていました。その為、夜9時代の映画劇場ではリアルタイムにCMカットをしながら録画が出来ますが。深夜放映の名画劇場などはタイマー録画しないでCMカットの為、わざわざ眠い中起きて録画をしていました。当時、映画オタクがTV情報誌として信頼して活用していたテレパルという雑誌で、この「約束」の放映を知って、きっと日本映画の名作だろうと思い、夜中の2時に起きて観た覚えがあります。ノーカットで録画でき、満足した事を覚えています。生きている間に観ておかないと、そんな映画だと思います。叙情的で日本映画でありながら、どこかフランス映画のような雰囲気を持った良い映画です。
白人は東洋(アジア)人を見下しているのか?日本人は世界でどう思われてるのか?親日?反日?国際ジャーナリスト大川原 明!言及!
チェックタイム 外国人に人気の秋葉原スポット!!
今回も、bluesharp奏者の映像を挙げて置きます。kiyasumeのブルース・ソロも2つ挙げて置きます。新しいものでは無いですが。まあ、聴いて見て下さい。。。
American Folk Blues Festival 1982 feat. Billy Branch
"La Bruja" son jarocho with Chicago Blues featuring Billy Branch
kiyasumeのブルースハープ・ソロです。
kiyasumeのブルースハープ・ソロです。
今回は此処までです。読んでくれて有難う御座います。。。