青春の蹉跌(エッセイ).....。
最近、思う事がある。私は嘗て絵が描けた。海外から賞状と賞金を貰った事もあった。若い頃は丁度、その時分に流行り始めた、アニメーションが好きに成り。アニメ業界に憧れた。そして同時に映画にも憧れて居たので、シナリオの勉強だとかもして居たし、自分で漫画も描いて居た。病気に成り、その夢は潰えた。しかし私は絵でどうやっても評価が得たかった、だから、似顔絵やイラストを書いた。母にそれを見せて当時者と似て居るかどうか聞いて見た事がある。母は怒って言った、「お前は嫌なものを書くねぇ!!観たくも無い!!」私は大学は美大に行こうと思って居た。いや子供の頃は近所の絵画教室に通わせてくれと母にねだった。なぜなら小学校や中学で同じ同級生が殆嫌に成って居たからだ。小学校6年間は毎年自分の書いた絵、ポスターなどで賞状を貰って居た。クラスの同級生は皆口を揃えて「〇〇は絵が上手いものなぁ」と言ってくれては居た。しかし私は有頂天に成る事は決して無かった。今の自分の絵では物足り無い、本当の絵が描きたいと思って居たからだ。私はだから絵画教室に通えば、そこで先生に絵の書き方を基礎から学べると思ったのだ。
しかし母は行かせては暮れ無かった。私は高校に成ると漫画を描き始めた。漫画は一人で劇が出来るからだ。音は擬音(効果音の文字)を書けば、それで表せられる。そして絵だからどんな世界でも描ける、表す事が出来るのだ。だから後はしっかりとしたストーリーだ。私は高校の頃に、脚本の勉強がしたくてシナリオの書き方の本も購入した。丁度、黒澤明が映画専門学校を開講して居たからだ。私はシナリオの本で脚本の書き方を学びながら近所の文房具屋で、400字詰の原稿用紙を100枚程買い込んだ。文房具屋の親父は言った。「おいおい、何を考えて居るのか知らないけど、やめたほうがいいぞ。どうせ碌な物には成らないよ」他人は何時も足を引っ張る。私はそのうち30枚に渡って、あるストーリーを考えた。その話はSF物だった。そしてそれで映画専門学校の審査を受けた。まだ高校生だ、勿論落選した。しかしその時のシナリオの下書きは今でも思い出の品として保管してある。私はしかし漫画家で喰って行こうとは思わなかった。自分の未熟な絵など多寡が知れて居る。大体が漫画家は絵描きと同じで喰えない事は知って居た。だから自分としては映画監督、しかもアニメーション映画監督に成りたかった。あくまで映画監督にだ。
当時実写の映画業界は斜陽だった。しかしアニメーション業界は活気があった。まだ黎明期で人材を募集して居たのだ。私は当時、手塚治虫が作った虫プロの映画祭に良く通って居た。そして虫プロのアニメーターと友達に成って行った。丁度、虫プロは当時、手塚氏が負債を2億円抱えて居て倒産し、手塚氏の元を離れて別の経営者が再び立ち上げたアニメーション制作会社になって居た。だが手塚氏が離れた後も手塚氏の遺産であるアニメーションの版権は手放しては居なかった。しかし、少ないアニメーターの数では新作アニメは撮れない。だから、アニメーターを探して居た。私はよく誘われた。「アニメーターに成れよ。一緒に働こう」私は黙って居ると「君ぐらい絵が上手かったら、十分業界で通用するし解らない事は私たちが教える」と言う。しかしアニメーターには余り成りたくは無かった。出来高制だからだ、セル画一枚幾らの世界だ。海外のアニメスタジオは給料制だ。だから外国、アメリカやら、フランス、韓国のアニメ関係者や、海外の日本のアニメファンは日本のアニメスタジオで家も無く寝袋で寝起きしているアニメーターを凄いと言うのだが。実際は喰えないのだ。あの「エヴァンゲリオン」で有名な庵野秀明監督も若い頃、宮崎駿の「風の谷のナウシカ」での巨神兵のキャラクターの作画を頼まれた時も住居が無く。スタジオジブリの床の上で寝袋で寝て居た。
このblogを読んで居る方はもう知って居ると思うが、私が小学校の頃。まだ手塚氏が虫プロを離れる前に、同級生の親が虫プロでアニメーターをして居た。その同級生の弁当は、何時も日の丸弁当だった。喰うや喰わずだったのだ。だからアニメーターが喰えない事は知って居た。しかし私はそれでもいいとさえ思って来て居た。要はその業界に飛び込む事なのだ。しかし親がなんと言うかだ。私の母は私が映画館で購入して来た貴重な映画のパンフレッドやら、ポスターを全て捨ててくれた。何故なら来んな物があると勉強をしないと言う理由でだった。私は学業で偉人に成れるだけの頭は無い。そして母が何と言おうが芸術肌だと思って居た。実際学校の先生からも、「学業で生計を立てるお子さんでは無い。彼は芸術肌だ」と言われて居た。母は焦った。自分の親戚でみーちゃんと言う絵が物凄く上手い人が居た。その人は或る有名な画伯の元に弟子入りさせられたが、3年間で我慢が出来ず帰って来てしまった。
「あの、みーちゃんだって来る日も来る日も絵は教えて貰えずに、掃除洗濯しかさせて貰えなかった。その道を行かせる訳には行かない。」だから私が美大を受けると言うと猛反対をしたのだった。弟はそんな私の理解者だった。「兄貴とみーちゃんは別人なのに・・・」と言ってくれた。母は「お前はお父さんの仕事を継げばいいのだから」と、飛んでも無い事を言い出す。親父の会社は親父と親父の兄貴が一緒に働いて居る会社だ。案の定。私が後年、障害を持つ様に成って、止む無く会社に入って居ったら、兄貴の息子である、ゆきかずはあんなに酷い嫌がらせをして来たでは無いか?親父は私ではダメだと踏んで、弟を会社に引き摺り込んで会社を二つに割ろうとしたが、弟は頭が良かった。本当なら東大医学部にでも入れた器があった。それで弟が医大の受験勉強をして居ると夜中に部屋に入って行って「頼むからお父さんの後を継いでくれ」などと言って「大学には行くな高卒でいい。俺と共に会社を盛り上げてくれ」と泣き付いたのだ。弟は私に言った。「毎日毎日、午前1時に成ると来て勉強を辞めろと言うんだよ、頭に来るよ...。」と溢して居た。私と弟は芸術家肌だったのだ。親とは違った。それに時代が違うのだ母や父が生きて来た時代では最早無い古いのだ。
母は私に何かあるとボンボン育ちをさせようとした。例えば、この話もこのblogを読んで居る方はもう知って居ると思うけど、私に大学時代付き纏って居た宗教団体のストーカーの男が大学の授業が終わって着いて来た時も玄関先で押し問答をして居るのに「〇〇、ちょっとこっちに来なさい。お前は世間を知らない。あの人に教えて貰いなさい」と言った人だ。「お母さんもああ言ってらっしゃる!!」と部屋に上がられた。そしてそのお陰でストーカー行為が酷く成ったのだ。私はその後、母を殴らんばかりに怒鳴りつけた。そうしたら母は「そうならそうと言えばいいのに」と言うのだ。お嬢さん育ちをして居て世の中を知らないのは母の方だった。例えばこんな事があった。或る時に使って居たビデオデッキが壊れた。私は修理人を呼んで直して貰ったが、母は何を思ったのか小さな封筒にお金を包むと、私にあの修理人に渡して来なさいと言う。私は「何考えてるの!?」と言ったが、怒って私に渡して来いと言う。私は仕方がなく渡しに行ったらその修理人は怒って「こんなお金は受け取られないよ」と言って突っ返して来た。私は母にそう言うと、母は私の渡し方が悪いんだろうと言う。私はやってられなく成った。その後ビデオデッキが壊れるとその修理人はすぐにヘッドが駄目になって居るといい、それ以降、調子が悪く成るたびにヘッドしか交換しなく成った。何故ならヘッドを交換すると部品代だけで1万8千円は取れるからだ。いいようにカモにされたのだ。
また、私が歯が悪く成って近所の歯医者でどこがいいかと思って居たら近所の72歳の歯医者がいいと言う。私はそんな処よりも、近所のスーパで開業して居た、最新鋭の機器を揃えて居る若い先生が居る所に行こうとしたら、折菓子を持たせてその72歳の歯科医の処に行けと言う。私は仕方が無く、そこに行ったが、何か治療が曖昧なので、母には内緒で、スーパーの歯科に行くと先生が診てくれて、怒って居る、何故かと訊いたら被せてある歯の中に綿棒と綿が入って居たといい。「歯科医師協会に訴える。どこの歯医者だ!!」と言って居た。私は「だから言ったのに!」と怒った。母に付いてはまだある。私が丁度、20歳に成った頃、トレンチコートが欲しく成り、買おうとしたら母が激怒した。私はやってられなく成り。普通はニューヨーカーだとかの有名ブテックで購入するのだろうけど、デパートに行ってダーバンのものを購入しようとしたら、着いて来て、「お前はデパートの店員に騙されて居るんだ!!何がトレンチコートだ!!」とデパートの中で大喧嘩に成った。私は怒りが込み上げて来て。デパートの真下の歩道が見える喫茶店に母を連れて行き「下を見てみろ!!下を!!みんな何を着て居る!!」と怒鳴ったら下を見て「皆んなトレンチコートを着て居る・・・・」と要約、黙ったのだった。私が入院中に習った料理のレシピを纏めた紙を置いて居たら、どこにも無い。何時の間にか捨ててある。怒ると「お前は料理などしなくても良いんだよ」と言う。もう、何にも時世にもあって居ないし。はっきり言って私を困らせる事しかしない。思えば母はその頃から認知症の気があったのだと思う。
1980年代に母がデパートでお前に買って来てやったと、灰色のダッフル・コートを渡した、どう見てもどこのおぼっちゃまが着るんだと言うショート・コートだ。私は暫く、それしか無いのでそれを着て居たが。2000年代に成って、弟夫婦と押井守監督の実写映画「アヴァロン」と言う映画を見に行ったのだが、周りを見たら皆んな、黒いトレンチコートを着て居る。モードが流行って居たのだ。私は恥ずかしく成った。それ以来、コートは7種類買い込んだ。コートフェチだ。その時の反動なのだ。
そんな訳で、私は美大に行けなかった。そしてアニメ業界にも結果的に行けなかった。親に反抗すれば家出をするしかない。それは出来ないからだ。私は拓殖大学の商学部に行った。成績は可也頑張っては居た。2年間オール優を取った。しかし統合失調症を発病してしまった。そして今だ。しかしそんな母だったが音楽だけは何も言わなかった。私が中学の頃にプログレッシブ・ロックのレコードを聴いて居たら、母が来て、部屋の前で立ち止まって聴いて居る。後で、母は私に「お前が勉強して居ないと怒りにお前の部屋まで行ったけど、あんなにいい音楽を聴いて居るなら仕方がないかと思って帰って来た。後で私にも聴かせておくれ」と言って居た。母はRockやJazzが好きだったのだ。若い頃、母が貧しかった日々、勤め先の帰りに銀座の雑居ビルの地下のクラブから聞こえて来る、Jazzのバンド演奏に聞き惚れて居たそうだ。貧しかった母は毎日冬の間、ビルの地下から漏れて聞こえて来るジャズバンドの演奏を楽しみにして、ビルの前で立ち尽くしてその聞こえて来る演奏を黙って聴いて居たそうだ。私の下手なBluesharpも「お前は上手いよ」と聴いてくれた。私は今思う。これで良かったのだと。私はそれ以来、絵は封印した。もう描く事は無いだろう....此処まで読んでくれて有難う御座いました。
映画 「聲の形」 紹介 -
言の葉の庭。映画本編45分ぐらい。sub indonesia
新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に 字幕付き(英語、スペイン語)
風の谷のナウシカのあの歌~ラン、ランララ、ランランラン~王蟲との交流(ナウシカ・レクイエム)をオカリナで吹いた
今日はTポイントでファミレスの「ジョナサン」に行って、リブ・ステーキを食べました。外は寒かった13度しか無かった........。だからチェスターコートと帽子を被って行った。また50代のオバハンにじろじろ見られた。人は私をどう見て居るのか、、「あのバカいい歳こいてカッコつけて若くもないのに長髪か?」とか。「どこの浮浪児だ?」とか。今日のオバハンはずぅーと見て居た。通り過ぎても振り返って。そんなに長髪が珍しいか?今から40年前には皆んな男は長髪だったぞ。最近の若者から30代でも長髪の男は居るし。40代50代でも居るぞ?俺のどこが珍しいんだ。すべては偏見だろ。はっきり言って俺は身長は高い方では無いし。良く通り過ぎる50代の親父からは『ケッ!!』と言われるが。若者には好意的に良く話し掛けられる。此間も公園のベンチに座って缶コーヒー飲んで居たら「音楽やって居るのですか?」と若者から声を掛けられた。その子は自分も歌を歌って居ると言って居た。若者は素直でいい。本当に今の50代でもモダンな人も居るのに、ダサいオヤジはどうしようも無くダサいです。オバハンでもそうだ。彼女らが若かった頃にはロックは流行って居たし。歌謡曲ですらニューミュージックとフォークの嵐だった筈だ。何聴いて来たんだと思う人がたまに居るのですよね。呆れて仕舞う。それも75歳以上の人なら分かるが。要するに当時のロックとかを不良の音楽。あんなものはよく無いんだと決めつけて聴いて居なかっただけでしょうに。全部自分の落ち度ですよ。
だから今の音楽すら解らないんです、聴いてもね。ロックはねぇ、もう定着して色んな音楽の基礎になって居るんですよね、ブルースと共に。解りませんかねぇ、、以下の唄2曲聴いて見て下さい。昔の歌謡曲ですよ。今でもいいから・・・・・。ピーナッツがロック歌って居ますよ。山本リンダがセクシーなミニスカートでダンスしながら歌って居ますよ。こう言うの聴かなかったのですか?????一体何時頃まで終戦直後だったんですかねぇ。それは私だって、今の音楽には着いて行けない面もありますよ。ただ、思うにそれは私の偏見なんですよね。新しいモノも古いモノも混在化して混沌として居る今の世の中です。要するに今の世はミクスチャーだと言えると思います。ただ、皆んな蛸壷化して居るだけなんですよね。北島三郎が映画音楽でシャンソンをアレンジさせて1966年当時大ヒットしたマカロニウエスタン「続・荒野の用心棒/ジャンゴ」の銘主題歌の歌詞を日本製の西部劇「スキヤキウエスタン/ジャンゴ」の歌として使われた時に、日本語の歌詞で歌って居ますよ。其れもお聴き下さい。偏見は辞めましょうよ。要するに時代の変遷なんです。物事にはアイコンがあります。要するに偶像です。それがいまいち解らないから音楽やら若者文化が解らないのですよ。今はある人から言わせると勝手のビートニクからヒッピーに移行して行った状況がまた繰り返されて来て居るそうです。物事は差異で決まります。形を変えて今はそう言った事が再び起こりつつあるのだそうです。物事よく考えましょうよ....。
ザ・ピーナッツ エピタフ (Live) 1972 / Epitaph
昭和のリンダさん
スキヤキ ウエスタン ジャンゴ - Sukiyaki Western Django
人には2通りの人が居ると思う。人の話を聞いて劣等感を持つ人間と、自分の参考にする人間だ。
「あなたは素直ですか?」、また「素直だね」と周りの人から言われますか?
「いいえ」と答えたあなた、何時頃から「素直ではなくなったのでしょうか?」
一般的に、人は、年齢を重ねるほど、人生経験(特に成功や失敗の中で印象が強いもの)から得られた教訓を元に、自分の中にルールや価値観を確立し、その枠内で生きて行こうとします。その為に、「井の中の蛙大海を知らず」の、環境下に自分の身を置いて居る事にすら気づかず、日々、生活を送って居る人が多いのも事実なのですよね。
つい口癖で、「最近の若者は・・・」と言ってしまうあなた、要注意ですよ!
人の話を素直に聞くと、成長できる5つの理由
いつから、あなたは「素直」ではなくなったのか?
まず始めに、「素直な人」は、解らない事をちゃんと「解らない」と言える人、「教えてください」と言える人なのです。
「ん?何時もやっている普通の事でしょう!」と、感じたあなた、「素直な心の持ち主」です。
その侭の自分を大事に、今後とも人とのご縁を大切にして行って下さいね!
逆に「難しい事だ・・・」と感じたあなた、何時からその様に感じる様になったのでしょうか?それは、あなたが社会に出てから積み上げて来たものが、「素直になる事」を邪魔して居るのではないでしょうか?
一般的に、「素直さ」を阻害する要素とその人が発する口癖を以下に記載します。
・仕事上の地位やポジションからくるプライド
※口癖「自分は社長なんだから・・・」
・年齢からくる恥ずかしさ
※口癖「こんな事今さら・・・」
・過去の失敗体験を引きずっている
※口癖「どうせ自分なんか・・・」
・過去の成功体験にすがっている
※口癖「俺の言う通りにしておけば・・・」
ひとつでも、「当てはまる!」と言うあなたへ、童心に戻る事をおススメします!
まずは、地位・名誉・プライド・社会上の立場を離れて、素の自分に戻り、「自分の思っている事を素直に話す事」から始めて見ませんか?
なぜ「素直さ」は大事なのか?
人は誰しも、ひとりでは生きて行けません!
社会と言う仕組みの構成員のひとりとして、仕事や課外活動・家庭・地域のコミュニティなどあらゆる場面で、色々な組織・団体に所属し、周りの人とコミュニケーションを取り、人間関係を築きながら、物事を協力して進めていく必要があるのです。
良好な人間関係を築く上において、素直な人と言うのは、話を聞き・受け入れてくれ、こちらの予想通りのリアクションをしてくれるので、コミュニケーションが取りやすく、あらゆる人が自然と集まって来ます。
つまり、「万人ウケ」するので、男女問わず皆んなの印象がよく、好感度が高いのです。
「頭が良い」や「仕事が出来る」など、あなたのスキルや知識に対して、リスペクトして築く人間関係は、その魅力が無くなれば、自然と無くなりますが、「素直さ」は、意識すれば、誰でも身に付ける事が出来、一生に渡り、良好な人間関係を築く上で、大きな武器となるのです。
あなたも、「相手の話を素直に聞いて、認め、受け入れる事」から始めて見ませんか?
「素直な人」は、人から自己成長に繋がる情報を得やすい
お話ししましたが、「素直な人」は好感度が高いので、自然と人が集まって来ます。また「類は友を呼ぶ」ので、周りの人も「素直な人」が多いのも特徴です。知ったか振りをしたり、教わる姿勢の無い人には、何かを教える気には成れないので、素直では無い人が、スピーディーに正しい情報を得るのは難しいのです。
逆に、素直な人には、「つい何でも教えたくなってしまう」と言うのが、人の情と言うものです。
結果的に、素直な人はそうで無い人に比べて、情報を得られるチャンスを多く貰える為、後は本人の意志と行動力次第で、自己成長に繋がるのだと思います。
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最近読んでいる漫画雑誌です。相変わらず古い漫画ですが、参考までに....
kiyasume所有の眼鏡です。。。。
人気再燃カセットテープ ノイズや面倒くささも新しい....
カセットテープを知らない世代が評価
現在、渋谷や中目黒という若者が多い土地を中心に、続々とカセットテープを扱うイベントや店舗が生まれて居る。ビームスが展開する音楽部門「BEAMS RECORDS」は、15年3月にカセットテープを集めた企画展を開催した。14年に渋谷にオープンしたHMV record shopではアナログレコードと共にカセットテープを精力的に取り扱っており、15年の夏には中目黒に中古カセットテープ専門店「waltz(ワルツ)」がオープン。店頭にずらりとカセットが並んだ姿に古くささはなく、どこも現代風にアップデートされスタイリッシュな印象だ。
「14年のオープン当初から、米国をはじめとする外国ではカセットテープの売れ行きは好調でした。日本で盛り上がりを感じる様になったのは15年のはじめ頃。以来、当店でもカセットテープのコーナーを徐々に広げています。20代の女性がプレゼント用にラジカセとカセットを購入していった事もありましたね」(HMV record shop 渋谷・竹野智博さん)
「現在はミュージシャンやクリエイターと言った影響力のある人達が、こぞってカセットテープを気にして居る。彼らがSNSに画像をアップする事でフォロワーに拡散され、その人気が若者にも広がっています」(waltz・角田太郎さん)
アナログな音質や面倒くささも魅力の一つに
カセットテープがはじめて発売されたのは1962年。発売当初は会議などの録音が主な用途だったが、70年代頃から音楽メディアとしても浸透しはじめる。アーティストがカセットテープでリリースした作品をそのまま聴く事もあれば、自分で録音してオリジナルのテープを作る楽しみもあり広く普及した。処が、82年に登場したCDの台頭により、その市場は次第に縮小して行く。2000年代に入るとmp3と呼ばれる音楽ファイル圧縮技術も浸透し、カセットテープは次第に姿を消して行った。
音楽メディアはアナログからデジタルへと変遷を遂げて来た。それではなぜ今、アナログなカセットテープが再評価されて居るのだろうか。カセットテープ収集家の松崎順一さんに寄ると、「単純にモノとしての存在感が、逆に若い世代には新鮮に映った」と言う。
「まず、カセットテープの少し前にレコードのリバイバルが起こりました。レコードはCDよりもサイズが大きく、凝ったジャケットをじっくり眺めたり部屋に飾ったりする楽しみが評価された。カセットテープも、CDとは異なる長方形のパッケージやコンパクトな外観が、リアルタイムにカセットテープを経験して居ない若者には魅力的に映ったのでしょう」(松崎さん)
勿論、その魅力は外観だけに留まらない。聴くまでの面倒くささやノイズさえも、魅力の一つとして評価されて居る。
「デジタルの音源は綺麗ですが、徹底的にノイズを消されると人間味がない。いわゆる高音質とは違う、温かみのある音の魅力にはまる人は多いです。何でもデジタル化していく現代へのカウンターカルチャーとして注目する人も居ますね」(松崎さん)
「カセットテープはその構造上、デジタルのように1曲だけ飛ばしたり、曲の頭出しなどもスムーズに出来ません。面倒くさいと思うかも知れませんが、かえって音楽とじっくり向き合えるとも言える。mp3の普及や定額制ストリーミングサービスによって音楽が手軽になった今、レコード会社の方達もこの特性を利点として捉え、新たな音楽の流れをつくれないか模索して居ます」(waltz・角田さん)
現在、カセットテープでの新作発表はインディーズのミュージシャンが中心。アイドルグループのでんぱ組.incなども継続的にカセットテープでのリリースを行っている。若者達には「新しい事をやって居る」と評価される様だ。
今後の展開を握るラジカセの普及
カセットテープの人気再燃に比例する様に、カセットテープレコーダーの売り上げも伸びて居る。調査会社GfKジャパンによると、15年の家電量販店におけるカセットテープレコーダーの売上げは数量で前年比20%増、金額で同21%増となった。
しかし、昨年12月に新商品を発売した東芝エルイートレーディングの商品企画部によれば、「顧客のターゲット層は60~80代」だと言う。「若者向けにカセットテープが人気を集めていることは知っていますが、現在はまだ市場動向に興味を持ちつつ検討中の段階です」(東芝エルイートレーディング商品企画部)
ラジカセの修理や整備品の販売を手掛ける松崎さんは「現行品の種類が少ない」と言う声をよく聞く。「中には聴く環境がないからカセットを買っても飾って居るだけと言う人も居ます」
最近はカセットテープにダウンロードコードが付いており、音源はデジタルで聴けるようになって居るものもある。デジタルとアナログを融合した上手い手法と言えるが、やはりせっかくアーティストがカセットテープとして作品を発表して居るのだから、アナログの味わいを楽し見たい。
現在、松崎さんは自身がプロデュースしたラジカセを製作中という。先述のBEAMS RECORDSやHMV record shop渋谷など、若者向けのショップを中心に販売する予定だ。
「以前、中古ラジカセの販売を行いました。決して安くはない商品でしたが、売れ行きは好調でした。需要は間違い無くあると思います」(HMV record shop 渋谷・竹野さん)
「アーティストがカセットテープで新譜をリリースする動きは活発になって来ましたが、これに対して良いラジカセが少なかったり、重点的に扱うお店が少ないのが課題でした。いわば盛り上がり方に軸が無かったんです」と松崎さん。「そうした問題が此処1年くらいの間に次々とクリアになって着て居る。16年は『カセットテープ元年』だったと思います」
4年前は松崎さんの監修によるラジカセの展覧会「大ラジカセ展」が大阪・梅田ロフトにて開催。安齋肇やみうらじゅんなど多数のクリエイターが参加し、「カセットテープ元年」を盛り上げたと言う。
現在、松崎さんは自身がプロデュースしたラジカセを製作中という。先述のBEAMS RECORDSやHMV record shop渋谷など、若者向けのショップを中心に販売する予定だ。
「以前、中古ラジカセの販売を行いました。決して安くはない商品でしたが、売れ行きは好調でした。需要は間違いなくあると思います」(HMV record shop 渋谷・竹野さん)
「アーティストがカセットテープで新譜をリリースする動きは活発になって来ましたが、これに対して良いラジカセが少なかったり、重点的に扱うお店が少ないのが課題でした。いわば盛り上がり方に軸がなかったんです」と松崎さん。「そうした問題が此処4年くらいの間に次々とクリアになって来て居る。
懐かしさと新しさの共存 日本発・新たな21世紀型ラジカセをつくる!MY WAY
家電蒐集家・松崎順一チームによる、21世紀の新たなラジカセ“MY WAY”開発製作のためのMakuakeクラウドファウンディングプロジェクトです。
過去のラジカセの価格が高騰し、音楽業界では一気にカセットが盛り上がりを見せる中、ついに未来のためのラジカセ、“MY WAY”を開発します。
松崎順一が家電蒐集/ラジカセ研究に没頭してウン十年、ついに、この時がやって来ました。ラジカセに親しんだ皆さんも、ラジカセを知らなかった若い皆さんも、この新たな音楽カルチャーが生まれる瞬間を共有して下さい!
ともに未来を早送りで巻き戻しましょう。Future is HERE。いま、再生ボタンを押して下さい。
ラジカセ、と言うとどの様なイメージを持たれるでしょうか? もしかしたらそもそもラジカセってなに? カセットってなに? と言う人も多いかも知れません。30代以上の人は、きっと皆さんおわかりですよね。
このラジカセとカセットは、1970〜80年代を中心に、本当に音楽生活の可也の部分を占める存在でした。音楽をかけながらラジカセを持ち歩くカルチャーもあったし、好きな曲を好きな順番で録音し、ジャケットのデザインに凝ったりする人が本当に沢山居ました。
しかし、1990年代の後半、CDやMDといったデジタルメディアの隆盛もあって、一気にラジカセやカセットの灯は消えて仕舞います。それから暫く、ラジカセやカセットは見向きもされない時期が続きました。
しかし、我々は、どこかでスマホの持っているデジタル的な利口さ、そして窮屈さとは正反対のものを求めては居ませんでしょうか?
ラジカセに感じられる自由さ、音楽が本来持っているエネルギーは、デジタルのベクトルとは正反対のものなのでは無いかと思うのです。これは、デジタル時代になって音楽が衰退を始めて居る事ときっと繋がっています。
私たちは、ラジカセと言う機器は、人間の持つ(アナログ方面の)クリエイティビティを一種極めた「頂点」だったのではないかと思って居ます。そしてそんな機器を全世界の人類が──本当です! おばあちゃんのカラオケから、NYのラッパー、そして地球の奥地でもラジオの為に使われて居ました──という奇跡的な普遍性。
ラジカセと言うものには、我々の技術と文化の、とても面白くて不思議な「何か」が眠って居るのです。
カセットも、暫くは忘れ去られた時期が続いて居ました。おじいちゃんやおばあちゃんのカラオケ需要があったので、本当にこの世から姿を消したと言う訳ではありませんでしが、しかしそれでも、可也マイナーなものになって仕舞った事は否めません。あれだけ、本当に、誰もが何十本も自分のカセットを持って居たと言うのに!
皆んなが、カセットの面白さを思い出したと言う事もあるでしょう。そして同時に、カセットの持つ本質が音楽というカルチャーとフィットして居た事も大きいと思います。
何故カセットでリリースするの?と言う質問に、デジタルが音楽を“殺してしまった”ように感じるから、と語ってくれたレーベルオーナーも居ました。
そう、カセットの音質と存在感には、パーソナル性やカジュアルさ、(いい意味の)アマチュアっぽさやオブジェとしてのかわいさ、など、音楽のもつラブリーな側面ととても親和性の高い部分があるのです。
もはやCDを貰ってもそんなには嬉しくないけど、カセットを貰ったら、何だか不思議に嬉しいとは思いませんか? ミュージシャンの側は勿論、リスナーの側もそれに気づきはじめて居ます。
カセットは徐々に盛り上がり、独自の流通がすでに始まって居ます。でも、実は、そのカセットを聴くためのラジカセが、なかなか見つから無いのです!
実はいま、ラジカセはもう殆ど造られて居ません。厳密に言うと無い事は無いのですが、どれも、我々が、“自分”を表現するのにふさわしい機械である様には思えない。現行のものでは、自分の想いの全てを賭けて音楽を造って居るミュージシャンたちにはふさわしくないし、そもそも、持っていて嬉しく無いもので音楽を聴いても楽しくない……。このままでは、カセットを聴く環境は徐々に失われていく……。
この事は、何もかにも、此れまで膨大に蓄積されてきたカセットの録音やその文化を、文字通りに“再生”する環境を無くして仕舞う事を意味するのです。
この事に危機感を覚えた我々が、仕方ない、自分たちでやるしか無いと独自のラジカセを造ろうとしてから早数年が経ちました。その間にはさまざまな困難がありました。工場の金型は失われ、部品は散逸し、捨てられ、さらには工場自体が廃業したり……。電器メーカーがひとつの機器を開発し、量産し、売る事の凄まじさと同時に、戦後日本の電器メーカーのもの凄さもまた痛感させられました。
しかし、要約、数多くの試行錯誤を経て、様々な条件が奇跡的に整い、ついに、オリジナルのラジカセを製造販売する事に漕ぎ着ける事が出来ました。本当にこれは奇跡的としか言えない様な僥倖と技術陣の尽力によるものです。そして、資金面においても、クラウドファウンディングで資金を集める事も出来る事によって、それが可能になりつつあります。こんなことは10年前には考えられませんでした。
いま、独自のラジカセを新たに手にする事の、全ての条件が整いました。
あとは……これを読んでくださった皆さん、ラジカセ、そしてカセットに心奪われた事のある皆さんのお力添えを頂ければ、我々の新たなラジカセはついに実現します。
ぜひ、ともに、新たな未来に向けて、再生ボタンを押して居ただければ嬉しく思います。
我々の新たなラジカセ、“MY WAY”は、何よりも、「楽しむ」「愛でる」為の家電です。ラジオや音楽を楽しむ事は勿論、このラジカセと言う“もの”事態、そしてそれを持って居る事、うちにある事を楽しんで頂きたいと思います。持って居る事がちょっと嬉しい家電。仕事から帰宅してそれを目にするのが少し楽しい家電。それが“MY WAY”です。
その為に、デザイン、素材、色味、そしてボタン等には徹底的に拘りました。外側の手触りは勿論ですが、我々が重視したのはボタンの押し味。アナログならでは、機械ならではのあの「ガチャッ」にご期待下さい。クセになるかも知れません(笑)。
勿論音質に付いても、モノラルスピーカーモデルとして、今、音楽を聴く時にもっともフィットする様なものにセッティングされて居ます。デジタルではまったく感じる事の出来ない、空気を振るわす存在感ある音を楽しんで頂けると嬉しいです。
デジタルでしか音楽を聴いた事の無い方は、きっとこのラジカセの音質に驚かれるのではないかと思います。
MY WAYは敢えてフルアナログ、新たな原点としての21世紀型ラジカセです。