毎度おおきに!
ハーフ&高身長が故に、故 アントニオ猪木さんがなぜか芸能界(=菅原文太さん側からの要請かな?)へ修行に出した、画像のジョージ高野さんが出戻り再デビュー。
前田さんは少し細目かな?
斉藤さんは背の低い分だけ増量がお腹に集中した感覚でしたね。
多分、仲野さんはメディアに出るのが遅かったから&目立てなかったから、スタイルではボーダーライン上の選手だったかな♥
今だから当時の、浴衣着用がいるんで旅館での集合写真は拝めてますが、やっぱりプロレスラーはパンツ一丁の画像を見てナンボの世界?
粕谷友運です♥
さて、ボルチンオレッグ選手のブログの後に、ネタ探しに新日本プロレスを検索したら?
こんな記事に行き着きました。
45年間更新されていない2日連続同日デビューの記録を残したレスラーは? 新日本プロレスデビュー戦物語【週刊プロレス】
1978年デビュー組を中心にした新日本プロレス若手5人衆。全員わかりますか?
アントニオ猪木以下、日本人6選手で船出した新日本プロレス。旗揚げした1972年には7人の新人がデビュー。翌73年2月1日に小林邦昭がデビューし、3月には坂口征二に連れられて小沢正志(のちのキラー・カーン)、木村聖裔(健悟)、大城勤(大五郎)が日本プロレスから移籍。74年は年頭から海外遠征に出ていた星野勘太郎が入団して陣容も揃ってきたことから、しばらくは立て続けに新人をデビューさせる必要はなくなった。
そのため74年は吉田光雄(のちの長州力)と橋本小助、75年は外国人留学生第1号のイワン・ゴメス、76年の佐山聡、77年のジョージ高野、バッファロー・アレン(のちのバッドニュース・アレン)と年1~2人のデビューにとどまっている。
そして新日本にとって初めての新人当たり年ともいえるのが78年デビュー組。それは同時に50年を超える新日本プロレス史において、唯一の記録を残している。
旗揚げから5年で10人以上の新人がデビューしたが、全員が残ったわけではない。関川哲夫(のちのミスター・ポーゴ)は早々に新日本を抜け、ほかにもケガなどが理由で辞めていった選手もいる。若手の層が厚くなったとはいえ、将来のメインイベンターの期待が大きかったのは、ミュンヘン五輪レスリング代表の肩書を引っさげて入団してきた吉田光雄ぐらい。それ以外は、旗揚げメンバーだった藤波辰巳(当時)ですら未知数だった。
当時は「10年のキャリアを積んで一人前」「1000試合で一人前」といわれていた時代。若手にとって大きな目標だったのが、メインイベンターへの登竜門といわれていた海外武者修行だった。若手もそろそろ海外へ送り出してやりたい時期。となると、彼らに代わって前座を任せられる若手を育成せねばならない時期に差しかかってきていた。
その時期に入門してきたのが、前田日明、平田淳二(のちのスーパー・ストロング・マシン)、斉藤弘幸(のちのヒロ斉藤)、原薗善由紀だった。
斉藤を除く3人はトレーニングを積めばヘビー級として活躍できる恵まれた体格の持ち主とあって期待は大きかった。 そこで4人を同時にデビューさせようとなった。
さすがに1大会8~9試合中、4試合をデビュー戦に充てるわけにはいかないので、2人ずつ2日に分けることに。
78年8月25日、新潟・長岡市厚生会館で前田と原薗が、翌26日の長野・飯山市体育館で平田と斉藤が先輩の胸を借りることになった。
同日デビューはその後、山田恵一と佐野直喜(巧真)(84年3月3日、東京・後楽園ホール)、武藤敬司と蝶野正洋(同年10月5日、埼玉・越谷市体育館)、柴田勝頼、棚橋弘至、井上亘(99年10月10日、東京・後楽園ホール=唯一の3選手同日デビュー)、川人拓来と金光輝明(2016年1月3日、東京・ディファ有明)、上村優也と辻陽太(2018年4月10日、東京・新宿FACE)、大岩陵平と藤田晃生(2021年8月24日、東京・後楽園ホール)があるが、2日連続での同日デビューは78年だけの記録である。
この記事に書かれた1978年デビューの選手から原薗善由紀さんが抜け、前年デビューでありながら
ハーフ&高身長が故に、故 アントニオ猪木さんがなぜか芸能界(=菅原文太さん側からの要請かな?)へ修行に出した、画像のジョージ高野さんが出戻り再デビュー。
そして少し遅れての、仲野信市さんのデビューが78年組のメジャーな括られ方だったりするんです。
そこでWikipediaから
平田淳二さん=誕生日 1956年12月20日(66歳)
ジョージ高野さん=誕生日 1958年6月23日(64歳)
前田日明さん=誕生日 1959年1月24日 (64歳)
斉藤弘幸さん=誕生日 1961年5月25日(61歳)
仲野信市さん=誕生日 1963年3月14日(60歳)
つまり僕にとっては同年代であり、平田さんが距離感がある兄、前田さん&ジョージさんはリアルな兄、斉藤さんは身近な兄、仲野さんは同学年。
そこで僕は、ここらくらいからプロレスラーの体の品評会をしてしまいます♥
平田さんはバランスがいい!
けど増量が止まらない?
前田さんは少し細目かな?
そこからの増量は徐々に失敗=我が理想から離れていきます。
その意味でジョージさんは、我が理想とするスタイルで増量したのかな?
斉藤さんは背の低い分だけ増量がお腹に集中した感覚でしたね。
多分、仲野さんはメディアに出るのが遅かったから&目立てなかったから、スタイルではボーダーライン上の選手だったかな♥
とか書いてるけど、僕はプロレスラーによって大人の男になる権利を得た身です。
だから年齢の近いプロレスラーが出てきた=自分も近い体になれる?
運動神経が鈍いのに妄想しました♥
それよりも年齢&体格的に、ゲイの世界は知らないから性的ストレスの解消方法は、まだ有名ではない知る人ぞ知る世界の人間はどうしてる?
そっちが気になりましたね♥
同期&準同期、年齢差は少ないプロレスラーの団体生活。
そこに社会人としての上下関係とかが絡む世界。
1人の男として興味を持てる大人の男の世界がプロレスでした。
今だから当時の、浴衣着用がいるんで旅館での集合写真は拝めてますが、やっぱりプロレスラーはパンツ一丁の画像を見てナンボの世界?
だから随分とお世話になったり?
ならなかったりしました。
この頃は対等な男として、憧れの体のプロレスを見て間違えた興奮の仕方として、The男の成長&それを静めていたんです。
考えてみると、1970〜1980年代ってプロレス団体は3つだから、デビューして雑誌に載るプロレスラーは選ばれに選ばれた男なんです♥
だから憧れって言葉を盾に、ゲイを否定していたんです。
年齢的な大人になって、お金を払ってまで女と絡む必要性を考えた時になって、思春期からの真実=The男は男性のプロレスには反応して、女子プロレスに反応しない!
ならば性的ストレス発散だけはゲイになろう!
って決めたんです。
そこに長男でありながら愛していない感を露骨に見せつける両親や周囲が、お見合いを設定しなかったからサラッとノーマル意識を捨てられたんです。
もっと深掘りすると、家風呂があったから父以外の成人男性の裸は、相撲&プロレス、たまにボクシングくらい?
そこに4年に1度のオリンピックかな?
だから思春期の事実が起きて、女性よりは男性になったんですかね。
多分だけど、今回の記事である1978年デビューのプロレスラー達は、必死にノーマルな男でいたくて女性から誘惑されて自然の摂理へ導いてほしい♥
それで自分の黒歴史を消したいと、黒歴史に向き合ってた頃なんです。
ブログのタイトルにした、ゲイか悩んだ我が青春。
それが僕は高校生になった1978年にカブったので、もしかしたら既にブログで書いてるとしても書きたかったんで書きました♥
う〜ん、満60歳になっても朝に時々だけど、The男が反応する僕だけれど取り上げた当時のプロレスラーさんは少し上の年齢だから、どうなんだろう♥
今はそれが気になるかもしれないかな。
って訳で今回はここまで♥
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます