1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。
「モーリス・ド・ヴラマンク」1876年~1958年21
フランスの画家、モーリス・ド・ヴラマンク(1876〜1958)は、独学で絵を学び、20世紀初頭にアンリ・マティスやアンドレ・ドランらとともに、「フォーヴィスム(野獣派)」で一世を風靡。その後、セザンヌに傾倒し、形態のボリュームを強調した構成力のある作品を描いた。第一次世界大戦後はパリ郊外にて、厚塗りの情感溢れる大きな筆致で対象を描き出し、次いでパリから100km以上離れた小村リュエイユ=ラ=ガドリエールに住まいを移し、抑制された色調や、スピード感あるタッチで田園風景や妻が活けた花束などを描き続けました。
「モーリス・ド・ヴラマンク」
「厚塗りの情感溢れる筆致こそ 傾倒した野獣派の凄み」
「束ねられた麦のある畑 」1950年
参照
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/16729
「パブロ・ピカソ」1881年~1973年22
パブロ・ピカソは、生涯の大半をフランスで過ごしたスペイン出身の画家、彫刻家、版画家、陶芸家、舞台装飾家、詩人、劇作家である。20世紀で最も影響を与えた芸術家の一人で、ジョルジュ・ブラックと共にキュビスムの創立者である。代表作は、キュビスム黎明期の「アヴィニョンの娘たち」(1907年)や、スペイン市民戦争におけるドイツ軍のゲルニカ空爆を描いた「ゲルニカ」(1937年)である。ピカソ、アンリ・マティス、マルセル・デュシャンの3人は、20世紀初頭の視覚美術に革命的な発展をもたらし、絵画のみならず、彫刻、版画、陶芸など幅広い美術分野に影響を与えた。ピカソの死後、80年代にアート・ワールドで新表現主義が流行り始めると、晩年のピカソの作品は注目を集めることとなりました。
「パブロ・ピカソ」
「視覚美術の革命的な発展に 影響与えた芸術家こそ」
「泣く女」1937年
本作は、1937年に描かれた「泣く女」シリーズのなかでも最も有名な、イギリスのテート・ギャラリーに所蔵されている作品。写真家であり絵も描いた愛人ドラ・マール(本名、アンリエット・テオドラ・マルコヴィッチ)をモデルにした、有名な作品の一つ。ドラ・マールをモデルに描かれた作品には《ドラ・マールの肖像》など油彩に限らず他にもあるが、最もよく知られるのはこの《泣く女》である。ただし「泣く女」をモチーフとした作品には100種類以上のバリエーションがあるといわれる。
参照
https://www.musey.net/54
「ジョルジュ・ブラック」1881年~1955年23
ジョルジュ・ブラックは、フランスの画家。パブロ・ピカソと共にキュビスムの創始者のひとり。ピカソよりも画家としてのキャリアでは劣ったが、絵画における発明の才はピカソも一目を置いた。第一次世界大戦を挟んで画風は一変するが、生涯に渡って絵を書き続けた画家である。仲間から「白い黒人」と描写されるほど体格が良く、また好んでスーツを着るハンサムであった。
「ジョルジュ・ブラック」
「キュビスムの絵画における才こそは ピカソも一目置いた存在で」
「Still Life: Le Jour 」1929年
参照
https://www.art-frame.net/single/8705
「ジョアン・ミロ」1893年~1983年24
ジョアン・ミロ・イ・ファラー(1893年4月20日-1983年12月25日)はスペイン・バルセロナ出身の画家、彫刻家、陶芸家。具象と抽象のあいだをいくような独特な画風が知られる。一般的にはミロ作品は、オートマティスム系のシュルレアリスム作家と解釈されており、無意識を利用した子どものような自由にドローイングや故郷カタルーニャの世界観を表現しているという。また、ミロはブルジョア社会を支える方法として、従来の伝統的な絵画技法に批判的な態度を示し「絵画の暗殺」を宣言する。1975年に故郷バルセロナに設立されたジョン・ミロ財団美術館や1981年にパルマ・デ・マヨルカに設立されたマヨルカ島のジョアン・ミロ財団美術館に作品が多数所蔵されている。
「ジョアン・ミロ」
「どきも抜く具象と抽象あいだいく シュルレアリスムの独特な画風」
「農園」1922年
「荻須高徳」1901年~1986年
東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業した1927年、本場の油彩画を学ぶためにパリに渡った荻須は、パリの街絵を歩いて絵を描くなかで、建物の歴史の重層性や人びとの息遣いにふれ、それらに強く惹かれるようになる。個展の開催やパリ万国博覧会への出品など、画家としての足場を固めてゆくものの、1939年には第二次世界大戦が勃発、翌年にドイツ軍のフランス侵攻によりパリが陥落したため、荻須は帰国することとなる。戦後、フランスの友人の尽力により、荻須は再びパリに渡る。戦後の美術界の主流は抽象画ではあったものの、具象画を手がけてきた荻須は自己の表現を大きく変えることはなかった。1956年にフランス政府からレジオン・ドヌール勲章を受章し、1978年にはパリ市主催で回顧展が開かれるなど、国際的な評価を受けるようになりました。
「荻須高徳」
「パリを愛し街並み描いた彼こそは 最もフランス的な日本人」
「バーとたばこ屋」1976年
参照
https://www.fashion-press.net/news/77503
※9月23日(土)24日(日)はお休みです。
コメント一覧
最新の画像もっと見る
最近の「写真と短歌で綴る「世界文化紀行」」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事