1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。<
「アレクサンダー・アーキペンコ」1887年~1964年11
アレクサンダー・アーキペンコはキエフ出身アメリカ人前衛芸術家、彫刻家、およびグラフィック・アーティスト。キュビズムに影響を受けた独創的な彫刻スタイルで最もよく知られる。1887年、当時ロシア帝国であったウクライナの首都キエフで誕生。彼はウクライナ人として人々の記憶に残りたいと思っていたという。そして1964年にニューヨークで亡くなるまで、常にウクライナ人としての自身のルーツに誇りを持っていたといわれる。芸術家としてのアレクサンダー・アーキペンコは、キュビズムの流れに多大な影響を受けていたが、中でも特に影響を受けたのがパブロ・ピカソの作品である。アーキペンコは特定の人物ではない女性像の彫刻を制作する際に、単純化の形式を通して幾度もピカソの手法を取り入れている。
「アレクサンダー・アーキペンコ」
「シバの女王」1961年リンデン彫刻庭園
参照
https://ja.wikipedia.org/wiki/
「フアン・グリス」1887年~1927年12
パリでは同じスペイン出身のピカソと出会い、1908年にはピカソを通じて、ジョルジュ・ブラック、ギヨーム・アポリネール、アンドレ・サルモン、そしてマックス・ジャコブと知り合い、活動を始めました。キュビスムの絵画を始めるのは1911年以降のことです。この間グリスはピカソやブラックの制作を冷静に見つめ、そこに提起される造形的問題と可能性を研究して、キュビスムの新しい方向性を模索し始めました。ここで絵画は、客観的事実から出発するのではなく、画家の創意から出発する創造的なものとなりました。この作品はまさにこの時期、1912年末から14年までの間に制作されたもので、パピエ・コレやトロンプ= ルイユといった手法が使用され、現実の再構成としての画面がつくられました。
「フアン・グリス」
「新しい方向目指し模索する 造形的なキュビスム絵画」
「新聞と開かれた本」1913年
参照
https://www.artizon.museum/collection/category/detail/165
「ペール・クローグ」1889年~1965年13
芸術家として、紙のドローイング、イラスト、ポスターから、舞台装置のデザイン、彫刻、記念碑的な絵画まで幅広い分野にわたって活動した。1930年にノルウェーに戻ってからは、オスロの国立芸術デザイン大学で教鞭を執った。1946年には国立芸術アカデミーの教授に任命され、1955年から1958年までは同アカデミーの所長を務めた。ニューヨークの国連ビル内にある国連安全保障理事会室の壁画を制作。その他にも、オスロ大学の物理・化学棟やオスロ市庁舎など、多くの公共施設に大きなフレスコ画を描いている。コペンハーゲン国立美術館には6点の作品が収蔵されている。
「ペール・クローグ」
「見つめよう国連壁画今の時期 再建目指して未来への希望」
「国連安全保障理事会会議場の壁画」年
安全保障理事会の会議室でまず目を引くのは、ノルウェーの画家、ペール・クロフが描いた油彩壁画です。 そこには灰から飛び立つ不死鳥が描かれ、第二次世界大戦からの世界の再建を象徴しています。 下方部分の暗い不吉な色の上に、よりよい未来への希望を象徴した明るい色でさまざまなイメージが描かれています。
「モイズ・キスリング」1891年~1953年14
モイズ・キスリング(1891-1953)は、ポーランドの古都クラクフの裕福な仕立屋の息子として生まれました。明るく鮮やかな色彩で、異国的な情感の女性像を描くことで知られるエコール・ド・パリを代表する画家のひとりです。地元クラフクの美術学校で、印象派の影響を受けたユゼフ・パンキェヴィッチ(1866-1940)に師事。その後、1910年にパリへ出て画家として本格的に絵を描き始めました。パリへ出た当時、第一次世界大戦開戦前ということで生活は苦しかったといいます。しかしキスリングと同郷の画商、アドルフ・パスレルや東欧出身のユダヤ系の支援に恵まれるなど、経済的な困窮はなかったのだそうです。
「モイズ・キスリング」
「モデルたち嫉妬の渦に巻き込んだ 逸話の残るキキの艶姿」
「モンパルナスのキキ」1925年
参照
https://artmuseum.jpn.org/mu_monparunas.html
「オシップ・ザッキン」1890年~1967年15
ロシア出身の彫刻家 オシップ・ザッキン(1890年7月14日 – 1967年11月25日)。日本ではあまり知られていないようですが、日本国内にはたくさんの作品が点在しています。オシップ・アレクセーエヴィチ・ザッキン(Ossip Zadkine)は、ピカソやブラックらによる「キュビズム」から着想を得た彫刻を制作した彫刻家としてパリを中心に活躍しました。なお、ザッキンはレオナール藤田とも親交があり、藤田の勧めもあり、二科会外国会員として二科展に出品を続けた親日家としても知られ、多くの作品を日本でも見ることができます。
「オシップ・ザッキン」
「三美神」
参照
https://sdart.jp/archives/882
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