1928年、パリのある画廊で開催された「エコール・ド・パリ展」が語源だといわれています。印象派のようにグループ展を開いたり、キュビスムのようにある芸術理論を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではありません。ピカソとマティスは、パリ派の双子のリーダーと形容されました。キース・ヴァン・ドンゲン、マリー・ローランサン、モーリス・ユトリロ、アメデオ・モディリアーニ、レオナール・フジタ、マルク・シャガール等がいます。<
「ジュール・パスキン」1885年~1930年6
ブルガリア出身の画家。パリに出てエコール・ド・パリの時代には派手な生活を送り、 藤田嗣治 とも交流。第1次世界大戦を逃れてニューヨーク滞在していた際には 国吉康雄 と知り合っています。第1次世界大戦後にパリに戻って活動を続けましたが、アルコール依存と鬱の結果、自殺してしまいました。
「ジュール・パスキン」
「奔放な生活送る自由人 画風愛され自殺するも」
「花束をもつ少女 」1925年-1926年
参照
https://www.tabirai.net/sightseeing/column/0005088.aspx
「エルミーヌ・ダヴィド」1886年~1970年7
パリ生まれ。エコール・デ・ボザールに次いでアカデミー・ジュリアンに通い、版画や象牙による細密画などを学び、1905年に画壇にデビュー。1907年にパスキンと出会い、渡米後の1918年に結婚。1920年アメリカ国籍を取得。その後モンマルトルに居を構えました。1930年にパスキンが悲劇的な最期を遂げた後も数多くの展覧会へ出品、個展も開催しました。版画付の挿絵本文化が花開いた19世紀末から20世紀にかけてのパリで、挿絵画家として飛躍。油彩画では、緑を主調としてパリやその近郊の風景などを描きました。当時数少ない女性芸術家の一人です。
「エルミーヌ・ダヴィド」
「挿絵本文化の花咲くパリ画壇 個展も開くパスキン夫人」
「セルピーニ通り」
参照
http://www.museum-kiyosu.jp/archive/ecopari/artist/
「ディエゴ・リベラ」1886年~1957年8
ディエゴ・リベラ(1886年12月8日−1957年11月24日)はメキシコの画家。フリーダ・カーロの夫。リベラの最も大きなフレスコ画は、メキシコにおけるメキシコ壁画運動創設の起爆剤となりました。1922年から1953年の間に、リベラはメキシコシティ、チャピンゴ、クエルナバカ、サンフランシスコ、デトロイト、ニューヨークで壁画制作を行いました。1931年に回顧展がニューヨーク近代美術館で開催されました。
「ディエゴ・リベラ」
「キュビズムの影響受ける壁画画家 民衆のため芸術興す」
「アラメダの日曜日の夢」
参照
https://www.artpedia.asia/diego-rivera/
「マルク・シャガール」1887年~1985年9
マルク・ザロヴィッチ・シャガール(1887年7月6日-1985年3月28日)はロシア出身のユダヤ系フランス人画家。初期前衛芸術運動の代表的な画家であり、また、エコール・ド・パリの中心的な人物です。キュビスム、フォーヴィズム、表現主義、シュルレアリスム、象徴主義などさまざまな前衛芸術スタイルと土着のユダヤ文化を融合した。また絵画、本、イラストレーション、ステンドグラス、舞台デザイン、陶芸、タペストリー、版画など、さまざまなジャンルで活動を行っています。
「マルク・シャガール」
「愛の画家妻への敬愛一途にて 愛や結婚作品数多く」
「誕生日1915年」
参照
https://www.artpedia.asia/marc-chagall/
「レオ・マイケルソン」1887年~1978年10
エコール・ド・パリのメンバーでもあった彼は、西ヨーロッパやソ連、アメリカでも展覧会を開きました。"永遠なる移民"また"永遠なる学生"と描写されることもありますが、それは彼が常に新しいスタイルを取り入れたからでありました。 彼はどこでもスケッチが出来るように、常にパステルを携帯していました。彼の友人であったマルク・シャガールはミヘルソンに関して、彼が知る中で最も色彩に優れている画家だと語っています。
「レオ・マイケルソン」
「色彩に優れた画家ミケルソン 永遠なる学生と描写されるも」
「画家レオ・ミケルソンの肖像1922年」
参照
https://ja.wahooart.com/@@/8LJA97-Lovis-Corinth-(Franz-Heinrich-Louis)
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