印象派、または印象主義とは、19世紀後半にフランス絵画を中心に巻き起こった革新的な芸術運動の呼称です。印象派は、モネやルノワール、ピサロといった、当時パリで活動していた若い画家たちのグループによって確立され、徐々に広がりを見せます。
展覧会は、1870年代から80年代にかけてメンバーが微妙に変わりながら全8回行われ、明確な定義や境界線が決まっているわけではないものの、基本的に、その展覧会の主要メンバーが「印象派の画家」と呼ばれています。
この「印象派」という名称は、第1回の展示会に出品されたクロード・モネの作品「印象・日の出」に由来します。
「印象派の特徴」
① 屋外の制作
印象派の特徴の一つが、「屋外制作」にあります。保存や持ち運びに適したチューブ入り絵の具が、1841年に登場し、画家たちが屋外で絵画を完成させることができるようになります。こうした「近代化」という時代背景もあり、同時期に、都市部と郊外を結ぶ鉄道が徐々に広がり、画家たちのフットワークがいっそう軽くなります。作品のモチーフも近代都市の市民たちの生活を多く描いている、といった特徴があります。
②光のための筆触分割
印象派の絵画の特徴的な技法として、「筆触分割」が挙げられます。筆触分割とは、絵の具を混ぜないで、そのままキャンバスに置いていく、という手法です。印象派の画家たちは、「絵の具は、混ぜることで発色が悪くなる」ことを考慮し、屋外の繊細な光を捉えるために、チューブから出した絵の具を、短い筆さばきによって、そのままキャンバスに置いていくという方法を採用します。
③「印象」を描く
印象派の絵画は、主観的な、「印象」を忠実に捉え、表現する、という方向に注力されているという点も特徴の一つと言えるでしょう。1839年写真の登場によって、肖像画家を筆頭に現実をそのまま写し取る役割が写真に取って代わられ、画家たちは、新しい世界に進んでいくことを求められます。写実性以上の新しさを模索し、この動きが「印象」を描くという方向に繋がっていきます。
「エドゥアール・マネ」
エドゥアール・マネ(1832年 – 1883年)は、19世紀半ばから後半にかけて活躍したフランスの画家です。伝統的な絵画の形に捉われることのない画風で近代的なパリの情景を描き、新しい潮流を美術界に呼び込みます。特にセンセーショナルだったのが、1860年代にマネが発表した代表的な作品「草上の昼食」と「オランピア」です。この二作品は、絵画の世界に大きなスキャンダルを巻き起こし、激しい批判を浴びせられます。その他、マネの代表作としては、「バルコニー」「鉄道」「フォリー・ベルジェールのバー」などが挙げられます。印象派展に一度も参加したことがないことから、マネは正式な印象派のメンバーとは言えません。しかし、印象派の画家に多大な影響を与え、「印象派の父」先駆者として美術史に位置付けられています。
「草上の昼食」1863年
「エドゥアール最新作は話題沸騰 近代美術の始まりとも」
マネの初期の代表は1863年に制作した「草上の昼食」であります。モデルとして妻のスザンヌ、中央の裸の女性はムーラン、当時のフランスで著名なモデルであり、女流画家でした。また彼女はマネの「オランピア」のモデルです。本作は着衣男性と対照的なヌード女性が並置して描かれたことで論議を呼び起こしました。本作品が、美術史では近代美術の始まりと見なされています。裸の女性の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦が現実の女性であることが強調されています 。
「オランビア」1865年
「裸婦姿浮世絵からのヒント得て 前衛的に高く評価も」
この近代的なヴィーナスの表現は、当時の美術の基準に明らかに反するものであり、理想主義の欠落した描写は鑑賞者を激怒させました。この作品の平面的な表現は日本の浮世絵から影響を受けているといいます。実際にマネは浮世絵を蒐集していました。しかし、「オリンピア」はフランスの前衛的なコミュニティに支持され、その絵画の重要性は、ギュスターヴ・クールベ、ポール・セザンヌ、クロード・モネ、ポール・ゴーギャンらが高く評価しました。
「鉄道」1873年
「奥行を無視する姿勢明確で 白い蒸気に列車隠れて」
「鉄道」では、戸外制作時における伝統的な自然景色を選択せず、マネは大胆にもキャンバスに大きく鉄柵を描きました。鉄柵の向こう側で白い蒸気に覆われた列車はほとんど見えていません。遠くには近代的なアパートが見えます。この構図は前景に焦点が行くようになっており、奥行きを重視する伝統的な絵画の構図を無視したものとなっています。
「フォリー・ベルジェールのバー」1882年
「作品は写実主義の良い例で 論理的根拠ある作品」
パリの最初のミュージックホール「フォリー・ベルジェール」の中にあるバーを描いたものです。モデルはフォリー・ベルジェールのバーで実際に働いていたシュゾンというウェイトレスだといいます。完成した作品はその年のパリ・サロンで展示されました。 1883年4月、マネの左足は壊疽で切断され、11日後の4月30日、51歳で死去。パリのパッシー墓地に埋葬されました。
参照
https://www.bou-tou.net/inshohaart/
https://www.artpedia.asia/%C3%A9douard-manet/
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