こもれびの日記

日々の暮らしをつづります。コモちゃんは夫です。コメントは管理人の判断で削除する場合があります。ご了承下さい。

出島 平和公園 浦上天主堂@長崎

2024-02-24 | 旅・九州

 

2月20日、新地中華街にあるホテルを出て、10分ほど歩いて長崎県美術館。隈研吾設計。さくらももこ展があるはず。

が~ん、10時開館だった!まだ45分ある・・・・諦める。

出島ワーフをちょっと歩いて出島へ向かう。

向こうに見える船は軍艦島ツアー。片道40分、観光時間は半日かかりそう。

 

出島の水門が見えてきたが入り口ではない。

 

出島は鎖国時代にオランダ商館があって日本中へ海外の知識をここから発信していた。

 

明治になって周囲で埋め立てが始まり、北側が削除され内陸化していてこんな形ではなかった。

 

入り口は表門。

 

昭和26年に復元整備事業が始まって、今の形(元の形)になった。

復元整備事業はまだ続いている。

まずは幕末の復元建物、旧石倉(考古館)から。発掘された陶片などが展示。

 

ミニ出島は1976年に作られた模型。

 

明治時代に作られた旧出島神学校。日本最古のプロテスタントの神学校。

1階は休憩室になっている。

 

カーブを作るのに使われた? 出島はカーブしてる。

 

旧長崎内外俱楽部も明治時代の建物。今はレストラン。長崎名物トルコライスやミルクセーキなど。

 

ここからは江戸時代の建物。銅蔵。

輸出されていた棹銅入箱。1箱100斤。銅の重さ60kg。箱には別子立川、住友吉次郎の字が見える。別子銅山から運ばれてきたのね。

 

左がカピタン(オランダ商館長)部屋、右は蔵が続いている。

 

カピタン部屋の壁紙の模様が可愛かった。

 

一番蔵には輸入された砂糖が積まれている。

 

三番蔵も砂糖などの輸入品。

 

左が幕末時代の新石倉、昭和になって復元。

1時間足らずの見学でした。

路面電車で駅へ行って荷物を預けてまた路面電車で今度は平和公園へ。

路面電車は便利だねえ。

平和公園入口。

小さな子どもたちを見るとなお一層平和を祈る気持ちになる。

平和の泉。1945年8月9日アメリカが原爆を投下しました。

 

この公園は原爆落下中心地公園北側、小高い丘の上にあります。

 

平和記念像。北村西望作。天を指した右手は原爆の脅威、水平に伸ばした左手が平和をあらわしています。

 

長崎の鐘。昭和52年に長崎県被爆者手帳友の会、長崎県学徒動員犠牲者の会が作りました。

碑文「長崎の鐘よ鳴れ、私達の肉親を奪った、私達のからだをむしばんだ、あの原爆がいかに恐ろしいものであるか、あの戦争がいかに愚かなものであるか、長崎の鐘よ響け、地球の果てから果ての果てまでも、私たちの願いを込めて、私達の祈りを込めて」

 

公園の奥から浦上天主堂へ行ける道があります。

 

浦上天主堂が見えてきた。左の大きな建物はカトリック長崎大司教館。

 

坂を下って行きます。

 

10分ほどで浦上天主堂に着きました。

爆心地から500m、天主堂は一瞬で崩壊しました。残った石垣の展示。

 

明治13年カトリック信徒たちがこの地に仮聖堂を作り大正14年に完成したが、原爆で崩壊した。

1946年には仮聖堂が出来、1959年コンクリート製が再建された。右の鐘塔には「長崎の鐘」が設置されている。

長崎大学で被爆して血まみれになっても負傷者の治療に当たった永井隆博士は、浦上天主堂跡からほぼ無傷の鐘を掘り出し焦土の地で励ましの鐘を鳴らした。それが「長崎の鐘」。私も幼心に覚えてる歌。

 

歩き疲れたのでフルーツカフェでちょっと休憩。

 

爆心地公園へ向かいます。

 

10分くらいで公園。移築された浦上天主堂の遺構。

 

原爆がさく裂した直下の地点が爆心地。ここです。黒御影石の碑が建ってます。生花の花輪は駐日南アフリカ共和国大使から。

 

 

祈るだけではだめなのか?と思う今日この頃・・・・

 

路面電車で駅に戻ってかもめで福岡へ向かいます。平和公園浦上天主堂観光は駅往復2時間弱でした。

 

 

 


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