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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森125号

2008-05-05 | 101号~200号
       ■こならの森125号■1998.9発行

表紙 「コスモス」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

3p としこの巻頭詩
4p ヤンバル・お店紹介精進料理『堯心亭』
5p 結婚しました@
6p 安佐の名所クイズ
7p タウン・色々情報『有鄰館・芸術祭』他
8-11p JC・ルネッサンストーク国際ソロプチミスト 佐野 会長秋山定子さん
12-19p 特集 絵本の町と絵本美術館
20-21p THE・ショート『夏は終わらない』
22p 辛口映画評『キリコの風景』
23p 書評・絵本紹介
24p タウン情報
26p インフォメーション98
28p 協賛店・MAP
30p こならの森から
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【本文抜粋記事】

JC・ルネッサンストーク
国際ソロプチミスト 佐野
出席者■PROFILE

会 長 秋山 定子さん
     1983. 1.22入会
副会長 影澤 玲子さん
     1983. 1.22入会
R・C 片柳 展代さん
     1993.12.20入会
C・S 田中 和美さん
     1991. 4.22入会

ソロプチミストとは……
 常に先を見通し、力強くダイナミックに発展を続ける奉仕団体です。専門職を持つ、または管理職にある女性たちが組織し、地域社会や世界のあちこちでいろいろな形の奉仕を最善を尽くして実行しています。また国連においては、経済社会理事会(ECOSOC)のカテゴリーの諮問的地位を認められ、国連特別機関の会議に代表を派遣することができます。

@中田 今年、ソロプチミスト佐野が設立されたわけですが、そのいきさつを簡単にお話ししていただけますか。

□秋山 まず、足利にソロプチミストができたのが十五年前なんですね。私たちは足利のクラブに設立当初から入っていまして、足利も十五年経つのだから、そろそろ子供をつくりたいということで、足利がスポンサーをして佐野にクラブをつくったんです。認証式は六月四日ですが、実際に準備会が始まったのは去年の七月頃からですね。佐野につくろうかという話は二年くらい前から出てはいたんですが、その時は時期尚早ということだったんです。たまたま今年は佐野市制五十五周年ということですので、それに合わせてということもあってできたわけです。

@中田 佐野にできる前は、佐野の会員が足利に行って活動されていたのですか。

◇影澤 足利に入っていた時には、足利クラブではあるけれども会員の三分の一は佐野の人でしたので、佐野に対しても同じように奉仕をしなければいけないというクラブの姿勢があったんですね。たとえば植樹にしても、足利に二十万、佐野に十五万というように、必ず同じ事業を両地区で行なっていまして、平等に奉仕をするという意識でやっていたんです。ですから、事業は同じようにやっているのだから、佐野にクラブがなくてもいいんじゃないかなという気持ちは持っていたんです。ただ、足利クラブも十五周年を迎えますし、ちょうど佐野市も市制五十五周年を迎えるということで、佐野の市長さんからもちょうどいい時ではないかというお話しもありましたし、新しく発足させようということになったんです。私共も足利に行くより、地域にあれば活動も楽ですしね。それで、最初は足利クラブから十一人移籍したんです。

□秋山 それから新しい会員を募りまして、十九人入っていただいて、合計三十名で発足しました。若い方にたくさん入っていただいたんですが、若い方はのみ込みは早いし、やる気はあるし、動きも早いですから、今のところはすごく順調にいっています。

@中田 ソロプチミストは、組織としてはかなり大きいわけですが、全国大会なども行われるのでしょうか

□秋山 以前は全国大会をやっていたんですが、今は、日本北、日本東、日本中央、日本西、日本南の五つのリジョンに別れてやっています。佐野クラブはその中の日本東リジョンに入っていまして、その日本東リジョンの九十二番目のクラブになります。

@中田 今、全国で何人くらいの会員がいらっしゃるんですか。

□秋山 日本国内で一万五千人、全世界で九万五千人くらいです。

@中田 ソロプチミストの目的といいますか、どういったことを地域に対して行なっていきたいとお考えですか。

□秋山 国際ソロプチミストが最初にアメリカでできたのは一九二一年ですから、今年で七十七年になるんです。目的としては、仕事を持っている女性、管理職にある女性が、地域社会に対して奉仕を行なう団体ということですので、やはり奉仕を行なっていきたいと考えています。

@中田 奉仕団体ということですが、分野としてはどんな奉仕を目指しておられますか。

□秋山 ソロプチミストは国際的組織ですから、大きくは国際連盟として、また日本東リジョンとしての奉仕プログラムがあり、エイズの問題、識字活動、ユニセフ、ユネスコ、難民救済、各種の表彰、その他災害に対する救援等々、巾広く行なっています。まず、ソロプチミスト佐野の地域的な範囲ですが、佐野、田沼、葛生、岩舟、藤岡となりまして、岩舟がソロプチミスト栃木との共有ということになります。事業としては、これから広げなければならないことはありますけれども、今まで足利でやっていたものですから、とりあえずは、佐野地区については足利からの事業を引き続いてやりましょうということになっています。現在やっているのは、女子高生の奨学生制度が各学年一名。それと植樹ですね。これは運動公園で毎年やっています。それから佐野女子高にS(サービス)クラブという奉仕クラブを認証しましてそのお手伝い、老人ホームの慰問などをやっています。

奨学生制度とボランティアの援助

@中田 今年のメインの活動といいますと何になるのでしょうか。

○田中 やはり奨学生制度ですね。学校は四月に始まりますね。ですから、九月頃にまず教育委員会にお話しして、校長会に出していただいて説明会をします。それまでに募集要項などの準備をしておくわけです。そして各中学校の校長先生の推薦で資料が上がってくるわけです。資料を委員会で検討しまして、理事会にかけて、例会で決定するわけです。

◇影澤 そして試験を受けてもらって、合格した人を採るわけです。今まで足利では一学年二名ずつ採っていたんですけれども、佐野にクラブができるのだから、佐野地区で一人どうしても採りたいということで始めたわけです。

○田中 奨学金の額は月に一万円で、これは返済なしです。その他に入学祝い金が二万円、卒業祝い金が一万円です。この奨学生制度を続けていくためには、やはり資金が必要になりますので、それを調達するために今までチャリティーゴルフをやっていたわけです。青少年育成のための資金ということで、皆さんに協力していただいているということなんですね。

@中田 これは女子に限るんですか?

□秋山 女子高生に限っています。ソロプチミストは女性のクラブですから……。それと、もう一つ力を入れているのが、先程お話しいたしましたSクラブです。佐野女子校のボランティアのクラブがずいぶん活躍しておりまして、そこに助成金をさし上げて援助しましょうということなんです。たとえば、この前は保育園に行きまして、一緒に私たちもお手伝いをしてきたんですが、一ヶ所十人くらいずつに別れて三ヶ所に行きまして、女子高生が自分たちの手作りのおもちゃなどを持っていったり、お遊戯したり、一緒に遊んだりしているんです。そのおみやげの資金の一部などを私たちがお手伝いしているんです。それと、女子高生が老人ホームの慰問などもよく行くんですが、その助成としてバス代を出してあげたりということをやっています。

@中田 ボランティアというのはなかなか継続が難しくて、なぜ継続できないかというのは、資金的な問題というのがすごく大きいと思います。ソロプチミストのような団体で、ボランティアをやろうとしている人たちに、いろいろな形で助成されてくるとやりやすくなりますし、継続もしやすくなりますね。

□秋山 でも、我々はただ寄付をするということではいけないと思うんですよね。やはり何か事業をやって、そこに好きな人に来ていただいて協力していただくということが必要だと思います。

@中田 女性は仕事を持ったり社会に参加するということが、なかなかできないということがあるように思いますけれども、その意味ではソロプチミストが、女性がいろいろなものに参加できるようになるための団体になると思います。佐野でもそういうボランティアをやってみたいという方がたくさんいらっしゃると思いますが、そういう方に対して何かお言葉がありましたらお願いします。

□秋山 ある程度時間のある方じゃないと無理かもしれませんが、奉仕に関して理解のある方にどんどん参加していただきたいなと思います。まだまだ佐野ではソロプチミストに対する理解度は少ないんじゃないかと思いますが、何か私たちの行なう行事に、たとえば佐野の国際交流フェスティバルでお茶席を設けたり、外国人のためのバザーをやっていますので、そこに参加していただければ理解してもらえるようになるんじゃないかなと思います。

○田中 それとソロプチミストのメンバーが活動するためには、やはりご家庭でのご理解がないといけないですからね。
@中田 そうですね、青年会議所でもそうですから。

□秋山 青年会議所の方にも今後ともご協力いただきたいと思いますので、よろしくお願いします。

@中田 こちらこそよろしくお願いします。


こならの森124号

2008-05-04 | 101号~200号
       ■こならの森124号■1998.8発行

表紙 「とんぼ」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム…ひるがお……3p
知らんの5つの市/…………4p
結婚(誕生)…新井さん夫妻…5p
安佐の名所クイズ………6p
タウン…ホップの森……7p
JC・インタビュー…亀田…8p-11p
ムーミン谷………12-19p
ショート/現代国語………20-21p
海棠市子の映画評………22p
書評・絵本紹介……23p
インフォメーション98………24-27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

JC・インタビュー…
亀田好二さん

■PROFILE
亀田 好二
(かめだ よしじ)
1926年 佐野市生まれ。

@中田 今、日本もそうですが、アジアの経済状況も大変悪くなっていますね。こういった世界的な状況についてはどうお考えでしょうか。
@亀田 何事においてもバランスというものがあるんです。自民党五十五年体制が栄えたのは、実は自民党と社会党があってバランスが取れていたからなんです。経済もバランスです。日本は、東南アジアなどでありふれたものを大量生産しましたね。需要と供給を考えれば、そんなことをしても売れないですよね。世界的に見ると、何年か前にソビエトが崩壊しましたね。今、アメリカが栄えているように見えますが、バランスの原理からいえばアメリカだけが栄えるということはあり得ないです。中国が対抗できると言う人もいますが、中国ではバランスは取れない。もともと資本主義のようなものですからね。アメリカの経済の実態というのは本当は良くないんです。まもなく崩壊すると思いますよ。
@中田 まだ日本が立ち直っていない状況で、アメリカが崩壊したら大変なことになりますね。
@亀田 だから危機感を持たなければいけないんです。
@中田 アメリカの資本がどんどん日本にも入ってきていますね。
@亀田 この前ラビバトラというアメリカの経済学者の講演があったんですが、アメリカのやり方は良くないと言うんです。たとえば韓国のウォンが暴落した時に韓国に対してやったのは、暴落前に貸していた一万ウォンを、暴落したんだから十万ウォンにして返してくれ。払えなければ会社をよこせ。しかしお前の国は労働者の首を切れないから法律を変えろと。そういうことをやっているんです。覇権主義というのは武力だけではないんですよ。経済まで覇権主義でくる。講演でラビバトラは言ってましたよ。未来永劫、人を搾取して栄えた国はない。これから二十一世紀に向かって、人を搾取したり覇権したりするというのは絶対いけないですよ。
@中田 そうですね。
@亀田 それから日本経済の活性化ということでね、いいことを言ってましたよ。彼が言うには、東京というのは実に良い所なんだそうです。緑も多くてね。一極集中が問題になっていますが、ラビバトラは、オフィスを全部郊外に出してしまって、東京から通うようにすれば良いと言うんです。そして、中にいるオフィスは税金を高くする。今は反対で周りから集まってくるでしょ。だから一極集中になる。それは東京だけで
はなくて、地方都市においても同じことが言えるんです。それと景気を良くするには、住まいを広くすれば良い。景気対策として減税の話が出ますけど、減税ではだめなんです。減税では財政をどうするんだという話になるでしょ。今の税額のままでいいから、同じ税額で倍の面積まで認める。そういう法律を作ればいいんです。そうすると皆さんの住まいの環境も良くなるし、広くなる分いろいろなものを買えるようになって需要が増える。そういう環境を作れば日本の国は栄えるでしょうと言うんです。
危機感を持って果敢に挑戦すること
@中田 栃木県の県北の方では、かなり経済が低迷して倒産が増えてきているということですが、佐野も例外ではないと思います。社長の今までの経験の中で、経営者はこういう心構えを持つべきだというものがありましたらアドバイスをいただきたいのですが。
@亀田 もっと情報収集をやったらいいんじゃないでしょうか。皆さん案外勉強をしていないですよね。私はパソコンを3台使っていますが、何かあるとすぐにこれでまとめるようにしているんです。明日やろうとか、今度とか、後でとか、絶対にいけない。どこにでも勉強の資料というのはあるんです。そのためには、異業種の方も大勢知っているということも必要ですね。そこで別の情報も入ってきますから。それと、挑戦するという気持ちが大切です。最近、私の会社でISO9000の認証を取りましたけど、これも挑戦ですよ。大企業だからできるんだ、中小企業だから難しいなんていうことはないですね。個人でもできるんですから。次世代に向かって必要とされるものに、敢然と立ち向かうことですよ。危機感を持って、そういうことに挑戦することが大切ですね。
@中田 次世代に向けたものを情報収集しても、ターゲットがどこにあるのかというのが、なかなか見つけ難いということがあるのではないかと思いますが。
@亀田 これからどうやっていくかというと、専門職ですよね。総合職ではなくて、専門職としてどうやっていくかということを考えるしかないんじゃないですか。自分の仕事の中で、どうしたらお客さんに満足してもらえるかを極めている人、知っている人は案外少ないですよね。私の会社のターゲットは「早く 良く 安く」というんですよ。スピードの時代ですから「早く」、「良く」というのは当たり前ですよね、「安く」というのは安心という意味もあるんです。
@中田 この辺が分かっているようで分かっていなくて、実行がなかなかできないですね。
@亀田 難しくしてはだめなんです。易しくして、誰が見ても会社や店の経営方針が分かるようにしておくことですね。それと、以前お店の経営者の集まりで話をしたことがあるんですが、お店にレジがありますね。大体そこの店の奥さんがレジをやっているんですよ。でも、大事な所こそ従業員を信用してやらせなさいと言ったんです。そして、報告だけちゃんと聞いていればいいんです。なかなかできないと皆さん言うんですけど、いつまでもそういうつまらない所を握っているから、大きいものが来た時に掴めないんですよ。「商工日本」という本にこういうことが載っていたんです「人事は明日のこと、総務は今日のこと、経理は昨日のこと」人を中心に考えていくことが将来のために大切なことですね。

一番大切なのは従業員

@中田 これから、日本の経済はどういう方向に進むと思われますか。
@亀田 バブルが崩壊して、失った財産が二千兆円です。国家予算が七十兆円ですから、戻すのに三十年かかるんですよ。途中で押さえて崩壊が遅れた分、不況が長引いてしまった。今の状況はもう少し続きますね。それと、経済の話をすると、大企業だけが生き残っていくというような話をされることもありますが、大企業だけで生きられるわけはないです。中小企業も一緒に共存共栄しないといけないですよね。商工会議所の月刊誌は「石垣」というんですが、石垣というのは、大企業という大きな石があって、中小企業の小さい石がその間に入っているわけですよ。やはり、バランスというのはそういうことなんです。それから、こういう悪い状況が続くと賃金の引き下げという所にまでなると思いますが、そういう時は早くやることですよ。早くやることが、結果的に従業員を救うことになります。それを悪くなった一番最後にやるからいけないんです。一番大事にするのは働いている従業員であり、その家族だという根本的な姿勢を持っていないといけないですね。これからは従業員のことをどう考えていくかでお店が栄えていくと思います。最終的には、具体的な思いやりの行動ができないといけませんね。@中田 それが一番基本的なことでしょうね。
@亀田 この前、東電のトップセミナーに行ってきたんですが、その講師が、ちょうど前にいた、ある銀行の頭取に言っ
たんです。あなた銀行に入って、頭取から誉められたことがありますかと。その頭取は、一度だけありましたと答えたんです。そうしたら、あなた頭取になって、何人行員を誉めましたかと。すると、一人も誉めていない。日本の経営者というのは、大事な従業員などと口では言っていますけど、従業員の悪い所ばっかり探している人が多いですね。それじゃだめです。人を誉める。これからはそういう時代です。リーダーはそういう考えを持たなければだめですよ。
@中田 お忙しい中ありがとうございました。大変有益なお話を聞かせていただきました。


こならの森123号

2008-05-04 | 101号~200号
       ■こならの森123号■1998.7発行

表紙 「のかんぞう」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…のあざみ……3p
知らんの5つの市/……ホームズ……4p
結婚(誕生)…遠藤さん夫妻…5p
クイズ/タウン/現代国語…だい…6-7p
JC・インタビュー…東ちづる…8p-11p
小京都………12-17p
ロータリー………18-19p
ざ・ショートショート………20-21p
海棠市子の映画評………22p
書評・絵本紹介……23p
インフォメーション98………24-27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

小京都………12-17p

■コ・京都ミステリー
 このほど、佐野市で市政55周年を記念して、全国京都会議がおこなわれた。古都といわれ都市をあげて見ると、確かに全国には多い。そして、そのいずれもが多かれ少なかれ、究極の都、京都をイメージしているといっていいだろう。東京でさえも京都のイメージを得ているといわれている。東北の藤原三代も京にあこがれそれを思い描いた都市造りをした。東国の京(東京ではない)鎌倉でもしかりだ。京都がなければ、鎌倉の都市造りもまた違ったものになっていただろう。
 なぜそこまでして京都の都市造りは完璧なものとなったのだろうか。実際に、京の都の基礎、平安京は未完の都であった。現在では完成されたように思われる都だが建設当時の思惑とは違っている。平安京が基盤造りをして、基礎を築いた後、信長も秀吉も、京都を根拠地としては活用しなかった。桃山や大阪を拠点に城を築き、根城にした。今の米でいう、ワシントンとニューヨークとでもいうのだろうか。経済や政治の中心がどこに移っても、精神的な中心@母体@を常に京都において来たとも言える。藤原京、平城京、平安京と移り変わった首都としての完成が、現在にも続く『京都』だといえるだろう。
 また、平安京の前に造られた長岡京が、早良親王の怨霊によって現在の京都に変更されたともいわれている。
 映画『もののけ姫』ではないが、なにかこの時代特有のスピリチュアルな文化があったと思われる。
 さて、『古都・佐野』へ話を移そう。現在の佐野市の都市計画は、佐野氏が拠点を唐沢山から今の城山へ移した1602年から始まる。
 『駅南のひろば』に連載の『駅前古今』の著者、郷土史家・京谷博次さんによれば、佐野市の都市計画にも四神相応の考え方あったという。規模は小さいが、1602年(信吉)から、地図にあるような地形の都市づくりをしていた。
 原図は1853年、井伊直弼が佐野に来た時に製作した。太い線は井伊直弼が遊行した道筋を表したもので、当時の道の広さには関係ないという。
■唐代の長安城
 ご存じの通り平安京は中国の長安城をモデルにして建設された。しかし、四方にぐるりと回した城壁は、平安京では簡素なものになっている。日本では騎馬民族のような外来からの襲撃を受けるということはないから、かなりオープンが外壁であったということだ。佐野でも、地図を見る限りでは城壁らしきものは見られない。
四神相応の考え
西■大道=東山道、例幣使街道
北■丘陵=城山、水道山、唐沢山
南■窪地=渡良瀬川沿岸の低地
東■清流=三杉川
 四神相応とは、広辞苑によれば『四方の神、東は青竜(流水)、西は白虎(大道)、南は朱雀(くぼち)、北は玄武(丘陵)の四獣。四季を神に配した称。』それをもとに、相応したもっとも貴い地相が四神相応。東に流水があり西に大道、南にくぼち、そして北に丘陵のある地相がよい。平安京もこの考えに基づいて選定。
[佐野京(佐野市)と平安京(京都)の相違点]
■京より一歩進んだ防御都市
 この近辺ではまれに見る近代的な京都を見本にした都市(計画)であると言える。ただ、京都のような厳格な碁盤の目ではなく、食い違いが防御上の工夫がこらされているというから、時代により京都より(規模の違いこそあれ)さらに進んだ防御都市と言ってもいいと思う。
 京の鬼門にあたる位置には比叡山がおかれている。実際には、長岡京ができたときに開山しているので、京都の鬼門除けのために比叡山が造られたのではないそうだが、長岡京から鬼門方向に向けて京都が造られたことを考えると、その位置関係も始から加味されていたとも考えられる。
 佐野市ではどうか、実は同じように、鬼門に集中して寺が配されている。市内の地図を見て頂ければ一目瞭然だろう。そして、道路の要所要所にも社寺が配されているのである。
 ただ、まるっきりのさら地を開拓したというより、既成の土地を碁盤の目上に整備したものという。
 こならの森掲載の歴史講座の中にも、「道の突き当たりには寺を配します。これは有事の際に寺に防御の役名を果たせるためです。西を流れる秋山川は水堀の役目です。水道山といわれる山には、小野寺から八幡宮を遷座して祀ります。寺の大部分は唐澤山の麓にあったものです。」とあります。 
 佐野市は小京都と銘打っている数ある都市でも、その歴史的古さや、都市計画など、呪術的バリアなどどれをとっても、小(コ)・京都といって過言ではない。しかし、現在では、往年の町並みを残した地区があまりにも少ないので、見ただけ(一見)では単なる地方小都市としか受け取ってもらえない。せいぜい、心に残る一番のイメージはラーメンの町と言ったところだろうか。事実、町に住む人でさえ関東随一のミニ京都だということにあまり関心がないようだ。
 ただ、歴史だけでは日本一の小京都だと威張れる訳ではない。小京都のメンバー都市は名だたる有名な都市が目白押しだからだ。とても本来なら太刀打ちできるものではない。足利市の鑁阿寺周辺の方がソレらしいと思うし、イメージづくりも、その膨らませ方(ハッタリ)も残念ながら佐野市には全くない。


こならの森122号

2008-05-03 | 101号~200号
       ■こならの森122号■1998.6発行

表紙 「岩舟ポピー」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森7月号■

おぞねとしこのポエム…あまがえる……3p
知らんの5つの市/……ハイド……4p
結婚(誕生)…小森谷一樹さん&一枝さん…5p
うしろの正面クイズ………6p
安佐の名所クイズ………7p
JC・インタビュー…大谷貴子8p-11p
シーディング………12-17p
ざ・ショートショート………18-19p
海棠市子の映画評…『HANA-BI』……20p
書評・絵本紹介……21p
タウン情報………22p-23p
インフォメーション98………24-27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

シーディング

■ガーデニングとは
 ガーデニングを日本語に訳すと園芸です。園をさらに辞書にあたってみると『草木・花・野菜を植えた畑や庭』とあります。しかし、庭と畑はイメージ的にあまりにも掛け離れています。 根古屋森林公園に最近オープンした、クラインガルテンはドイツ語で『小さな庭』だそうですが、実際にそれを使用状況に合わせて日本語に訳すと家庭菜園となるのではないでしょうか。洋の東西をとわず昔は、畑と庭との区別を明確にはしていなかったようです。 今静かなブームのガーディニングを考えてみると、やはり庭と畑の二つを意味すると思います。
 『庭・ガーディニング』は、まさしく庭に花木を植えて鑑賞し、その周辺グッズやドライフラワーなどを作って楽しむ。
 『畑・ガーディニング』は、野菜を中心に『実』を取る。あまり鑑賞という言葉は出て来ない(?)
■家庭菜園を楽しむ
 それでは私はと申しますと、家のすぐ前の3坪程の庭に、じゃがいもやひまわり、デイジー、ニンジン、雑木、ミント、シソなどごちゃまぜ。
 他に100坪程の畑を借りて、トウモロコシ、キューリ、オクラ、ナス、スイカ、カボチャなどの野菜を栽培しています。
 また、鉢栽培も数年前から行っています。ミニトマト、バジル、パセリ。種類にもよりますが深
さがある容器の方が生育は良いようです。
 今回は、入門編として紹介して行きたいと思います。
ガーデニングからシーディングへ ( 種 蒔 き )
■なぜ『シーディング』なのか
 極端に言えばそれは庭(菜園)に本当に種を蒔くだけだからなのです。これといった機械や用具も必要としません。
 買うものは、本当に種だけです。

■始まりはジャガイモ
 昨年の春に、あまったジャガイモの種芋を10個か20個だったと思いますがもらったので、畑に植えてみました。その時は、家庭菜園という考えはなかったのです。ですから、それっきりで植えたことすら忘れてしまうほど、まったくのほったらかし。にもかかわらず、立派に成長しました。(まるで我が家の子育みたい。)段ボール箱いっぱいの収穫を目にして、家庭菜園に目覚めないはずはありません。現在その畑には、取り残したジャガイモが芽を出して、スクスク成長しています。最初に植えた種芋の20個くらいは充分収穫できそうです。
 後で園芸書を読むと、ジャガイモの栽培は簡単な部類に入るとか。もちろんなんでもかんでも種を蒔けばというわけにはいかないものです。何度も失敗しました。しかし、一袋の種の値段は数百円程度。小松菜などは一袋100円。(実際には、それ以下の金額でも十分採算が取れると思われる。)昨年の秋に適当に子供達とぱらぱら種蒔きをしたら、今年の春先まで楽しめました。とりに行くのがいやになるほど採れます。漬物はもちろん、菜の花のピクルス、からしあえなどなど。
 同じように、どうせ出てきやしないとたかをくくって蒔いた、タカナはそんな(菜)馬鹿菜と思うほど出て来て閉口しました。漬物にしても、みそ汁に入れてもまだあるまだある、もとは180円なのに、いったい何回元を取れば気が済むのか。ただ飽きてしまって、見る気にもなれないのが残念。
■こならの森流 ガーディニング術
 家庭菜園と言っても、プロの菜園家(百姓)と同じように手間をかけるのもひとつですが、私は家庭菜園には、家庭菜園らしい素人さがあって良いと思います。家族でお金をかけずに楽しみながら、どろんこになって食物を育てていく。最初は簡単なものからチャレンジして、種類を増やしていく。うまく行かないこともあります。一袋種を蒔いたのに発芽しない。また、発芽したが、成長しなかった。でも、元手は数百円だと割り切ることが肝心です。しかし、悔しさのあまりそうは思えないのが人情というものです。それに、一袋数百円でも100種類近く品種を揃えると、数万円にもなります。畑を借りているとしたらその地代もかかります。ばかにはなりませんが、私はそういうものだと思うことにしています。
 土日と仕事が終わった後のアフターファイブにしか、菜園へはいけませんから、必然的に手間がかけられません。全くの放任栽培です。
 なるべく手間をかけないという勇気が実は必要なのです。
 細部ついては、後日、詳しく紹介してみたいと思います。また、編集部と一緒に菜園を耕す人を募集中です。


こならの森121号

2008-05-02 | 101号~200号
       ■こならの森121号■1998.5発行

表紙 「唐沢菖蒲園」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森6月号■
10周年記念号 

おぞねとしこのポエム…いとすぎ……3p
知らんの5つの市/…あかいし………4p
結婚…篠原さん夫妻…5p
JC・茂木敏充………………6-9p
うしろの正面/名所クイズ………10p
安佐の2万5000年………11-22p
トピックス………23p-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

こならの森から

犬の時間
 春になったと思ったら、桜が散って、芽吹きの時を迎え、過ごしやすい季節になって来ました。そして5月はこならの森創刊の月でもあります。
 激しい時の移ろいで今回だけは、『何かを始めるには一番いい季節』なんてとても言っていられません。
 『生きるという贅沢』、そんなタイトルの本を目にしたとき、はっとあることに気づかされました。それは、なぜ季節の変化を眺めているだけなのにこんなにも豊かな気分に浸れるのだろうと考えていたからです。
 最近になってやっと、モノではない、と誰しも分かって来たのですが、それ以上の事が分かりませんでした。
 ある映画監督はそれを『犬の時間』と提起します。一日ぼんやりしている時間がもしかしたら、一番犬にとって幸福なのではないかと。子どものころに過ごした、社会性に捕らわれない時間は、まさしく犬の時間だとも言っています。
 子どもにとって、服を脱ぎ、服を着るという時間は悠久の流れの中です。おとなは5分とか、10分とか手元の時計で計測しながら、『早くしなさい』を連呼しますが、子どもは違います。おとなからみればほとんど止まっている時間かも知れません。
 こならの森もあっと言う間の10年でしたが、一号一号読み返すと、濃縮された時間が弛み始めます。



こならの森220号

2008-05-01 | 101号~200号
       ■こならの森120号■1998.4発行

表紙 「みかも山」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森5月号■

おぞねとしこのポエム…みずなら……3p
知らんの5つの市/…京かのこ………4p
結婚…阿部さん夫妻…5p
ウーマン慶野かや野さん………6p
現代国語………7p
JC・JOURNAL………8-11p
田中正造…布川……12-19p
タウン情報………20-21p
インフォメーション………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

ウーマン
慶野かや野さん
オカリナのお菓子『田沼の調べ・オカリナの里』を製作した
 慶野かや野さん。

 昭和44年生まれ。日本菓子専門学校を卒業後東京の和菓子店に4年間勤務。その後帰郷し、風月堂で菓子製作に従事している。東京の和菓子店では、初めて採用された女性社員だという。最近では、一頃のような厳しい職人気質も薄らいでおり、場合によっては分量などをメモすることもゆるされたという。
 風月堂では、オリジナルの創作和菓子などを製作。今回のオカリナ菓子の構想は、かや野さんが
オカリナを習い始めた3年ほど前に溯るという。『オカリナは、音のやさしさと音色の変化がよく、そうしたものを味の変化として出したかった。』という。それ以前にもバレンタインに作成したクッキーがありそれが原型になった。それから、いちごあんを使ったお菓子を前々から作ってみたかっ
たからだともいう。
 一般的なオカリナの大きさをそのまま模したのでは、お菓子としては大きすぎてしまう。程よい大きさにするまで何度かやり直し、基本の型を作るまでに時間がかかったという。オカリナにある穴は型抜きでは出にくいので一つ一つ手で仕上げているという。
 いちご味の材料は小麦粉とバターのクッキー生地の中にいちごのつぶつぶあんを入れている。もう一つはココアの生地にチョコチップが入り、あんはミルクあんを使用している。いちごのつぶつぶ感がたまらなく、クセになる人もいるという。


こならの森119号

2008-05-01 | 101号~200号
       ■こならの森119号■1998.3発行

表紙 「山崎家の桜」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森4月号■

おぞねとしこのポエム…たまねぎ……3p
知らんの5つの市/……カルメン……4p
結婚(誕生)…青木さん夫妻…5p
JC・インタビュー…国分…OCR=6-7p
桜の名木……8-11p
歴史講座 第11回…田中正造……12-19p
インフォメーション97………20-23p
現代国語…せん…24p
両毛神楽物語…天狗……25p
海棠市子の映画評…『HANA-BI』……26p
書評・絵本紹介……27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座 第11回 …田中正造…

直訴の真相
戦略家としての田中正造

 直訴状にはハンコがいくつ押してあるのか

 ここにあるのは直訴状のコピーです。佐野市郷土博物館にありますから、皆さまご覧になっているかと思いますが、そこにはハンコがいくつ押してあるのか。私が見るところでは40は押してあります。もちろん最初の署名捺印というのは必要ですよね。それから一番最後の方もやっぱり押さないと納まりがつかない。それからこれは一枚続きになっているけれども、正造さんが使ったのは本来は6枚の美濃半紙ですね。半紙と半紙ですからつなぎがあり、その所に割り印を押しますね。ですからこれは訂正印ではない、それを抜きますと訂正箇所は34となる。
 よく見ると訂正してあるけれども、判のないところもある。これは正造さんが押し忘れたのか、もう一つは直すのを一度全部やってその時は全てに押したが、天皇を待っていて時間があったのでもう一度読んだら直す箇所が出て来て、その時に判を押さなかったのか。私には分からないんです。田中さんに聞くといっても無理ですから、皆さんと分からない所は考えていきたい。

 直訴状は2種類あった

 直訴状は文章としては2種類ある。レジメの1ぺーじの下のところにある新聞記事に出た謹奏表とこのコピーとはかなり違います。突き合わせて研究していただきたいと思います。
 直訴文の最後はどうなって
 いるか。
 直訴状の最後の日付が明治三十四年十二月十日。新聞の方はそうあります。ところが田中さんが使った博物館にある謹奏には、明治三十四年十二月で日が入っていません。私もうっかりしていたのですが、非常に重要なもの、命懸けの、しかも明治天皇に差し上げようという大事な大事な直訴状に日付がない、十二月で止まっている。こんな事があるのか。どうして日付が入っていないのだろうか。
 日付が入っていない遺言状とか公的な文書などは役に立たないですよね。それよりも大事な直訴状が日付なしなのです。田中さんはそれをもって明治天皇に駆け寄って行く。

 どうして日付が入っていないのか。《日付のなぞ》

 あるとこで宇大の生徒に直訴の説明を行った後、宇大の先生が『なんで日が入っていないんでしょうね』と言った。アッと思ったんですね。私はこれに気が付かなかった、その時返事ができなかったんですね。それで何日も考えた。結論というか、今は分かっていますが、案外見落としている点が実はあるのではないか。
 それから、どっちの直訴状が良いとか悪いとかいうのはおかしいのですが、双方には大事な違いがある。新聞に出た直訴状というのは幸徳秋水が書いて清書したものです。ですから体裁はきちんと出来ています。
 しかし、田中正造が明治天皇にお願いする6項目があるのですが、その中には大事なことが抜けています。ですから正造としてはこれでは駄目だ、というので、あちこち訂正したのだと思います。そして両者には致命的な違いがあります。それについては先に行ってから話します。 レジメに直訴の報道とありますが、こんな風に田中正造は直訴したと知らせが出ています。それで直訴が世間に知られるわけです。ですが、直訴の準備だとか、直訴状をどうしたかということは、新聞報道ではすぐにはつかみにくい。まもなく幸徳秋水の文章だと分かる。

 新聞に掲載された直訴状では駄目だ。

 荒畑寒村の『谷中村滅亡史』にある直訴状というのは、新聞に掲載されたものをそっくり使用したが、本当はこの新聞に掲載された直訴状を使ってしまっては駄目なんですね。滅亡史の中の直訴状を田中正造の直訴状だと思って、何か書くときに、これを使ってしまってはいけない。
 荒畑寒村は『谷中村滅亡史』を書きましたが、結構ウソがありますね。それというのは、『カツ子婦人の元に離縁状を送り』と書いてあります。直訴をすると災いが妻にまで及ぶかもしれないからというのですが、これは歌舞伎かなにかの世界です。全くそれはないのです。田中正造と荒畑寒村は谷中で会ってちゃんと話し合っている。正造は荒畑寒村の本が出たことは知っている訳ですけれども、俺そんなことはしないとは言わなかったようですね。
 それから、『発狂者となし、辛うじて僅かに事無きを得たり。』ともある。これは案外、田中さんは直訴後、気違いだというので許されたという説がまかり通っていますが、そうではない。田中正造は気違い扱いされては困ると言っている。
 秋水は直訴状の中の初めの方に狂人の狂の字を使っていますが、正造はわざわざそれを消してしまう。それは正造の使った直訴状を見ていただければ分かります。政府の方も確かに狂人としてはいないですね。警察医を呼んでこの人物、明治天皇に迫ろうとした人物の精神状態を調べた。精神鑑定を行っている。気違いではないということは警察医の方で証明しています。でも狂人扱いの通説が来ている。荒畑寒村など正造に話を聞いていながらもそう書いている。

 間違いを平気で書いている

 もっとひどいのは木下尚江です。一番田中正造を知っている者、だれもそう思っていました。そして、この人は文筆の人ですから、田中正造の伝記を書きました。従来では田中正造を書く場合は木下尚江のものによるか、栗原彦三郎の『義人全集』といったものが定本になっています。ですから、この二人が間違っていればみんな違ってきてしまう、違った田中正造になってしまう。今に思えば多分に木下尚江式の田中正造になっていて、本当の田中正造ではない。まして栗原さんなどは、あの人の勝手な考え、主義主張を田中さんはこう言ったとすりかえて、自分の考えを出しています。ですから、義人全集は特に気をつけて読まないと、義人の『義』が正義の義でなくて偽りの『偽』になってしまう恐れが出てくる。あの本は良い本ではありますが、そういう点に気をつけなければいけない。
 木下尚江ならいいかといいますと、ここでも間違いを平気で書いている。その文をみて下さい。そして、さがしてみませんか。
 それは、通信社がその日のうちに直訴状を報道して来たとあるが報道なんかしてきっこありません。なぜかというと、直訴状は取り上げられてしまったのですから。警察の方へいってしまって、正造の元へ帰ってくるのは13日になってからです。
 ところが木下尚江は10日に、毎日新聞にいると、正造が直訴したという知らせが入って来た。そうこうするうちに通信社から直訴状が送られて来た。と言っている。こんなことは絶対にありません。直訴状の筆者が幸徳秋水だということも、半山の方から知ったことなので、こういう事実も全くない。 しかし木下尚江はそういうふうに書いている。他の人は知らない、俺しか知らないからということなんでしょうか。もっとも大正10年に書いた『田中正造翁』には、そんな風には書いてありません。だんだん自分で作り替えてしまう。ですから、木下尚江の文章で田中正造の直訴の真相を語ろうとしたら全く違うものになってしまいます。


こならの森118号

2008-04-30 | 101号~200号
       ■こならの森118号■1998.2発行

表紙 「れんげ」

C・o・n・t・e・n・t・s


■こならの森3月号■

おぞねとしこのポエム…にんじん……3p
その他の情報…/猫バス42……4p
結婚(誕生)…駒場さん夫妻…5p
オープン情報…6p
知らんの5つの市/……ラオッテッモ……7p
JC・インタビュー…川村……8-11p
歴史講座 第10回………12-19p
インフォメーション97………20-23p
現代国語…せせ…24p
両毛神楽物語………25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

JC・インタビュー

 第二回目の対談は、安佐地域を中心にボランティア活動を続けている「みんなの会」会長の川村富士雄さんです。川村さんは、ご自身も生まれてすぐに脳性小児マヒという大病をされ、この障害に立ち向かい戦ってこられました。現在、同じように障害に苦しむ方々の社会参加のお手伝いをされています。また、二十四時間テレビチャリティーでは、二年連続で実行委員長として活躍され、三年に一度行なわれている「現代座」という劇団の公演では、この地域の実行委員もやっていらっしゃいます。   

聞き手 中田 裕久(なかだ ひろひさ)さん
   
■PROFILE:
川村 富士雄 (かわむら ふじお)さん
1957年 佐野市生まれ。
           

身障者と健常者がいっしょにできる活動を

中田 川村さんは、「みんなの会」を通して、あるいは個人的にも様々なボランティア活動をされていますが、こうしたボランティア活動をやろうと思ったきっかけを教えていただけますか。
川村 最初のきっかけは、町内の先輩の薦めで入った植野町の青年会です。そこで自分がハンディがあるということを気にせずにまちづくりに参加できまして、すごく充実した活動ができたんです。その後出会ったのが「みんなの会」です。そこでは障害者と健常者がいっしょになって、まちづくり、交流の場を持っていました。
中田 川村さんがそういった運動をやろうとした時に、自分自身ハンディがあるということで、大変ご苦労をされたのではないかと思いますが。
川村 ここでの活動は、みんなと楽しくできていまして、楽しいから一所懸命になれたんですね。
「みんなの会」に入って十五年になりますが、そういった活動を通して、非常に自分の存在感を感じることができました。
中田 今、障害者と健常者がいっしょになって何かをするという機会は、だんだん増えてきているんでしょうか。
川村 障害者の方というのは、まず家から外に出ることさえ大変なんですが、みんなと遊びに行きたいとか、話がしたいとか、買い物をしたいなど、いろいろな夢があります。一緒にいるということ自体、なかなか機会に恵まれないというところがあるんです。これからも健常者と障害者がいっしょに集まって行なう活動を続けていきたいと思っていますし、ボランティアの仲
間も、いろいろな活動を通して、障害者の方たちとふれ合う時間を大切にしたいと考えてくれています。
中田 川村さんは、この二年間、二十四時間テレビでチャリティーをやっていらして、佐野の「秀郷まつり」とか、葛生の「原人まつり」などでボランティアの皆さんとチャリティー活動をされていますが、それを率先してやろうと思った理由は何でしょうか。
川村 若い人と一緒になって何かをやりたいと思ったのが最初です。若い人にたくさん集まってもらうにはどうしたら良いかということで始めまして、ボランティアを募集しましたら高校生・大学生の人が七十人ほど来てくれました。
中田 昨年、青年会議所も参加させてもらいましたが、この高校生・大学生の人がものすごく真剣にやってくれていますね。
川村 そうですね。とても楽しんでやってくれまして、また障害者の方に対しても理解をしてくれていると思います。今年もまたテレビチャリティーはやりたいと思っていますので、ぜひご協力をお願いします。
中田 阪神淡路大震災以来、ボランティアというものが注目されていますが、十五年間ボランティア活動をされている川村さんから見て、これからのボランティアはどうあるべきだと思いますか。今後川村さんは、この地域、あるいはこの地域以外でも、どんな活動をやっていきたいと考えていらっしゃいますか。川村 ひとことで言えば、やさしいひとづくり。障害者の方々に対する社会参加のお手伝いをしながら、人と人との結びつき、人に対する思いやりの気持ちを大切にしたいと考えています。障害者の方も積極的に参加できるようなボランティア活動、もっと外に出やすくなるような環境づくりを、私自身が障害者の方へのパイプ役になって続けていければと考えています。
中田 今も毎週病院に通っていらっしゃるということですが、ぜひ体を大事にされて、川村さんの言われる障害者と健常者のよりいっそうの交流がはかれるように頑張ってください。このまちに住むみんなが参加できるような暖かいボランティア活動をしていってください。
 青年会議所も今年度「高齢身障者対策委員会」というものを作っていますので、ぜひ一緒に活動をさせていただきたいと思います。今日はどうもありがとうございました。


こならの森117号

2008-04-30 | 101号~200号
       ■こならの森117号■1998.1発行

表紙 「三毳山/雪」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森2月号■

おぞねとしこのポエム…しいたけ……3p
その他の情報…/猫バス41……4p
結婚(誕生)…五十畑隆宏さん&ゆう子さん…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ニコラス……7p
JC・インタビュー………8-13p
歴史講座 第9回………14-21p
インフォメーション97………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】
JC・JOURNAL…インタビュー

早瀬 昇(はやせ のぼる)
1955年大阪府生まれ。京都工芸繊維大学在学中に「大坂交通遺児を励ます会」の活動に参加。以後様々なボランティア活動に参加する。阪神・淡路大震災時には、全国の市民団体と連係し「被災地の人々を応援する市民の会」を結成。
現職
社会福祉法人 大阪ボランティア協会 理事・事務局長
大阪大学人間科学部 客員助教授
日本NPOセンター 常務理事 他
著書
「元気印ボランティア入門」 他多数

聞き手
中田 裕久(なかだ ひろひさ)さん

 早瀬 昇さんは、日本を代表するボランティア・リーダー。学生時代から様々なボランティア活動に関わり、今、新しい形のボランティア・NPOを全国に広め、社会変革を起こそうとしています。今回は対談を通して、これからのまちづくりのために我々は何をしたら良いのかを示唆してくれました。

始まりは責任感との出会い

中田 早瀬さんの本をいくつか読ませて頂きまして、特に私が思いましたのは、京都工芸繊維大学の電子工学科を出られて、ボランティア関係の方に移った時にお父さんが非常に怒って、お母さんがもうあきらめなさいと言ったということが書いてあるんですが、ボランティアの方へ行ったきっかけというのは何だったんでしょうか。
早瀬 大学に入った年に、五月三日の深夜に、大阪のまちを一晩歩いてみませんかというイベントの紹介の新聞記事を見たんですね。おもしろそうやと思った。で手紙書いてしもうたんですよ。ちょっとこれ詳しいこと決まったら教えてくださいと。そしたらハガキが来たんですね。何月何日に説明会を開きますから来はりませんかと。東京に事務所が有ったんですけども、関西から東京に手紙書いた人が二十何人おうてはったんですね、でね、説明会に行ったん二人だけなんですね。そのうちの一人が僕だったんですよ。で行ったはいいけどあらへんのですよ。看板もあらへん。おかしいなあと思って聞いたんですね、フロントに。そしたらここですよと。で行ってみたとこが「交通遺児を励ます会」だったんです。つまり、元々は福祉も何もあらへんわけですよ。僕はただ真夜中にみんなで大阪のまちをぐるぐる廻る変なイベントをする奴がおるなと思っただけで、それがおもろいなと思ったのが、たまたま「交通遺児を励ます会」やったと。そういうことですね、元々は。ところがそれをやってみたらどういうことになったかというと、僕は事務局になったんですけど、僕が泊まり込みで事務所を預かってると、マスコミから電話がかかってくるわけですよ。今先頭はどこにいますか、あるいは一番後ろはと。NHKですけど、朝日新聞ですけどとね。そしたらね、ひょっとしたら今俺は世界を変えてるんじゃないかという幻想に浸るわけですよ。こういった一種の勘違いですね。これがきっかけですね。そこからおもしろさを知ってしまったんですよ。
中田 ボランティア協会に入られてだんだん楽しさが分かってきたということですけど、我々JCでもそうなんですが、最初の取っかかりのきっかけの部分が続けていけるかいけないかの部分になっていくと思うんですが。
早瀬 そうですね。でも僕は最初の頃は不真面目ないいかげんなメンバーやったと思いますよ。どこで変わったかというとね、たまたま前の代表してるやつがやめよったんですよ。で三人しかメンバーが残らなくなった。解散しても良かったんですけども、そこで責任を感じたんですね。せなあかんとちゃうかなと。結局ね、こういうものってのは最初はかなり乗り手は多いと思うんですよ。それがどっかで、おまえがせえへんかったら他に誰がすんねんと思う時が有るんですよ。で、やっていくと自分が代表にもなるし、新聞にも名前が載るようになるし、おもしろいじゃないですか。そのおもしろさに加えて、なんか俺がするのかなと思う時ですね、それが出会いですよね。そういうものが人を造るんちゃいますかね。

専門性を活かしてこそボランティア

中田 それとこの辺の地域ではあまり聞かないボランティア協会の内容なんですが。この辺ですと福祉協議会と間違えてしまいがちなんですけれども。
早瀬 大阪ボランティア協会というのは、今から三十二年前に生まれた日本で一番古いボランティアセンター、市民活動のサポートセンターなんですね。何をしているかというと、社会福祉協議会やボランティアセンターとほぼいっしょと言えばいっしょなんですが、違うのは、福祉に限定してない、出入りする人が極めて社会人が多いということ。これはね夜間やってる、九時まで開いてる、土日も開いてる、これが一番大きいですよね。それと民間だということですよ。運営資金は年間一億二千万ですけど、そのうち行政の資金は千五百万ぐらいしかないから。だから自由なんですよ。
中田 あとの資金の供給のしかたというのは。
早瀬 二千五百万ぐらいは企業と財団からの寄付、二千万ぐらいは個人あるいはNPOからの資金、残り事業収入が五千万ぐらい。要は事業をしてるんですよ。NPOは収益事業ができるわけですからね。収益事業もするけど収益事業だけではもたないわけで、寄付も受けるし、助成金ももらうし、行政からも資金をもらう。だから行政とも関係があるわけですよ、大切なことはね。役所とも繋がってるし、企業とも繋がってるし、市民とも繋がってるし、自分たち自身でも資金を集めてる。四つ足持ってるわけですよ。そういったバランスで動いてる組織です。
中田 たとえば、企業の方がボランティア協会に来られた時にその使われ方というのは。
早瀬 まずボランティア協会を拠点に活動しているグループが八十ぐらいあるんですね、人数にして六千人ぐらいの人がいろんな活動に参加してはるんですね。それがまずありますね。それからボランティア協会の経営に関っているボランティアスタッフが二百人ぐらい。たとえば「月刊ボランティア」という協会の発行している情報誌には、毎日新聞とかフリーランスのライターがボランティアで入っている。本の出版の委員なんていうのは大学の先生とか、自分自身が出版社を経営している人間とかが集まってきて、もうひとつの仕事をしているということですよね。
中田 それはもう最先端の組織ですよね
早瀬 だからおもしろくて来るわけですよみんな。自分がすごく生き生きするじゃないですか。必ず何かの専門性を皆さん持ってるわけですから、その専門性を活かされるような仕事、逆にいえば専門性を活かせないボランティア活動の領域というのはないんです。みんなそれぞれ発展できる所があるんですから、そういうものをうまく、僕等自身じゃなくて、彼らが創っていけるわけですよ、うちは。
中田 ボランティアと奉仕の違いがいろいろあるかと思うんですけれども、ボランティアという言葉を聞くと慈善活動というイメージがありますよね、それと奉仕というと、青年会議所には三信条というのがありまして、奉仕・修練・友情なんですが、最近の青年会議所では今までの奉仕を中心としたCDというまちづくりの手法がですね、だんだん奉仕という言葉での表現ではなくて、もっといわゆるNPO的なものに変えていかなければいけないのかなとなってきているんですけれども、ここら辺の現実的な違いというものをお話し頂ければありがたいんですけれども。
早瀬 多分主語が違うんですよ。ボランティアの場合、したいというのは自分なんですよね。奉仕というのは奉って仕えるわけでしょ、誰かに。それは神にであったり、正義にであったりするかもしれませんけれども。少し窮屈なんですよ、奉仕というのは。せなあかんことなんですよ。そこの窮屈さを僕等は取り除きたい。ボランティア活動というのはもっと自由で、自由というのはリスクを背負うというのもあるんですけど、そういう変革的なイメージを多分持てたんですよね。でも、こんなんは文化によっても違って来るから、あまり奉仕やったらあかんとかあんまり言う必要はないと思いますけど。

大災害とボランティア

中田 話は変わりまして、阪神淡路大震災の時のことが本の中にも書かれているんですが、阪神淡路大震災がおこって最初は一日に二万人ぐらいのボランティアがいて、どんどん淘汰されてくるのかどうか分かりませんが、だんだん減ってきますね。その辺の所はどうお考えですか。
早瀬 当たり前なんですよ。最初は簡単やったからですよ。災害ボランティアほど簡単なものはないですよ。水汲みでもボランティアになるんですから。一日限りでも良かったんですよ。減ってしまうのが当たり前の話であって、もう難しくなってる。
中田 今でも早瀬さんは関られてるんですか。
早瀬 いや、もう僕等が関れるような問題じゃないですよ。もう現場にずうっといないと。今、仮設に行って何ができますか。差が開きすぎてしまってるんですよ。まだ四万強いるんですよ、仮設に。大変な人口ですよ。最後に公共住宅が完成するのが一九九九年か二〇〇〇年なんですよ。復興してる人はとうに復興してるわけですよ。差ができてくるでしょ。その人とずうっと顔の見える関係を作らんとできへんですよ。難しくなった。だから減っただけですよ。ある大きな、人々の心を動かすような事件が起きるとみんな動くんですよ。あの時にはそういう人々の心を動かすようなものがあったし、且つ非常に参加しやすい形式であったというのがあれだけ大きな広がりをつくった。他にもいろいろ理由がありますけどね。

行政・企業と競えるNPOを

中田 それとNPOですね。NPOの意味についてはどうお考えですか。
早瀬 非営利ということであれば政府もボランティア団体もNPOですよね。今言ってるNPOはNGOのNPOなんですよ。つまり政府に取り組まれていない非営利組織。たとえば今、社会福祉法人というのが有りますが、現在の社会福祉事業法によると、社会福祉事業は行政と社会福祉法人しかしちゃいけないことになっている。業務独占ですよ。社会福祉法人というのは行政が厳しい認可制度で認可するんですよ。つまり行政の言いなりみたいな組織を作るわけですね。競争がないわけですよ。そのような社会から、もっと競争原理で動くような非営利の活動が生まれてきて、それと行政が競争し合うような、そういう社会を創ろうじゃないかということなんですね。今までの旧来型ではない、独立して、市民の発意で、まさにボランティアがつくるようなNPO。そこんとこだと思いますね。社会変革をしたいちゅうことですよ。新しい社会のタイプを創っていくという点で言うと、NPOがNPOらしく、ボランティアらしく動けるということは、行政から独立しているということですね。しかも、経営能力があって企業なんかと対等に動けるということですね。そういう意味で言うと、これからのNPOにはマネージメント能力が必要になってくるわけですよ。そういうものを使って行政や企業と伍せるものを創っていくというのがこれから重要になってくると思います。
中田 佐野青年会議所では生活圏の同じ佐野・田沼・葛生の合併の住民発議運動をやっていまして、それはやはりこれからの高齢化社会とか、いろいろな課題に対応するために地域として力をつけなくてはということからある程度の自治規模、財政規模の必要性を訴えていますが、その枠組だけ創ってもそこに住んでいる人達がちゃんと意識を持ってないとだめで、システムだけ変わったことになってしまう。意識の改革というものがそこに必要になってくるだろうと考えているんですが。
早瀬 地方分権だけでは地方自治は進まないですね。地方分権というのは単に政府が小さくなるだけで、政府は政府なんですよ。政府は政府のことしかできへん分けですよ。政府を小さくすることは僕は大賛成ですけれども、プラスそこにNPOとか市民の発意がなかったら対等にできへん分けですよ。結局は権力ですからね、政府のままでは。
中田 我々の住民発議も住民自治が一番根底にありますから、そういう意味での部分なんですけれども。それと少子高齢化という問題もこれからありますが。
早瀬 どうしたら少子化をやめさせられるかというとね、シングルマザーを支援することですよ。ということはね、結婚しはった人は子供産んでるんですよちゃんと。出生率下がってない。要は結婚しなくなってるんですよ。そしたら結婚しなくても産めたらよろしいわけや。日本は結婚せんかったら産んだらあかん思ってるんですよ。スウェーデンは何で出生率二.二まで上がったかというと、あそこはシングルマザーを保護したからですよ。これはね大変な価値観の転換ですよ。そういうことができるのはNPOしかないでしょうな。政府は二分の一以上の賛成がないとできへんから。後はね、高齢化を止めるためには外国人労働者をどんどん入れることですよ。両方とも政府は嫌がるんですよね。別の話をするとね、高齢化社会というのは個性化社会なんですよ。赤ちゃんはね、みんなかわいいんですよ。それが年取ったらね、いろんな人ができてくるわけですよ。子供ん時は政府がやってもいいんですよ、一つの価値観で。でもいろんな価値観持った人がいろんなことをやろうとしたら、いろんな価値観をそれぞれ具現化できるようなシステムをつくらないかん。それがNPOなんですよ。
中田 これは確かに行政ではできないことですよね。

NPOは経営という発想

中田 それでは最後に、青年会議所に期待することをお話しして頂けますか。
早瀬 さきほども話しましたけど、マネージメントというのがこれから非常に重要になってくるんですね。NPOとは何かというとね、これから社会貢献を考える時に重要なのは、投資という発想なんですよ。僕等は寄付する人から投資されているんですよ。たとえば五万円の寄付をもらったとする。五万円入って儲かったと思ったらあかんわけですよ。その五万円のお金は負債ですよ。その五万円のお金でいかにその五万円を越えるような効果を社会に返すかなんですよ。我々にお金を渡せばこんなに行政を越えることができるんだと。そういう話っていうのは経営なんですよ。NPOというのは企業といっしょで、わずかな資源でもって最大の効果を出さなければならない。そこには目標管理、時間管理が必要ですよ。マネージメントが必要ですよ。そこの点でJCメンバーのノウハウをNPOに持ってくる、逆に言うとNPOで培った様々な新しい市民社会の価値観を企業の経営に持ってくる、そういう変換をできるのがJCなのではないかと思います。
中田 今日はどうもありがとうございました。


こならの森116号

2008-04-29 | 101号~200号
       ■こならの森116号■1997.12発行

表紙 「三毳山定点」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森1月号■

おぞねとしこのポエム…いぬたで……3p
その他の情報…/猫バス40……4p
結婚(誕生)…広瀬さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……オーガスタ……7p
歴史講座 第8回………8-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語………24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座 第8回

@縁切寺のコンセプト
 悪縁と縁を切らないと幸せにならない。縁結びも重要だけれども、縁切りの方が重要だというコンセプトで仕事をしています。資料館の電話番号も変わっていて、尾島局の2276です。『夫婦になろう』という。夫婦でくると、『夫婦なかむつまじく』という電話番号なんです。夫婦でくれば仲睦まじくなり、独身の人は結婚できる資料館だといっている。そんな話をしていると、今日の話を全くしないで終わりになってしまいますので止めます(笑)。
@離縁状の値段は『高木値段』
 現在、離縁状の値段が高くなっているということです。なぜ高いかというと、私が『三くだり半』等の本を書いたからなんだそうです。離縁状の値段は古本屋さんに言わせると『高木値段』だということです。
 ここに栃木県内の離縁状がありますが、実におもしろいものです。未だに縁切り状と言うそうです。栃木県史の史料の目録に縁切り状と書いてある。ですが本物を見ると、そうとは書いてない、離縁状と書いてある。ところが目録を採録する先生が離縁状を見ると縁切り状と書く。その先生の頭の中には、離縁状は縁切り状とインプットされている。茂木とか市貝からも『縁切り一札』と書かれたものが出てくる。それから「鴛鴦(おしどり)」という言葉を離縁状に使うのは栃木だけなんです。
 足利市の周辺では、『明日』と言う言葉を使う。明日を期せず、今からでもいい。これが特長なんです。ですから場所が書いてなくても、足利周辺だということが分かる。
 離縁状から見た江戸の女、離縁状からみてもかなり逞しく生きたということが分かる。
 江戸時代は専権離婚だと言われている。女は離縁状を貰って泣く泣く実家に帰る。その泣く泣くというのは、最近では私も納得している。泣く、泣くというのは嬉し泣きで帰っているんです(笑)。悔しかったり、悲しかったりしていない。あんな亭主と別れてせいせいした、と言って涙をポロっと流して実家に帰る。これが高木説です。


こならの森115号

2008-04-28 | 101号~200号
 
       ■こならの森115号■1997.11発行

表紙 「とみあさ公園」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森12月号■

おぞねとしこのポエム…いそぎく……3p
その他の情報…/猫バス39……4p
結婚(誕生)…山崎さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……ポテチーノ……7p
つたのからまる………8-9p
歴史講座 第7回………10-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…2回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
歴史講座 第7回
■佐野奉行の役割
 佐野奉行というのは彦根にいて佐野代官と世田谷代官を支配するだけかというと、そうではない。その役割は、土地や農民を支配して、財政とか訴訟関係そういったものも担当していた。佐野代官と世田谷代官で処理できないものは、佐野奉行の方に上げた。佐野代官というのは年貢徴収、物資の徴達が主です。世田谷の方は、佐野とは違ってまた一本上から組織が降りて来ています。江戸藩邸の賄い関係を扱うのが、世田谷でした。
 佐野奉行は普段は当然彦根の方に住んでいる訳ですが、年に一度必ず回ってくる。役人が彦根を出発して江戸屋敷へ行く、その後世田谷へ寄る。世田谷から天明へ3日間でくる。佐野領15か村を必ず巡見する。一番大きな目的というのは、その年の年貢、今の税金です。年貢の確定をするのが佐野奉行の仕事です。指示をしてそれを受けた代官が年貢割り付け状を出します。税金の納入通知みたいなものですね。江戸時代の年貢というのは個人個人にかけるものではなくて村にかける。そして村には名主とか組頭という役人がいて、その人たちが個人個人にかける。それをまとめて収めるという方式になっている。
■佐野陣屋
 今は全く跡形もありませんが、内堀米通りに佐野陣屋がありました。博物館の展示室にその陣屋の平面図が展示されています。明治になって彦根県佐野出張所になるんですが、内容は代官所そのままなんです。約60メーター四方くらいの規模ですから、そんなに大きなものではないんですね。明治になって廃藩置県になるときに競売にかけて無くなってしまう。そこにどういう役職の人がいたかということですが、まず代官は地元採用です。その次が代官見習い、代官になる候補者で、のちに代官になっていく。その人が二人います。それから目付役。佐野は代官と目付役が牛耳っている。ここまでが上の方の役です。他に越名に河岸がありますから御船役、それから物書き、書記ですね。薪役というのは、薪を収納しておく薪蔵の管理。それに持ち船を持っていますから、その船頭。炭役というのは、大量に木炭を産出していますからその役です。それから、下目付役、これは目付の見習いでしょうか。川除役、川の普請をする役、河川の工事を担当する。領地には秋山川とかいろいろありますが、川での洪水のときの補修です。領主が普請をする川と、村方が普請をする川というのが決まっているんです。大きく欠けそうなところは領主がやっています。下刈り役、山の下刈りでしょうか。その下に松茸役というのがおります。松茸がよく出たのでしょうか。松茸の初物が採れると、船で江戸の将軍の方に献上しているようです。その次には茸子役。雑割木、これは薪割りかなんかですね。修復は、陣屋とかいろいろな修復。
 以上は元禄8年の役人構成で一番古いものです。
■井伊直弼、佐野領地を巡見
 嘉永6年(1853年)、この時に幕末の大老、安政の大獄をやって桜田門外で暗殺された井伊直弼が、佐野の領地巡見のために来ているんですね。3月16日に大老としては大変小規模の行列、約70名くらいです。自分から日光社参を希望した関係でそうなったようです。日光には3月の20日に泊まっています。日光から鹿沼を通って、栃木を通り3月23日に佐野に入って来ます。富士の泉応院で小休止をしてさらに犬伏宿の本陣へ。ここは今何も残っていませんが現在の犬伏小学校の敷地の一角にありました。本陣というのは公的宿泊施設で、一般の旅人は泊まれない。23日には天明宿本陣に泊まります。東石美術館の東側にあたります、今ビルが建ちました。殿町通りの西が天明で東が小屋町です。場所は小屋町なんですが、天明宿の本陣としてあそこにあった。
 翌日は領地の巡見に行きます。24日に出発して吉水の寺内家で小休止をして、上多田の名主に寄った後、本光寺で昼食をとり、山形の大森家(最近までありましたが、建て替えました。)にて小休止をしている。そして下彦間の岩下家で食事をして、斎藤家に泊まっています。斉藤さんのところは昔のままです。わざわざ今の家をその時に新しく新築したという話を聞いています。
 さらに上彦間に行っています。名主の小林さん宅。それから大学院で25日に昼食をとっている。そこでUターンをして帰って来ます。
 佐野市内ですと、出流原町に神山さんという家がありますが、そこで25日に一泊をしている。新しく家を建てたようですけれども、元の家をそのままにしておいて、西側に建てたようです。この家は東側向きの家だったのですが、直弼の泊まった室をそのままにして、ぐるっと回転させて南向きにしたんですね。26日には、また天明の本陣に泊まって、翌27日に惣宗寺を参詣、越名村から船で古河を通ったのでしょう、栗橋までいって後は陸路江戸まで出た、これが井伊直弼の日光の社参を兼ねた佐野巡見の行程です。
■堀米の飯盛り女
 この時によく知られている話が、堀米の飯盛り女を廃止して欲しいという嘆願書が出ていることです。40数か村から出ています。天明とか犬伏宿は大名などの行列が通るときに、各村々から馬を提供しました。村の若いものが馬を連れて宿場に来る訳です。宿に飯盛り女を置くことを幕府から許可されていて、そういうところに入り浸りになってしまう。せっかく駄賃稼ぎに来たのに、それをつぎ込んでしまうと嘆願書に切々たる文面で書かれている。嘆願ですから、若干オーバーにかかれている面もあるかと思います。
 かつて、天保4年(1833年)に一回、嘆願書が出ているのですが、どうもそれを代官が握り潰してしまったらしい。そこで嘉永6年(1853年)に井伊直弼が来たときに、『天保4年(1833年)に出したけれども、何の返事もないので』といってまた出している。ところが同じ年の嘉永6年の3月に堀米町の宿場関係者からも飯盛女を廃止しないでくれという嘆願書が出されています。
 結果的には井伊直弼が江戸に戻ってから裁定して廃止にしています。


こならの森114号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森114号■1997.10発行
表紙 「のあざみ」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森11月号■

おぞねとしこのポエム…かまきり……3p
その他の情報…/猫バス38……4p
結婚(誕生)…若田部さん夫妻…5p
現代国語…せい……6p
知らんの5つの市/……月が丘……7p
歴史講座 第6回………8-11p
国道294………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23p
両毛神楽物語…1回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

ドライブガイド
国道294

 国道293号線の次ぎは、そう国道294ですよね。そして、国道50号線の前はといえば、国道49号線です。そんなわけで、今回は、安佐を走る国道番外編、あるいは国道シリーズの第2弾です。
 どうして、49号線もあるのかって、それは読んでのお楽しみ。

■293号線から49号線へ
 前回の293号線はどうでしたか、そこで一つ問題がありました。道を間違えてしまって本例のルートから外れてしまったということです。それでよかったのですが、実は293からはずれた『より道コース』を予定していたのです。またこの近辺は奥の細道のコースでもあります。その辺も加味したかったのですが、いかんせん道を間違えてしまって………。そこで登場したのが裏293です。まあ、294という正式名称があるのでしょうけれども………。
■スタートはやっぱり国道293
 ルート294までは、やはり293号線を通らなければいけません。したがって、294へ合流するまでの区間は、前回の293の号を参照して頂くと助かります。ひとつ付け加えて置きたいのは、例の西方町での合流地点、手前で旧道へ流れた方が5分近くの短縮になることが分かりました。また、ろまんちっく村での渋滞も予想に反してスムーズで拍子抜けでした。台風がらみの雨模様も幸いしたようです。 
■R-293から294へ
 馬頭町から黒羽町へ向かう趣のある道をひた走り、街道筋の家並みがとても旅情をかきたてます。ひなびた山村なのですが、どことなくなつかしさがあります。なにか忘れて来てしまったものや、新たな発見のようなそんな風景が続いていました。
 そして、どうしてこうも長く山村が続くのだろうかと思えるほど、山道の中に集落が点在しています。
■黒羽町へ
 ここはとても不思議な雰囲気の町です。何故、芭蕉はここに立ち寄ったのでしょうか。どういう因果でしょうか。そして、長く滞在したのでしょうか。何かきっと意味があるはずです。雲巌寺の入り口に残る杉の大木が何かを語ります。現在知られている奥の細道のルートにあたる場所はかつてのアイヌの聖地であったといいます。芭蕉にとって奥の細道とは日本人のルーツを探る旅だったのではないでしょうか。そんな気がして来ます。
 黒羽を越え福島へ入って来ます。道の奥の仲木戸でしょうか、なにか地名を聞くだけで考え深いものがありました。
 柳の道などもあり、またいい風景を醸し出しています。
■旅の重大な目的
 ああ、そうそう、今回の旅の重大な目的を言うのを忘れてしまいました。唐突ですが、福島県の矢吹町で5才児童の絵画展が開かれているのだそうです。(10月12日まで)
 田沼町にある珈琲&音の奥沢さんからそのような耳寄り情報を頂きました。奥沢さんの話では、田沼でも同じような動きがあるようです。
 高速なら2時間もかからない距離ですが、先程ののような理由で、今回はあえて〃よりみち〃コースとしました。
 矢吹町は白河市からすぐで、栃木県と福島県の境といった所でしょうか。人口約1万9千人、展示されている絵が何点だったか正確に調べなかったのですが、一つの部屋に全員の絵が展示できるのですから30名くらいでしょうか。企画とアイディアがとってもユニークで、かつまた
夢があって素晴らしいものです。そして10年後にまた同じ展覧会を開催する計画とか、スケールというか、時間的感覚の大きさに感銘してしまいます。小さな町なのでそれなりの利点もあるようです。
 また、立地条件を最大限に生かし、大きな池を利用して水辺を演出、憩いの場です。文化施設の点在が良くマッチします。近くにはキャンプ場もあります。 国道294の終点は猪苗代湖となっており、接続する国道は49号です。
■294→49
 国道293と国道50号線も接点がありましがが、その前後294と49でもやはり接点があったというわけです。道というのは続いているものですから、当たり前と言えば当たり前ですが、標識だけを頼りにつながり良く周回旅行ができるというのは嬉しいかぎりです。
 猪苗代湖から終点のいわき市までの国道49号を行きます。行楽時期にもかかわらず。スムーズな流れ、もっとも磐梯熱海で事故があり全面不通となっていて迂回路は大渋滞、それをやっともの思いで回避したばかりなので爽快感も倍増。一時間あまりでいわき市へ。しかしながら市内でまた渋滞。『そんなにいそいで………』なんて標語がありましたが、日本の道はどうやっても急げないようにできているようです。おかげで、国道49から50号へ入って帰ろうとしましたがとても無理な状況でした。しかたなくまた栃木県側へ入って国道293を通って戻って来ました。


こならの森113号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森113号■1997.9発行

表紙 「コスモス」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森10月号■

おぞねとしこのポエム…いがぐり……3p
その他の情報…/猫バス37……4p
結婚(誕生)…堀江さん夫妻…5p
現代国語…すう……6p
知らんの5つの市/……モコ……7p
タイムスリップ………8-11p
歴史講座 第5回………12-17p
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-25
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

歴史講座 第5回

@唐沢山城の築城
「いつ、だれによって城が造られたか」
 唐沢山城は、いつ、だれによって造られたか、ということは、安蘇郡の歴史にとって重要なことなんです。といいますのは、今から千年前に藤原秀郷が造ったのだと、ずっと言われて来ています。ただ現在見られるよな形の城というのは千年前のものではありません。戦国時代、15世紀と言ったらいいんでしょうか、その頃のものです。しかし千年前、藤原秀郷の時代に唐沢山に城が無かったのか、と言いますと必ずしも無かったとは言い切れないと思います。
 登った方は分かるかと思いますが、非常に見晴らしのいいところです。現在でも冬には東京方面が見えるという、それくらい眺望の利くところです。ですから砦として古くから使われてきたと思います。
@古代の狼煙台
 宇都宮を流れる鬼怒川の左岸に飛山城というのがあります。そこから「烽(とぶひ)」という字の書かれた坏(つき=須恵器)が発見され、全国的に話題になりました。ここに「狼煙台」があったのです。去年の11月に狼煙の実験が行われました。飛山城の近くを東山道が通っていた。そこで、伝達方法として、狼煙を上げたということです。そんなことがありますから、唐沢山城でもそういうことがあったかも知れません。
@唐沢山城はだれが造ったのか
 唐沢山城を造った人というのは、今まで3人ほど名前が上げられています。最初は藤原秀郷、次が約800年前の佐野成俊、3番目が約500年前の佐野盛綱となります。
 現在見られるような形の城は、戦国時代に造られたものです。この時代になりますと戦争の形態が変わって来ました。鉄砲がこれまでの弓に代わります。鉄砲の玉を堅固な石垣で跳ね返してしまおう、そんなことで城が堅固に造られてきます。
@毛利元就一門
 ただ、15世紀という時代は、はっきりとは分かっていません。ことに下野の国では、まだまだ解明されていない部分がたくさんある。武士団の編成にしても分からない部分があります。
 今、NHKで「毛利元就」を放送しています。その毛利家の家臣団の編成を図にして乗せてあります。この図は頂点に惣領として毛利隆元を置き、それを支える形で一門、譜代がおります。外側に外様、国衆がいます。この人たち一人一人は最初、毛利氏と同格の小規模な豪族(小領主)でした。これを国衆、又は国人と言います。ですが、毛利氏が力をつけて来た関係で、家臣として毛利武士団の一翼を担うようになったのです。


こならの森112号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森112号■1997.8発行

表紙 「小さい花」

C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森9月号■

おぞねとしこのポエム…やまゆり……3p
その他の情報…/猫バス36……4p
結婚(誕生)…楢原さん夫妻…5p
現代国語…じん……6p
知らんの5つの市/……六月……7p
歴史講座 第4回………8-9p
不透明な街…未収……10-17号
JC・JOURNAL………18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…13回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

歴史講座第4回

佐野源左衛門常世
 佐野源左衛門は『人名辞典』などで見ますと、生没年が不祥です。言われていることは鎌倉時代中期の武将で、上野国の佐野、今の高崎市佐野に住んでいたと言います。はじめ下野の佐野に居ましたが、一族に所領を
奪われて零落してしまいます。そこに登場するのが北条時頼です。雪の日、行き暮れた旅の僧を、秘蔵の鉢の木を焚いてもてなした、と言うお話しは、戦前の教科書に載っていましたので彼の名は全国的に知られていました。
 テレビでは水戸黄門様が日本全国をぐるっと回っていますが、時頼も民情視察のために、全国を回ったと言います。ですが黄門様同様、どうも怪しいという人がいる。田沼の蓼沼家の史料によりますと、佐野源左衛門は本領を召し上げられ、下野国の石沢(こくざわ)に住む、とあります。石沢は現在の葛生町正雲寺でしょうか。そうあります。 建長5年(1253)の冬、時頼が正雲寺に来て、源左衛門の家に泊まった。そこで、今はこのように零落しているけれども、鎌倉に一大事が起きたならば、いち早く駆けつけるなどと語ります。果たして建長6年、鎌倉から招集があった。そこで源左衛門は、雪の日の旅の僧が、執権の北條時頼であることを知ります。
 忠義を愛でられ、改めて本領37郷を拝領された源左衛門でしたが、国へ帰る途中、馬入川で溺れ死んでしまいます。そのため嫡子の常行が15歳になった時に執権にお目見えして、上野国佐野36郷を拝領し子孫が佐野に住む、とあります。
 一般の佐野系図には、佐野現左衛門のことは書いてありません。ただ『田原族譜』という佐野一族の系図を書いた本があります。それには佐野源左衛門の事が出ています。それによると常世の父は、常春、祖父は秀綱となっています。その上も資料にあるように違いが見られます。系図というものは勝手に作ってしまう、と言うと語弊がありますが、自分の都合のよいように作り替えてしまうものです。あまり当てにはできません。


こならの森111号

2008-04-28 | 101号~200号
       ■こならの森111号■1997.7発行
表紙 「三毳黄コスモス」
C・o・n・t・e・n・t・s

■こならの森8月号■

おぞねとしこのポエム…あさがお……3p
その他の情報…/猫バス35……4p
結婚(誕生)…石井さん夫妻…5p
現代国語…しろ……6p
知らんの5つの市/……一柳……7p
歴史講座第三回………8-9p
国道293号線………10-17号
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション97………20-23
両毛神楽物語…12回……24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p

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【本文抜粋記事】

国道293号線………10-17号


@スタート
 佐野市に通っている国道は二つ、(鉄道も二つ)。その一つの293号線は、一体どこが始発なのか。そんな単純な疑問から今回の企画はスタートした。もう一本の国道50号線もいつか企画してみたいと思っている。今回全線を走ってみていろいろなことが再発見することができた。
 国道293号線。始点はどこか、そして終点は、知っているようでよく分からない、そんな素朴な疑問ではある。しかし、あまりに唐突なこの疑問の答えが実は全く日常的な、だれでも知っていることだったりする。こんなことってありますよね。今回の@企画@(@@の意味は最後に分かります)もそれなのだ。
@思い立ったら
 遅い朝に突如としてスタート。一路国道50号線を西へ向かう。国道50号線が今回のキーポイントになっている。
 それはそうと今日は休日でちょっと走っただけでも渋滞の波の中。始発点まで来るのに時間をとられる。まだ、『佐野にも』来ていない。やっと足利市内を抜けて、越床峠トンネルへ。この手前にはしゃれた休憩所が最近できた。
 起点を通り佐野市に入ってくるのに1時間もかかってしまった。
 道は信じられないくらいにきれいになっていて、どこかの観光道路みたいだ。
@ここも
やっぱり渋滞
 国道293号線は、西方町の辺りで非常に渋滞する。道路が良くなったのに、どうして昔よりスムーズに車が進まないのか不思議でならない。もちろん旧道へ出て渋滞のピークの橋を越えた。
 ところが、また293号線上に強敵(渋滞)が現れた。宇都宮市のろまんちっく村だ。地ビールがウリでオープンしたてなのは分かるが、辺りは丘陵地なのではっきり分かる脇道や抜け道がない。上りも下りもほとんどトンネルの中のような状態となった。ろまんちっく村へ行く人はいいが、ただこの道を通過するだけの人にとっては困りもの。手前には渋滞の案内もないし、知らずに行ったら大変なことになる。
 反対車線は高速道路から数珠つなぎとなっていた。
@寄り道コース
 ここまでは、ふだん誰でも一度は通ったこともあると思う。氏家から喜連川、小川町とありきたりの変化もない道を行くことに。ここからコースを外れて、湯津上村方面へ行ってみるのもいい。那須国造碑や水戸光圀が発掘したという侍塚古墳などもある。郷土博物館に寄ってみるのもいいだろう。みんな国道294号線沿いに沿ってあるので便利である。
@奥の細道
 黒羽町から芭蕉が奥の細道で長期滞在したことで有名な雲巖寺を通り、八溝山地を抜けるひなびた国道も情緒があっていい。
日本の田舎がそこにはある。藁屋根の家が道路まで張り出している、曲がりくねった細い道、奥の細道を彷彿させる。そのまま大子町へ抜けて袋田ノ滝まで〃寄り道〃してもいいし、また馬頭までもどり、御前岩を見学して、国道293へ戻るのもおすすめのコースだ。
 『御前岩』ってなんですかって、それはですね、行ってみてのお楽しみ。
 本当はこのルートを通るはずだったのだが、小川町でそのまま国道293を通ってしまった。 これはこれで、趣もありまたいいもの。
@道の駅
 馬頭から県境までは、田舎の風景がつづく。谷あいの集落に小さく広がる田畑。茨城県側に入って来てすぐ、美和村に最近あちこちで造られ始めている『道の駅』がある。目新しさもあるのだろうか、あるいは辺りになんの観光スポットもないためなのか、大勢の人で混んでいた。駐車場がない。ほとんど想定よりもたくさんの人が詰め掛けているのであろう。
 しかし取りたてては何もない。近代的な建物(ハコ)に、名産特産、焼きそば、アイスクリームどこにでもあるものばかり。美和村の独自性がないと思うのだが………。それはともかく、星空輝く、トイレだけはおもしろいですよ。(トイレにだけは行ってくださいネ。)@アリスの森は何処に

 この近くに、アリスの森というレジャースポットが地図上で目に付いたので、今回はそこを目玉にしようとやって来たのだが、行楽日和の休日だというのに閉鎖されている。たぶん、つぶれてしまったのだろうと思う。非常に残念だった。事前にいろいろ調べたのだが、どういう種類の観光スポットなのか分からなかったという経過もあって、期待をしていたのに………。

@幻の293

 しばらくすると市街地へ入っていた。

 ■海の予感

 大宮町から常陸太田市へ、もう海が近い感じがする。しかし、ここで旧道へ入ってしまったのか、道を間違えたのか、道が細くなってくる。それと同時に気持ちも心細くなる。巻頭の写真もあやふやながら、国道293のつもりで撮ったもの。
 やがて、国道の標識が見える。また元の道に戻ったのか、どうなのかほとんど確認ができなかった。国道245と交わる。ここが終点であろう。
 国道293は山道と丘陵地がほとんどで、ありふれた3桁の国道なのだろうけれど、終点は海となっていた。 さらに日立港の埠頭へ続く道を行くが、行き止まりとなっていた。これ以上先へは行けない。大海原だけが目の前に広がっていた。