原風景
何故か古い畳の匂いの中で目覚めた。ポーンと寒々しい頼りない空気に包まれている。
私は何者・・・と自問する。応えは返ってこない。そうして意識は失われた。
断片的に記憶が引き起こされる。そうして真空管ラジオが鳴っている。
「海は荒海 向こうは佐渡よ
すずめなけなけ もう日は暮れた
みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ」
楽曲が流れている。外は黄昏ている。
どうやら家族の気配があり、彼らは私をよく知っているようだが、私にはなんのことだか判らない。
突然こういうことが思い出される。
私が生まれたのは、昭和26年だから、大戦後、まだまだ日本は終戦後の混乱期の中にあり、日本中が無力感の中でもがいていた時期である。
職業軍人であった父は戦禍で命を落とすことはなかったが、もっと屈辱的な気持ちを味わっていた時期である。占領軍はことごとく理不尽であった。
なんでこんな理不尽な人間社会に生まれてきたのだと、どこかに訴えても何も返ってはこない。そもそもこの世は不公平そのもので、私は試されるために生まれ落ちてきたのではないかと思う。
神も仏もないのかよ!と無神的気持ちが心を覆い尽くしている。
私の家族は全て一神を教えにいただいているが、おいらは違う。無神論的ではないが、どちらかというと自然崇拝的なというか神道的な世界観がなんとなく居心地がいい。
だからと言ってことあるごとに神社にお参りするわけでもない。
しかし、何かにすがるというより、何かになんとなく背中支えてもらうというのがしっくりくる。要するに方法論は何でもいいのだがね。
たとえば、曽野綾子さんはカトリックの信者だが、極めて日本人的な精神性を持っているのにも関わらず。彼女はその著書の中で、こういった要旨のことを語っていたと思う。
極めて単純な言い方だが、「便宜的に神という存在を認めることで、自分は生きやすくなる」といった内容だったと思う。
要するに極めてポジティブな宗教観である。絶対的存在に隷属するのではなく生き延びていくための上手い乗り物に乗るということだと思う。
当然楽な道ではないし、苦労が多いことだよね。捉え方や理解の難解な時にうまく神を利用して乗り切ろうということかもしれない。
しかし、そこには当然、ある一定の生き方を求められる。
この世界的な荒んだ紛争や戦争を目の当たりにすると、まさに神様は何をやっている?仏様の救いはあるのか?世界のありとあらゆる絶対的な存在は・・・・ますます沈黙している。
結局、天上は我々に、「自分で解決しなさいと」いっているのではないかと思う。
しかしね、ここまで性根が腐った猿たちに何ができようかね。極めて、レ・ミゼラブルだね。そこでおいらにできることは、一日1日、とにかく正直に生き抜くことだと思っております。
嘘をつくなだとか、清廉潔白に生きることなんて考えてません。とにかく「明日を迎えられるように、ちょっとだけ努力する事」、そんなことしかできません。
今日は長文でした。最後まで見ていただいてありがとうございます。
今日は僕の好きな、ジョン・コルトレーンのMy one and only love です。