●多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。
○深くご恩を喜び、ありがたくいただきます。というものです。
ここでいう「多くのいのち」について考えさせられることがありました。
それは、夏休みに家族旅行をしている時でした。信号待ちで前を横切る一台のトラックがいました。このトラックの荷台には横長いガラスのない窓があって、そこからは隙間なくぎっしりと大きなブタが顔を出していたのです。20頭以上はいました。気持ちよさそうにブヒブヒと大合唱をしながら前を通りすぎていきました。それを見ていた子どもが私にいろいろ聞いてきました。「父ちゃん、あのブタは楽しそうだなぁ。どこか遠足に行くのかな?」年上の子どもがわかったように言います。「ブタが遠足に行くはずないよ。あれはどこかの動物園に行くんよ。」話はそれで終わりそうになったので、「あのブタさんはね。精肉工場というところに行って、殺されてブタ肉になるためにトラックに乗されてるんよ。別に遠足でも動物園でもないんよ。だからマルマル太ってただろう。」というとみんなシーンと黙ってしまいました。それから一ヶ月以上経つ今もその光景が頭をよぎります。ここに「多くのいのち」と明記していることは、私たちの食事はいかに多くのいのちをいただいているという事実を深く見つめるためにあるのです。また、現代社会では「いただきます」ということばをあまり耳にしなくなったのではないかということへの反省でもあります。たとえば、ごくわずかな人のことかもしれませんが、お金を払っているのだから「いただきます」と手を合わせる必要はないように考える人もいるようです。ややもすると私たちも「いただきます」ということばを慣習的に発しているだけになってしまってはいないでしょうか。そこに本当に感謝と慚愧の念がともなっているといいきれる人はどれほどいるでしょうか。ここに「多くのいのち」と明言することで、私たちの日々の食事は多くの動植物のいのちの犠牲の上に成り立っているのであり、そのいのちへ感謝と慚愧を明らかに示すことになります。私たちは多くの尊いいのちによって、今の自分が支えられている「おかげ」に気付くことでしょう。
また、学校の教育現場などでは「いのちの尊さを伝える教育」とは言いつつも、たんに「いのち」という抽象的なフレーズを繰り返すだけであったり、人間の生命の尊重のみに終わっているのが実状のようですね。日常の家庭の中で、動物や植物などの全てのいのちの尊さを実感する機会が求められているのだと思います。