
同じ番号

ゾロ目の番号

順番の番号
それぞれ考えておられます
・117
自治会役員を共にしてそれから親しくなったTさんのナンバーです
車入れ替えてもこの番号です
この数字は忘れられません
1月18日付けの朝日新聞山梨版に特集記事がありました
龍馬君の「命のバトン」つないで
犠牲者の名簿に龍馬の名前があった。1995年1月17日の夜、甲府市の小学校教諭だった跡部浩一さん(58)は
担当している6年の児童からの電話で教え子の死を知らされた。全力で駆け抜けた命があったことを忘れまいと
名前の一部をその年に生まれた我が子に使った。阪神淡路大震災が起きた日は特別な一日となった。
亡くなったのは兵庫県西宮市の小学校6年生だった新井本龍馬君(当時11) 跡部さんが甲府市立北新小に赴任し
担任となった4年2組で1学期に学級委員長を務めた児童だった。5年生になる前の93年、西宮に引っ越していった。
26年前のあの日は卒業式や中学受験の対応などに追われる慌ただしい一日だった。
夜、6年の児童が自宅に電話をかけてきた。4年生のときに龍馬君と同級生だった子供で「ニュースで見た」と
級友の死を伝えてきた。龍馬君は少年野球をしていていつもアスレチックスの野球帽をかぶった男の子だった。
「龍馬が死ぬわけはないだろう」信じられない思いで電話を切った。食い入るようにテレビを見続けた。翌18日
午前2時「新井本龍馬」の名前を見つけた。全身から力が抜けた。大きな揺れで自宅が全壊し、両親と兄、姉の家族
4人は無事だったが龍馬君だけ助からなかった。ショックは大きくそれから数週間は記憶がはっきりしない。子供たちの
前で笑顔を作れなかった。卒業式に向けて言葉を考えた。跡部さんは龍馬君を思う言葉を入れた。志半ばで倒れたともの
分まで与えられた命を精一杯生き抜いていきます。
震災の年の11月7日、跡部さんに息子が生まれた。数字の並びは震災の日と同じ「117」ふと思い立った。
「遼(りょう)」と名づけた。2018年に退職するまで毎年1月17日、学校で龍馬君や震災の話をし続けた。
龍馬君から託された命のバトンを、さまざまな形で受け継ぐ決意を伝えたかったからだ。
Tさんに聞いたら11月7日はご自分誕生日でした
大震災の日とは言えません
震災の時 寝屋川に居ました。 家内実家神戸垂水に水を持参するとき
倒壊した家屋に段ボールが吊ってありこの下に〇〇がいますと書いてあったのが
忘れられません