パート2では、ハリスンがプリンストラストコンサートで使用したスクワイアのストラトの型番特定に至る上で重要な事を中心に話しを進めたい。
熱心なギターフリークスにとっては型番特定が、最も興味がある事柄だとは思いますが、あくまでも商品ページとして記載している訳ではないので…「日本製ギターが世界的に認められる過程で重要だった歴史的な背景」から記述していきます。
予定ではPart4が完結予定なので、型番特定の核心部については、以降の更新をお待ち頂きたいと思う…
ジョージハリスン…ビートルズのリードギタリストとして知られているけれど、いわゆる稀代のメロディーメイカーとされるポールマッカートニーやジョンレノンの影に隠れた存在でもあったのは事実だ。
ポールマッカートニーを最重要メンバーと考えるのは自然な事だし、いわゆるロックというジャンルを超えたポップス要素とも言えるキラーメロディを生み出す才能が、ビートルズを「単なるロックバンドという解釈」以上の存在にまで高めていた…
では?僕等のように…人生のどこかのタイミングでロックに心を奪われ、サラリーマンなんて生き方はしたくない!と考えた自分のようなギターフリークス、ミュージシャンやギタリストにとって…
いや、もっと砕けた言い方をするならギターを愛する人達にとっては、おそらくジョンレノンより遥かに魅力的なのがジョージハリスンではないだろうか?
ビートルズのメンバー内では最年少ながら、最も積極的に外部の実力派ミュージシャンとの交流を深め、既にビッグネームになった後でも…ギター演奏技術の向上を含めた「永遠のギター少年要素」を唯一持っていたビートルズメンバー…だと筆者は考えている。
だからこそ、ジョンレノンが使用したリッケンバッカーの325のようなギターでは、演奏技術が向上すればするほど…ジョージハリスンには求めるべきギターが変わっていくのは当然な事だ。
親交を深めたエリッククラプトンから譲り受けたギブソンレスポールや、ブレイク以前のセミプロ時代には関税がかなりかかり、高価で買えなかったフェンダーストラトキャスターをビートルズのブレイク後にジョンレノンの分と2本をオーダーしたのもジョージだ。
そしてビートルズ史上、最も重要と呼ばれる通称ホワイトアルバムは2枚組のLPとして発売される。
ところがプロモーションビデオ等はあくまでもイメージ的なものが製作されてしまう為、いわゆるアイドル的な見方をするロックファンからは、良い子ビートルズ、悪い子ストーンズと称され…ロッカー気取りをしたいキッズは、やはりローリングストーンズ派を自称するようになる。
かく言う筆者も中学生時代は、完全なるストーンズ派であったし、青臭かった当時にはビートルズの演奏力や偉大さに気づいてはいなかった…
ただ、自分の耳は間違えてなかった…と後年痛感したのは、自分自身が中学生時代にバンドを結成しようと動き、かつ仲間内の同級生達で語るロック談義の中で、自分はこう回答していた。
「ビートルズの中で一番好きな曲はWhile My Guitar Gently Weepsかな。ギターソロが素晴らしいし…」と。
その時点での浅い知識では、まさかビートルズの曲でエリッククラプトンがソロを弾いてるとは思いもせずに…
そして、やや本題とは逸れるが…中学2年生の段階で筆者が所有していたのは、新井薬師商店街にあったレコード屋の軒先で買った、当時1万円のヤマハのアコースティックギター。いわゆる通称フォークギターしか買えなかった。
かなり無理があったとは思うが、ヤマハのアコギでコードを覚えるのと同時に、ヤマハのアコギでディープパープルのスモークオンザウォーターなどをコピーしていた。
「あれ?この先は弾けないじゃないか?アコギじゃさ…」
14歳になっていた自分は、なんとしてもエレキギターを手にしようと誓った。
一般階級から育って…後に世界的な名声を得たギタリストは少なくないけど?
エリッククラプトン、リッチーブラックモアがそうだったように…
元からかなり恵まれた貴族階級に近いような富裕層出身のクイーンより、僕等が夢見るべき存在だったギタリストには一貫性があった…
そして15歳の冬…ようやく念願のエレキギターを購入する。
新宿にあったKeyで、白いグレコのストラトキャスタータイプ、SE-600とローランドのBOLT-30と言うギターアンプを新品で購入した。
(1980年グレコカタログ。筆者が購入したのは左端のSE-600の白。当時定価6万円は、15歳の少年が「東海汽船の船に氷を積む仕事」で得たアルバイト代2年分(アンプ含めた予算10万)だ。たまたま母とは既に別居状態だった実の父がやっていた仕事を夏休みに手伝った。もちろん実質母子家庭ではあったものの、自分だけは親父とこの仕事を通じて報酬を得る…と言う繋がりがあった。)
二年がかりで夏休みにバイトして貯めた10万円はこのギターとアンプでほぼ消えた。
4万で若干のお釣りしかなかったローランドのギターアンプBOLT-30
初心者が買うギターアンプが真空管アンプと言う時代。あんまり歪まないなぁ…と嘆いていた当時の自分は、必死にギター雑誌を読み漁った。
ヤングギター誌に掲載されていた山本恭司さんのアンプセッティングを参考にしたり…
そうか?この音量でドライブサウンドを得るにはエフェクターが必要なんだな。と気づくことになるのだが…今では高騰しているエフェクターでさえ、5000円程度で買えたのだから…僕等は耳も鍛えられたのだろう。
良い音の基準には個人差があります…
こんな記載がヤフオク等で散見される度に違うんじゃない?とすら思う。
僕等の時代に生きた数々のトップギタリストが選んだ機材と、アマチュアのギターマニアが垂れる能書きと…
自分はどちらを信じるかと言われたら、答えは明確だ。
自分は現代の若い人に媚びるつもりは一切ないし、歴史に逆らうつもりもない。
そして…まさかの日本製グレコが後にフェンダージャパンになるとは…17歳のその時点では全く想像していなかった。
1987年製スクワイアバイフェンダーストラトキャスターと…現代の新品20万くらいのギター…間違いなく自分が選ぶのはこの1987年製スクワイアバイフェンダーである。
1982年…フェンダージャパン発売。
まさかのグレコはフェンダー名義となる。
高校2年生になっていたし、バンド活動は軌道に乗っていたのに…当時はとても悔しかった。フェンダージャパンにも6万円くらいのギターがラインナップされていたからだ。
ヘッドに記載されたグレコロゴを見るたびに悲しくなっていた。
そう…17歳の少年はまだ、グレコギターがフェンダージャパンになった事など知らなかったしフジゲン楽器どうこうなんて情報すら知らなかった。
無理もない話しだ…
でもまさか…ジョージハリスンが手にした日本製スクワイアバイフェンダーのストラトキャスターと、自分が所有していた1980年製グレコSE-600は、限りなく近いギターだった事に気づくのは…ギタリストとしてプロになる事を諦め、楽器業界に転職をしよう!と決意した32歳を過ぎてから…のことだ。
日本製ギターが爆発的な売り上げを実現した1980年代に重要だった社会的背景とは…
富裕層や良いとこのお坊ちゃんでもない限りは買えなかったギブソン、フェンダー、マーチンと言うアメリカ製のブランドが、OEM生産として日本の楽器製造工場を選び、「頑張れば買える!」価格帯で売り出したにも関わらず、現代のような「安かろう悪かろう」なギターではなかった事が最重要事項だと思う。
あのジョージハリスンが「音の良さに驚き、息子ダーニに買い与えたギターを取り上げてプリンストラストコンサートで使用した事実」が、ジャパンヴィンテージと呼ばれている時代の日本製ギターのクォリティを象徴している。( この部分はパート1のリンク動画等をご覧下さい。)
ジャパンヴィンテージとは、決して楽器屋が仕掛けただけの企画だけで、ここまで世界的に認められた訳ではない。
2024年現在、当時定価は意味をなさないのは当然だと筆者は考えている。
そして僕等の中学〜高校時代…後に世に出る楽曲を、野方駅近くの花屋の息子がバンド活動のドラマーでもあり、ソングライティング的な中心が彼だった。
彼と自分はバンド活動の為に、中野区の公立中学から千代田区の私立高校に進学する。たった二人しかいない中野公立中学出身の親友と呼ぶべきバンドメイト…ナオトと「あーでもない、こーでもない!」とか言いながらリハしていた楽曲をパート2の最後に紹介しよう。
もちろんナオトも自分も、自分らが立ち上げたバンドが、後にメジャーデビューを果たした…遥か以前の初心者時代に、試行錯誤しながら楽曲を作ったり、演奏技術向上の為に時間を惜しみなく注いでいた…
それが原点だ。
後にこの楽曲が世に出て、未だに一定数のロックファンに愛されている事が嬉しい…
パート3に続く
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