キョンシー太郎の日誌

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1980年代後半からの株式投資の裏

2024-10-15 11:43:00 | 日記
〜手形割引〜
1980年代になっての株式市場、
それは第二次オイルショックとかいろいろあって、とってもとっても就職難。
普通に私学なんていっても、面接はいつも最終で落とされる。結局コネかよ〜。
いじけたわたし。当時は証券会社とホームセンター事業に進出しようとしていたトーヨーサッシくらい、、100人200人と、採用ワクゆるゆる。。
まあ、これからは金融と、証券の道へ、、
これは、わたしの人生において、、
いまとなっては最大の失敗😱😱
当時は日経平均、当時は日経ダウと呼んでました。10,000円きってるやん🥶
当時は加藤晃氏率いる誠備グループというところが仕手戦で無茶苦茶したあとでした。宮地鉄工しかり、宮入バルブしかり、
4,000円くらいいった株が軒並み100円。
いったい、、、
こんなとき、私たち新人は端株整理といって、増資でらふえた端数の株のリスト、当時は個人情報もへったくれもありませんでした。お前らこのリストやるから客とってこ〜い。。
わたしはあのとき、下町の小岩あたりを開拓。
ある肉屋の親父には水かけられそうに。
株屋は消えろ、くるんじゃね〜よ。
ある質屋の親父は金先物でボロボロに
3,000円くらいでなんか3分の1原引きして塩漬けとのこと。
ある客は商品取引でゴム、、めちゃめちゃふえて、3,000万になったあと、営業にダマテンされ、すべてなくなる。クレームいれてものらりくらり、怒ってる人。
たいがいろくでもないリストでした。😔
当時は機関投資家なんて、たぶんありません。当時は公募増資の株でさえ大損するありさま。
私も7202円の新規公開株、大和真空をお客様用にもらったのですが、なんと、
初値ミクは2,000円、、やられた〜
あの当時は唯一、転換社債は確実でした。
いわゆる機関投資家に対して、
バーター商売がなりたっていました。
転換社債300万で1億、中期国債ファンドって感じ、、わたしも、N信託を開拓しました。ん?なんできたん?こんなん初めて、、とかいわれ、当時はえっ銀行に営業?敵ちゃうん?こんな感じでしたけど、、こうして、各金融機関の各担当者は投資に前向きとなっていったのです。
ひどいのには、担当者個人に転換社債、その金融期間には社債だけとか、、
これって、背任横領に近いかも😱😱😱
まあ、こんな状況をへて、NTTの新規上場へと、、このころには普通の一般金融機関だけでなく、サラ金業者、また、手形割引金融会社なども、雪崩を打って参入していました。わたしもう神田にあったニビル(仮名)と付き合い。
この取引は、、、というと、、
約定日から4日目(3日後)夕方4時すぎに現物の株券が手に入り、それから神田まで電車でGO!そして株券をわたす、そして現金うけとり、本来ならそれで取引終了なんですが、手形割引業者はとってもリスク管理ができてます。万一株券が偽物だったり、盗品だったりといった事故にあったとかかのことを考え、白地手形を切ることになります。株券時価評価で9割の現金わたしですが本来なら金額をガッチャン、がっちゃんするんですが、当日引けの値段もいろいろ変わるので、金額なし、期日なしの手形に署名捺印、、これ、白地手形です。
反対売買で売却の際はもちろん株券渡して手形は返してもらって、その場でビリビリ。こんなんでした。。
いまはホフリ制度とか株券が登録製で現物株がなくなっていますが、
今もまだある手形割引のニビルさん(仮名)いったいどうしてるんでしょう。
まさか、預かり証と白地手形でやってるのかな?う〜ん、明治時代くらいから続く由緒正しい手形割引がそんなリスク犯すかな?
ま〜そんなの関係ね〜、そんなの関係ね〜

今日は手形割引業者の証券市場での役割、でした。
またね!

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