ラブが行く!

家族と自分自身のための、愛犬ラブの平凡な日々の記録
2代目ララとの日々

ラブが与えてくれたもの

2016-01-08 13:26:31 | 
2000年9月15日の敬老の日、

我が家へやって来たラブ。

小雨の日だった。

ラブ兄とワタシの二人でペットショップへお迎えに行った。

帰宅すると玄関で、パパゴンとラブ姉が迎えてくれた。

「ワンちゃん、来たよ~!」

の自分の台詞までよく覚えている。

家族皆、ニコニコ顔だったなあ。

パパゴンはラブ兄に、「名前を決めてやらないとな」と言った。






それから15年余、

毎日一緒に歩いたラブの足。









本当にたくさん歩いた。

季節を深く感じることができた。

春の風。夏の声。木々のささやき。北風の冷たさ。

雨の匂い。雪の暖かさ。。。

毎日毎日のラブとのお散歩は、

時に、イヤなことがあった日でもそれを和らげてくれたし、

私にとっては、貴重な時間だった。

たまにパパゴンが散歩に行こうとすると、

私の最大の楽しみを取らないで! と言ったこともあったっけ。

もちろん、ラブによる時間の制約はいつもあった。

夕方5時には帰らないと、お散歩待ってる、、

と、外出していても常に帰宅時間を気にしていたし、

ラブを残して友人と温泉に行くなんてことも出来なかった。

でも、そんなことはどうでもよかった。

ラブがいて、決まった時間にお散歩して、ご飯食べさせて、

いつしかそれが当たり前の、最優先のことになっていたから。



ラブが長く生きてくれたおかげで、

犬友も沢山できたなあ。

ラブがいなければ、挨拶を交わすこともなかった人たちが、

とても大切な友人になった。

その友人たちには数えきれないくらいお世話になったなあ。

自分はその恩返しができているのか、、と思うほど、

一方的にお世話になっている人も沢山いるよね。



そして、ラブの最大の功績は、

ラブ兄を獣医師にしたことだよね。

何年も待ち望んだワンコを許されたのが、中学2年生の時だったね。

親って子供に夢を抱くよね。

私の息子への夢は、建築士・設計士だったのよ。

中学3年生になったころ、何気に「こんな職業どう?!」

とぶつけたところ、

「お母さん、自分はモノを3次元で考えるのは苦手なんだ。

だから絶対に無理だよ」

と、、、

息子が小さいときから描いていた母の夢は、あっさりと切り捨てられた。

そして、自分は獣医師になる、と言ったんだっけ。


迂用曲折あったけど、息子は夢を実現した。

ラブが授けてくれた職業だね。

ラブがいなければ、獣医師になるなんて思いもしなかったはず。

そして、長生きしたラブは、

最後はラブ兄のウデを確かめてるようだった。

日々変わる病状。

私は毎日息子と電話でやり取りし、

指定された薬を近所の獣医さんにお願いして処方してもらい、

皮膚の様子は画像を送り、適切な処置方法を教えてもらった。

次に起こるかもしれない状況を教えてもらい、

家族みんなで必死にラブと向き合った。

「極悪」のレッテルが張られた病名で、

ラブを助けることは出来なかったけど、

息子の存在は私たち家族にとってとても有難かった。

息子は、自分が飼いたいといって我が家にやってきたラブだったので、

いつも電話の最後に、「すいません。(ラブを)よろしくお願いします」

と言っていた。

遠くにいて直接診れないもどかしさがあったのでしょう。

でも、私もパパゴンも、そして頻繁に来てくれてサポートしてくれたラブ姉も、

みんな 「ラブは我が家のラブ」と思っていたので、

「すいません」なんて言葉は不要だったよ。




いろんなこと思いだすと、すぐに涙が出ます。

パパゴンはため息ばかりついてます。

15まで生きたら十分でしょう、、と思う人も多いかもしれないけど、

家族にとってはかけがえのないラブだったので、

子供たちにとっては、人生の半分をラブと暮らし、

私たち夫婦にとっては、結婚生活の半分をラブと暮らしてきたので、

私にとっては「次男」だったので、

心に大きな穴が開きました。



時間が必要ですね。






亡くなる前日、1月3日

午後4時過ぎに外でシッコをして、オヤツもたくさん食べました。

まだまだ大丈夫と思っていたけど、

苦しかったんだね、、、痛かったんだね、、、

助けてあげられなくてごめんね。