2000年9月15日の敬老の日、
我が家へやって来たラブ。
小雨の日だった。
ラブ兄とワタシの二人でペットショップへお迎えに行った。
帰宅すると玄関で、パパゴンとラブ姉が迎えてくれた。
「ワンちゃん、来たよ~!」
の自分の台詞までよく覚えている。
家族皆、ニコニコ顔だったなあ。
パパゴンはラブ兄に、「名前を決めてやらないとな」と言った。
それから15年余、
毎日一緒に歩いたラブの足。
本当にたくさん歩いた。
季節を深く感じることができた。
春の風。夏の声。木々のささやき。北風の冷たさ。
雨の匂い。雪の暖かさ。。。
毎日毎日のラブとのお散歩は、
時に、イヤなことがあった日でもそれを和らげてくれたし、
私にとっては、貴重な時間だった。
たまにパパゴンが散歩に行こうとすると、
私の最大の楽しみを取らないで! と言ったこともあったっけ。
もちろん、ラブによる時間の制約はいつもあった。
夕方5時には帰らないと、お散歩待ってる、、
と、外出していても常に帰宅時間を気にしていたし、
ラブを残して友人と温泉に行くなんてことも出来なかった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
ラブがいて、決まった時間にお散歩して、ご飯食べさせて、
いつしかそれが当たり前の、最優先のことになっていたから。
ラブが長く生きてくれたおかげで、
犬友も沢山できたなあ。
ラブがいなければ、挨拶を交わすこともなかった人たちが、
とても大切な友人になった。
その友人たちには数えきれないくらいお世話になったなあ。
自分はその恩返しができているのか、、と思うほど、
一方的にお世話になっている人も沢山いるよね。
そして、ラブの最大の功績は、
ラブ兄を獣医師にしたことだよね。
何年も待ち望んだワンコを許されたのが、中学2年生の時だったね。
親って子供に夢を抱くよね。
私の息子への夢は、建築士・設計士だったのよ。
中学3年生になったころ、何気に「こんな職業どう?!」
とぶつけたところ、
「お母さん、自分はモノを3次元で考えるのは苦手なんだ。
だから絶対に無理だよ」
と、、、
息子が小さいときから描いていた母の夢は、あっさりと切り捨てられた。
そして、自分は獣医師になる、と言ったんだっけ。
迂用曲折あったけど、息子は夢を実現した。
ラブが授けてくれた職業だね。
ラブがいなければ、獣医師になるなんて思いもしなかったはず。
そして、長生きしたラブは、
最後はラブ兄のウデを確かめてるようだった。
日々変わる病状。
私は毎日息子と電話でやり取りし、
指定された薬を近所の獣医さんにお願いして処方してもらい、
皮膚の様子は画像を送り、適切な処置方法を教えてもらった。
次に起こるかもしれない状況を教えてもらい、
家族みんなで必死にラブと向き合った。
「極悪」のレッテルが張られた病名で、
ラブを助けることは出来なかったけど、
息子の存在は私たち家族にとってとても有難かった。
息子は、自分が飼いたいといって我が家にやってきたラブだったので、
いつも電話の最後に、「すいません。(ラブを)よろしくお願いします」
と言っていた。
遠くにいて直接診れないもどかしさがあったのでしょう。
でも、私もパパゴンも、そして頻繁に来てくれてサポートしてくれたラブ姉も、
みんな 「ラブは我が家のラブ」と思っていたので、
「すいません」なんて言葉は不要だったよ。
いろんなこと思いだすと、すぐに涙が出ます。
パパゴンはため息ばかりついてます。
15まで生きたら十分でしょう、、と思う人も多いかもしれないけど、
家族にとってはかけがえのないラブだったので、
子供たちにとっては、人生の半分をラブと暮らし、
私たち夫婦にとっては、結婚生活の半分をラブと暮らしてきたので、
私にとっては「次男」だったので、
心に大きな穴が開きました。
時間が必要ですね。
亡くなる前日、1月3日
午後4時過ぎに外でシッコをして、オヤツもたくさん食べました。
まだまだ大丈夫と思っていたけど、
苦しかったんだね、、、痛かったんだね、、、
助けてあげられなくてごめんね。
我が家へやって来たラブ。
小雨の日だった。
ラブ兄とワタシの二人でペットショップへお迎えに行った。
帰宅すると玄関で、パパゴンとラブ姉が迎えてくれた。
「ワンちゃん、来たよ~!」
の自分の台詞までよく覚えている。
家族皆、ニコニコ顔だったなあ。
パパゴンはラブ兄に、「名前を決めてやらないとな」と言った。
それから15年余、
毎日一緒に歩いたラブの足。
本当にたくさん歩いた。
季節を深く感じることができた。
春の風。夏の声。木々のささやき。北風の冷たさ。
雨の匂い。雪の暖かさ。。。
毎日毎日のラブとのお散歩は、
時に、イヤなことがあった日でもそれを和らげてくれたし、
私にとっては、貴重な時間だった。
たまにパパゴンが散歩に行こうとすると、
私の最大の楽しみを取らないで! と言ったこともあったっけ。
もちろん、ラブによる時間の制約はいつもあった。
夕方5時には帰らないと、お散歩待ってる、、
と、外出していても常に帰宅時間を気にしていたし、
ラブを残して友人と温泉に行くなんてことも出来なかった。
でも、そんなことはどうでもよかった。
ラブがいて、決まった時間にお散歩して、ご飯食べさせて、
いつしかそれが当たり前の、最優先のことになっていたから。
ラブが長く生きてくれたおかげで、
犬友も沢山できたなあ。
ラブがいなければ、挨拶を交わすこともなかった人たちが、
とても大切な友人になった。
その友人たちには数えきれないくらいお世話になったなあ。
自分はその恩返しができているのか、、と思うほど、
一方的にお世話になっている人も沢山いるよね。
そして、ラブの最大の功績は、
ラブ兄を獣医師にしたことだよね。
何年も待ち望んだワンコを許されたのが、中学2年生の時だったね。
親って子供に夢を抱くよね。
私の息子への夢は、建築士・設計士だったのよ。
中学3年生になったころ、何気に「こんな職業どう?!」
とぶつけたところ、
「お母さん、自分はモノを3次元で考えるのは苦手なんだ。
だから絶対に無理だよ」
と、、、
息子が小さいときから描いていた母の夢は、あっさりと切り捨てられた。
そして、自分は獣医師になる、と言ったんだっけ。
迂用曲折あったけど、息子は夢を実現した。
ラブが授けてくれた職業だね。
ラブがいなければ、獣医師になるなんて思いもしなかったはず。
そして、長生きしたラブは、
最後はラブ兄のウデを確かめてるようだった。
日々変わる病状。
私は毎日息子と電話でやり取りし、
指定された薬を近所の獣医さんにお願いして処方してもらい、
皮膚の様子は画像を送り、適切な処置方法を教えてもらった。
次に起こるかもしれない状況を教えてもらい、
家族みんなで必死にラブと向き合った。
「極悪」のレッテルが張られた病名で、
ラブを助けることは出来なかったけど、
息子の存在は私たち家族にとってとても有難かった。
息子は、自分が飼いたいといって我が家にやってきたラブだったので、
いつも電話の最後に、「すいません。(ラブを)よろしくお願いします」
と言っていた。
遠くにいて直接診れないもどかしさがあったのでしょう。
でも、私もパパゴンも、そして頻繁に来てくれてサポートしてくれたラブ姉も、
みんな 「ラブは我が家のラブ」と思っていたので、
「すいません」なんて言葉は不要だったよ。
いろんなこと思いだすと、すぐに涙が出ます。
パパゴンはため息ばかりついてます。
15まで生きたら十分でしょう、、と思う人も多いかもしれないけど、
家族にとってはかけがえのないラブだったので、
子供たちにとっては、人生の半分をラブと暮らし、
私たち夫婦にとっては、結婚生活の半分をラブと暮らしてきたので、
私にとっては「次男」だったので、
心に大きな穴が開きました。
時間が必要ですね。
亡くなる前日、1月3日
午後4時過ぎに外でシッコをして、オヤツもたくさん食べました。
まだまだ大丈夫と思っていたけど、
苦しかったんだね、、、痛かったんだね、、、
助けてあげられなくてごめんね。