なかなか実家へ行けず、お墓参りもままならず、、ですが、
お彼岸なので、久しぶりに母のことを想い、
書いてみようと思います。
突然ですが、
皆様は食に対する欲が強い方ですか? そうでもありませんか?
つまり、、美味しいモノ食べたい!という食いしん坊さんですか?
これって育った環境で変わるものでしょうかね?
我が家でいうと、、
夫は常に美味しいものへの欲があり、
お高い外食には興味ありませんが、家で、いかに美味しく食べるかへの追求があります。
だから料理センスは私よりもずっと上!
そして、自らキッチンに立ちます。
私は、、あまり食に対する欲求がないんですよね~
まあまあでお腹が満たされればいい、、派なのです。
美味しいの基準、味覚は人それぞれでしょうから、
まあ、自分の口に合えば充分です。
もちろん、時には外で美味しいプロの味が食べたいなあ、、とも思いますが。
育った環境といえば、父は食いしん坊、母は家族に食べさせるという義務感で作っていた感はありました。
こうしてみると、一般的にお酒を飲む人のほうが食いしん坊なのかな~?
ただ、母については考えられる理由がありました。
まだ私が4歳の頃で、ほんの一部しか記憶がないのですが、
まだ昭和30年代のことですが、
母は交通事故に遭いました。
朝、田舎の最寄り駅前の県道をバイクで走行中、
電車に乗り遅れそうという若者の、脇道から一旦停止せずに猛スピードで出てきたオートバイと衝突。
母は大きく投げ出されました。そして、顔面から道路に叩きつけられたそうです。
当時はまだ、救急車も無かったのか、
駅前のタクシー会社に頼んで、
父の膝に抱かれた母は、隣町の病院へ運ばれました。
県道とはいえまだ砂利道で、車が揺れるたびに顔面、頭部からシャワーのように血が噴き出し、
父は、なるべくゆっくり走ってほしいとお願いしたそうですが
運転手さんにしたら、自分の車の中で死なれたらたまらない、、との思いが強かったんだろうな~
と、父は話していました。
かなりのスピードで砂利道を走ったそうです。
昭和30年代、当然今の医学とはかけ離れ、
ただ、外傷を覆い、光の入らない黒いカーテンの病室に寝かされ、
自力での回復力に期待するしかなかったようです。
当時母は30か31歳。
私の記憶は、しばらく経ってからお見舞いに行った暗い病室、
母の側に立っていたことぐらいで、
この記憶さえももしかしたら、後に父母から聞かされた話で出来上がったのかもしれません。
意識不明の日々が続いた母。
この時の母は、、
自分がどこの病院に居るっていうのがわかっていて、
そして、その町にある自分が知っているお寺の鐘の音が、耳のすぐそばで大音響で鳴り響いていたそうです。
そして、なぜこんなにお寺の鐘の音が大きく鳴り響いているんだろう、、と思っていたそうです。
回復とともにだんだんとその鐘の音が小さくなっていった、と話していました。
2、3ヶ月入院していたと思います。
母は奇跡的に助かったのです。
半分以上、あちらの世界に足を踏み入れていたのでしょうね。
この話を母に聞いた時、間違いなくあちらの世界があるんだ、と思ったことを覚えています。
顔面から落ちたから助かった、後頭部からだったら間違いなく命を落としていただろう、、ということでした。
命拾いをした代わりに、色々なものを失いました。
2歳年上の兄は、あの事故で母の顔は変わった、、と言っていました。
前歯はほとんで折れて、私が物心ついた時にはもう部分入れ歯の母でした。
そして、鼻の骨も折れて、
母は嗅覚を失いました。
私が小学生のころは、冷蔵庫のお肉を取り出しては、
必ず私に臭いチェックを頼んでいました。
嗅覚が無くて食欲がわくはずありませんよね。。。
大人になってから初めて気付きました。
あの時母が亡くなっていたら、私や兄弟の人生は全然違うものだったとも思います。
何十年も経ち、晩年には少しは臭いがわかったようでしたが、
そういう弱みを一切表に出さない人だったなあ。
今は、時々父母に神頼みしちゃってます。
自分は今まで、大病も大怪我もなくきたけど、
兄弟は歳の順に順番でね。
お願いします。
お彼岸なので、久しぶりに母のことを想い、
書いてみようと思います。
突然ですが、
皆様は食に対する欲が強い方ですか? そうでもありませんか?
つまり、、美味しいモノ食べたい!という食いしん坊さんですか?
これって育った環境で変わるものでしょうかね?
我が家でいうと、、
夫は常に美味しいものへの欲があり、
お高い外食には興味ありませんが、家で、いかに美味しく食べるかへの追求があります。
だから料理センスは私よりもずっと上!
そして、自らキッチンに立ちます。
私は、、あまり食に対する欲求がないんですよね~
まあまあでお腹が満たされればいい、、派なのです。
美味しいの基準、味覚は人それぞれでしょうから、
まあ、自分の口に合えば充分です。
もちろん、時には外で美味しいプロの味が食べたいなあ、、とも思いますが。
育った環境といえば、父は食いしん坊、母は家族に食べさせるという義務感で作っていた感はありました。
こうしてみると、一般的にお酒を飲む人のほうが食いしん坊なのかな~?
ただ、母については考えられる理由がありました。
まだ私が4歳の頃で、ほんの一部しか記憶がないのですが、
まだ昭和30年代のことですが、
母は交通事故に遭いました。
朝、田舎の最寄り駅前の県道をバイクで走行中、
電車に乗り遅れそうという若者の、脇道から一旦停止せずに猛スピードで出てきたオートバイと衝突。
母は大きく投げ出されました。そして、顔面から道路に叩きつけられたそうです。
当時はまだ、救急車も無かったのか、
駅前のタクシー会社に頼んで、
父の膝に抱かれた母は、隣町の病院へ運ばれました。
県道とはいえまだ砂利道で、車が揺れるたびに顔面、頭部からシャワーのように血が噴き出し、
父は、なるべくゆっくり走ってほしいとお願いしたそうですが
運転手さんにしたら、自分の車の中で死なれたらたまらない、、との思いが強かったんだろうな~
と、父は話していました。
かなりのスピードで砂利道を走ったそうです。
昭和30年代、当然今の医学とはかけ離れ、
ただ、外傷を覆い、光の入らない黒いカーテンの病室に寝かされ、
自力での回復力に期待するしかなかったようです。
当時母は30か31歳。
私の記憶は、しばらく経ってからお見舞いに行った暗い病室、
母の側に立っていたことぐらいで、
この記憶さえももしかしたら、後に父母から聞かされた話で出来上がったのかもしれません。
意識不明の日々が続いた母。
この時の母は、、
自分がどこの病院に居るっていうのがわかっていて、
そして、その町にある自分が知っているお寺の鐘の音が、耳のすぐそばで大音響で鳴り響いていたそうです。
そして、なぜこんなにお寺の鐘の音が大きく鳴り響いているんだろう、、と思っていたそうです。
回復とともにだんだんとその鐘の音が小さくなっていった、と話していました。
2、3ヶ月入院していたと思います。
母は奇跡的に助かったのです。
半分以上、あちらの世界に足を踏み入れていたのでしょうね。
この話を母に聞いた時、間違いなくあちらの世界があるんだ、と思ったことを覚えています。
顔面から落ちたから助かった、後頭部からだったら間違いなく命を落としていただろう、、ということでした。
命拾いをした代わりに、色々なものを失いました。
2歳年上の兄は、あの事故で母の顔は変わった、、と言っていました。
前歯はほとんで折れて、私が物心ついた時にはもう部分入れ歯の母でした。
そして、鼻の骨も折れて、
母は嗅覚を失いました。
私が小学生のころは、冷蔵庫のお肉を取り出しては、
必ず私に臭いチェックを頼んでいました。
嗅覚が無くて食欲がわくはずありませんよね。。。
大人になってから初めて気付きました。
あの時母が亡くなっていたら、私や兄弟の人生は全然違うものだったとも思います。
何十年も経ち、晩年には少しは臭いがわかったようでしたが、
そういう弱みを一切表に出さない人だったなあ。
今は、時々父母に神頼みしちゃってます。
自分は今まで、大病も大怪我もなくきたけど、
兄弟は歳の順に順番でね。
お願いします。