五ケ条の御誓文の中に「万機公論に決すべし」と宣らせ給うた御聖言がある。公論とは決して多数者の議論ではない。多数者の議論は所謂衆論又は多数論である。公論はどこ迄も公論であつてたとへ一人又は少数者の議論と雖も、公明正大にして其至誠天に通ずる程の議論を指して公論と云ふのである。
然るに現今の議会などは多数決をもつて上乗のものとなし、それを公論と心得て居るからたまらない。世の中は古今東西を問はず、賢者が少くて愚者が多い、故に多数論は衆愚論である。かういふ事では、いつになつても天下に公道は行はれない。識者の中には、今日の衆愚政治の惨状を憂慮するのあまり英雄待望論を著したり、英雄生活を希求する傾向を生じて来てゐるのも、自然の成行だと思ふ。
教育勅語の中に「国を肇むる事宏遠に徳を樹つる事深厚なり」と宣らせられてある。我国は天地開闢の初めに当つて天祖統を垂れ、皇祖国を開き、天壌無窮の国体をお開きになつたのであつて、僅に三千年や五千年の新しい国家ではない。遠く紀元を百三十万年の昔に発して居るのである。又「徳を樹つる事深厚なり」と宣らせたまふたのは、道学者の云ふやうな、浅薄な道徳の徳ではない。徳とは、万世一系の皇祚〔皇祖〕をさし、大君が高御座にのぼらせたまひて、神聖不可犯の御稜威を輝かせたまふ謂ひである。
我国は陛下の御稜威によつて国は開け且治まり、民は安らかに業を楽しむ事が出来るのである。故に徳主法従の神国といふのである。
出口王仁三郎