国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

神話と天使

2019年10月31日 | 歴史仮説

 出口王仁三郎によれば、人間と同じ形態の異星人は存在しないという。

 すると、天使や神々という存在は宇宙人ではなく、いわば神界、幽界の異次元人ということになる。
 天使や神は神道でいう幽とよばれる異次元の世界にいると考えられている。

 太古はこの異次元とこの世界の次元が近く、比較的容易に行き来できたといわれている。

 この世界は異次元の存在が先にあり、そこから幾柱かの神々が受肉し、その後人が作り出された。

 つまり最初は神人がこの世に肉体をもって現われ。これが、いうところの肉体をもった天使であり、人間に先だって何柱も生み出されたというのである。

 それからつぎにアダムとイブの神話にみられるようにこの世界で創造された存在もあるらしく、これは土ではなく木から生み出されと出口王仁三郎は書いている。これらの人間は先の天使人類より性質、能力において劣るらしい。

 異次元から肉体をもって現れた神々は、木から創造したアダル彦エバ姫らのような人間と交配ができたらしく、のちにいわゆる混合種も産み出されたという。このあたりはなんともグロい話である。

 宇宙人か超古代人が自分の遺伝子クローンを作りそれと交わって繁殖したというSFがあるが、にたようなもので、宇宙人を異次元の天使と言い換えれば想像できるのではなかろうか。

 聖書の人間がつくられた時期のおいては、すでにたくさんの天使人類が存在していた、創世記で神が複数で語られているのは、天使が数にはいっているからである。

 霊界物語を見ると、最初の神々は天地創造の厳かな神々が語られているが、途中から邪気が発生して、神々の戦争が延々と続く。

 これが太古現界の神話なのか、神の世界つまり幽の世界の争いなのかはっきりとわからなくなってくる。霊界物語自体が現実の出来事の描写なのか、過去の出来事の描写なのかわからなくなることがある。

 話をとばしたり、ぼかしてある部分がある。

 神々も戦争をするとすれば、人間よりも優れているとはいいがたい面もあるということではなかろうか。

 聖書学?からみると神々の戦争の大きなものはルシファーという知の天使、光の天使の堕落である。これがイブを誘惑した蛇の正体イブリス、サタンらしいが、人間の堕落は蛇となったルシファーのせいである。

 このくだりは霊界物語の76巻あたりに、パレスチンの伝説として、イブリスという悪魔が人間の創造に嫉妬して、蛇の形をとってイブを誘惑したとして載せてある。

 この伝説ではアダムに先だってリリスという妻が存在したが、アダムに従わずに、イブリス=サタンに仕えて悪魔を増やしたという説が書いてある。こうした説は想像の産物として断ってある。

 しかしながら、古代人が創作したものとしても示唆にとんでいる部分もある。

 霊界物語では、世界の混乱のもともとの原因は人間のせいではなく、女神天使の不倫のせいとなっているところもある。

 夫神が失踪している間に妻神が、不倫したため、一夫一婦の天則をやぶった。天界のリーダーたる女神が、それをやってしまったので、世が乱れたというのである。

 幽の世界の混乱がうつし世である現界にあらわれているとしたら、原因は人間の堕落に先だって神々が堕落したのが原因ということになる。

 したがって大本では原罪説をとらない。女神の浮気である。男神の浮気は、日本の神道神話では比較的寛容ではあるが、女神の浮気にたいしては手厳しい。 

 男性については優性な種は増やすべしとでも言わんばかりに登場人物に語らせているところがある。現代の価値観からいうといささか批判を浴びそうな部分ではある。

 異次元にはたくさんの階層がある。異次元は別の場所というよりもこの場所に重なって存在し、存在するものの波長が異なっているためにぶつからず、見えもさわれもしないという。天国はあなた方のただなかにあるというイエスのことばはそのあたりをかたっているのではないか。

 天皇は異次元階層のトップから生まれた天使人類の遺伝子を持っているということになる。
 ナガスネヒコという人物が古事記に登場するが、長らく神と人の区別がつかなかったことが、記されている。彼はそのため、神武天皇に抵抗して、さきに到着していた人物をたてていた。外見上はあまり差がないというわけだ。

 天使人類の子孫という言葉はそのままノストラダムスの預言にも登場する。最後の時、天使人類の子孫が助けるというような内容であったかと思う。

 イスラエルは神の選民と呼ばれてはきたが、出口王仁三郎は選民は神の直系ではないという。だからイスラエルの神話はアダムイブから始まり、それ以前の記載が十分ではないのたではなかろうか。

 日本の神話は神々の誕生から始まる。神々とは神と天使たちを含めた表現で、一神教多神教の区別は意味がない。天使とは日本でいう神々のことであり、神々には幽の幽、幽の顕、顕の幽、顕の顕の四つの態様があるという。中心の見えない神は幽の幽、天皇陛下は顕の顕の神の子孫として神と呼ばれていたのである。つまり、エホバと天皇はまったくことなるが、日本語ではいずれもカミと読んで間違いではない。

 人類には神々から生まれた直系と、アダムイブから生まれた人類がいたがいまは混じりあっていて、その混合の度合いにより様々な性質が見られるという。皇族天皇でさえ混じりあっている。ただ男系がまもられれば遺伝子に刻まれたなにかが保存されるのであろうか。

 太古の天皇は超人的な能力をもっていたが、神武天皇からは人皇と呼ばれ、極めて人間的である。時代が下るに従い、アダムイブの系統とも混じりあい、太古の能力をうしなっていったのではなかろうか。

 なぜ、神々は、天使たちはアダムイブを創造したのか。

 なぜ、七回も泥海にする必要があったのか。

 これでは人間世界は異次元天使の失敗と試行錯誤の結果ではないのか。
 
 人間側からみるとこうした神々はあまりにも人間的で、全智全能の神ではない。

 時には神もかなわんぞよとさえいっている。

 神自身が作ったルールに神がしばられている。

 いわゆる天使と呼ばれる存在は上位の神々からの内流をうけて上位の神と一体になる。そこで多即一が実現する。
 上位の根元的な神は時間と空間を創造した。そして下位の天使たちにこれを守らせることで、世界を維持する構造を作った。より上位の神が根本的な原理原則をたて、世界の運営はより下位の神が行う。
 故に下位の神にとっては上位の神が創造したルールを変えることはできない。時はより根本的な原理で、簡単にはいじれない。時の流れに沿って創造を展開せねばならず、それゆえ失敗した場合、つくりなおさなければならない。
 根本的な神の目からは老子が書いているように万物は鄒佝であり、百姓(民)は鄒佝となる。それゆえこの世界では無情にも生老病死が存在し、天国と地獄が存在している。ところがそれだけでないというのが神の神たるゆえんともいえる。
 世界を構築するための神々が生まれ、さらにこの世界を運営して行くために人間という存在が生み出された。
 
 こういう構造にしたのは神で、世界はいわば神の芸術ともいえる。人間にはある程度こうした構造を理解し、鑑賞する能力が備わっているようだ。


明智光秀

2018年12月31日 | 歴史仮説

 明智光秀は織田信長を裏切った家臣として長く汚名を着せられてきたが、いろいろ調べてゆくと文武両道の優しい武将で、光秀のおさめた土地では民が尊敬すらして神社までたてているらしい。

光秀にまつわる心温まるエピソードには次のようなものがある。

エピソード1
 光秀はいいなずけがいたが、結婚する前に痘瘡を患い、顔にあばたができてしまった。慌てた父親が顔かたちの似た妹を嫁がせようとしたが、光秀は姉に決めているとして姉を娶った。


エピソード2
何年かして城を捨てなければならないような争いが生じて身重の妻を背負って急な坂道を上って逃げた。家臣が見かねて代わろうと申し出たが断った。

エピソード3

貧しくなった光秀だったが連歌の会というのを持ち回りでやっていて、光秀が饗応する番になった。
妻が髪を切ってその費用を工面した。


 光秀が織田信長を裏切った理由としてよくあげられるのは、

 身内を人質に出して殺させてしまったこと。これは母親を人質に出してそれを無視して信長が策を進めて殺されてしまったという事だが、そもそもこの女性は光秀の母ではない。

 信長が家臣の面前でさんざん光秀を笑いものにして恥を欠かせた。よしんばそれが事実だったとしても、それだけで光秀が君主殺しをするとも思えないほどの人物である。

 光秀本人の野望などがあげられるが、どうもそういうタイプの人にはみえない。

 最近では信長は朝廷に圧力をかなりかけており、朝廷側から光秀に信長謀反の密命を授けたという説有力である。

 光秀が親類縁者を危険にさらし、かつ秀吉まで納得済みで反逆したとしたら、当時の感覚としては朝廷への忠誠心以外に考えられない。

 信長は朝廷からの官位を受けず、天皇をないがしろにするような態度を示し、ついには自分を神とみなすようになっていた。

 NHKの大河ドラマ黒田官兵衛では、信長が日本に2王はいらぬといったところで光秀が驚き、本能寺の変を起したことになっている。

 光秀は貧しい時代によく連歌の会などもよおしていたとも思われるが、こうした会は公家たちとの情報交換の場であったことは間違いない。本能寺の変の前にも愛宕神社で連歌の会に出席している。このとき詠んだ句が有名な

 時は今雨がした知る五月かな

 余談になるが昔から歌には秘密があるといわれており、例えば万葉集、古今集などは、解釈の仕方により皇室の秘事を伝えているという。古今伝授などが三種の神器にまつわることがらを含んでいることは、かなり後世になって神道の秘伝書などに書かれている。つまり歌には表面の意味と裏の意味があり、公家や太古の秘密を知るものは歌にその秘密を込めたのである。

 関ケ原の合戦があった1600年(慶長5)、丹後の田辺城を石田三成の軍勢に囲まれた細川幽斎が、籠城・討死を覚悟すると、そのことを知った後陽成天皇は、勅使を派遣して和議を講じさせた。天皇は、幽斎が討死すると古今伝授を伝える者がいなくなるので、本朝の神道奥義、和歌の秘密が永く絶え、神国のおきても空しくなることを憂えたという。

 もう一つ。光秀の妻 煕子の実父は勘解由左衛門範熙とされているが、この氏の名字の由来となった「勘解由使』という役職は平安時代に国司の引継ぎをスムーズにするための地方行政監査機関の職名である。国司が交代するときに紛争が起こりやすかったために査察調停してスムーズに交代させる監査役であった、この時代に表向きには廃れていたとは言われているが、天皇直属の密使としてつながりをもち、生き残っていたのではないかとも考えられる。つまり、光秀は煕子と共に天皇の密使と連携して戦国の世を太平に治める計画に参加していたのかもしれない。光秀が利休に転身して秀吉の軍師になるなどは通常の武士が行いうることではない。忍者で言えば上忍と言われる階級の者が行いうる技であろう。 

 利休というのはもと千宗易といわれ、織田信長とよしみであった。だから、最初から光秀が利休であったわけではない。つまり、もし光秀が利休になりかわったのは、信長を殺害した後で、利休は宗易と入れ替わったことになる。一時的に二人で一役を演じていたという説もある。

 竹やぶで殺害されたのは別人であったということになる。晒された光秀の首は顔が判別できない状態であったという。

 光秀利休説を唱える人(出口王仁三郎)によれば、もともと光秀は主君に謀反を興した人物が長く統治できるとは考えておらず、秀吉と通じて勝ちを譲ることになっていたという。

 これで秀吉が四国から一番乗りでき、光秀軍にやすやすと勝てた説明がつく。

 そして秀吉の軍師として生き残り、大陸侵攻のアドバイスしていったという。 

 光秀にはもう一つ天海という徳川家康のブレインともいう僧侶になったのではないかという説がある。

 王仁三郎はこれについては書いていない。

 ただし、王仁三郎が蒙古に神国建設を唱へた際、軍事顧問として天海と名乗り、馬賊三百数十名を従へ蒙古入国しようとしていた。また、しかも満州から内蒙古の地にまたがる明光国(明智光秀の二文字を使った国)を打ち立てるよう紅卍会と協力してもいた。

 私は利休説を取っていたので、天海説の受け入れ慎重であった。しかし、多くの家臣まで巻き込んで大芝居を討った光秀が正体がばれそうになったくらいで切腹するとは思えない。

 利休の死は不可解である。秀吉の不況を買ったという説もあるが、秀吉は利休の首検分すらしていない。
 朝鮮への出兵を諌めたともいわれているが、大陸への進出は、もともと光秀の献策であった。

 九州でキリシタンが大名を隷属化し、一部を植民地化しはじめ、従わない神社仏閣を焼き払い僧侶を焼き殺し、日本人女性を海外に売り飛ばしていたからだ。

 この惨状は記録に残っており、歴史家も知っている。

 日本からローマ法王に会うため渡航した天正少年使節団の記録には

『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』とある。

 秀吉は九州でこの惨状を目にしてキリシタンを禁制にした。

「バテレンどもは、諸宗を我邪宗に引き入れ、それのみならず日本人を数百男女によらず黒舟へ買い取り、手足に鉄の鎖を付けて舟底へ追い入れ、地獄の呵責にもすくれ(地獄の苦しみ以上に)、生きながらに皮をはぎ、只今世より畜生道有様」と記録されている。

 当時のスペインポルトガルは人心掌握と侵略のためにキリスト教を利用していた。

 信長、光秀、秀吉はやがて欧州が中国大陸を制覇して日本に襲ってくることを知り、懸念していた。

 そこでそうなる前に、アジア大陸を治めようとした。おそらくそれが光秀の策であった。

 ただその方法が欧州の真似をして侵略といわれてもいたしかたないような強引なやり方になってしまったのは、秀吉に日出ずる国としての矜持があり、他国の内情が分かっていなかったことにもよる。

 日本人には聖徳太子の時代より日のいずる国というプライドがあり、他国、特に朝鮮側が日本という国をリスペクトする気持ちも歴史観もなくなっているということを十分に理解していなかった。

 そのため聖徳太子の時も小野妹子が返書を失くしたことにし、秀吉の時も小西はいい加減な報告をせざるをえなかった。相手の無礼な返答に使者が苦労するのである。

 朝鮮も中国も何度も支配者が入れ替わり、日本の天皇何するものぞという感覚をもっていた。また、お互い相手の戦力に関しても甘く見ていた。出兵した日本兵は最初でこそ破竹の勢いを誇ったが後半疲弊し、多くの犠牲を払っている。明もかなりのダメージを負った。

 光秀が利休となり利休が切腹した理由としては利休が実は光秀であることがばれそうになったと言っている人がある。

 もうしそうであるなら、光秀はこんなことでは死ぬわけはない。味方の多くを逆臣にしてしまい、謀反のかどで死なせてしまった。それには理由のあることとはいえ、ばれるからといって腹を切る道理がない。

 光秀は国家の安寧を画策し、秀吉に大陸を任せ、国内統治を家康に託する策に出たと考えてもおかしくはないだろう。

 また朝廷が光秀に指令を出すとしたら、高齢に達した太閤の跡継ぎを誰にやらせるか。太閤の子供にやらせるのか。だが、秀頼が嫡男でなければどうなのか。

 光秀=利休説をとるものは利休が切腹することで利休が永遠の生命を得、秀吉は4畳半に引き込まれ凡爺になったといわれている。

 たしかに晩年に近づくほど子供である秀頼を溺愛し、ただの子煩悩な認知症老人になってしまったともおもわれる。

 利休の弟子に腹を切らせたりもした。また家来や侍女をまとめて殺害した秀次への仕打ちは残酷だった。

 光秀は、秀吉の認知症に気づいて、自ら軍師としての役割を終わらせることで腹を切ったことにし、秀吉に朝鮮を任せ、国内は徳川家康に統治させることにしたのではなかろうか。

 あるいは正体がばれそうになり、千宗易の本物の方に責任をとらせて切腹させたのだろうか。

 万一秀吉が途中で倒れても、朝鮮出兵が頓挫するだけで、国内の統治は徳川が行えるようにすることが日本の国としてもベストと判断したのではないだろうか。

 光秀が天海になったという説はかなり流布しており、ネットでも容易に見つけることができる。

 光秀=天海とすれば春日局を登用して家光を育てた理由もうなづける。

 春日局は逆臣といわれた光秀の家臣斎藤利三の娘であるといわれる。そしてここがまたあいまいなのだが、春日局お福の血筋はどこかで明智家とつながっているらしい。つまりお福の母親がはっきりしないのだ。

 一説には利三は光秀の異母兄弟であったためとされている、そうすると春日局は光秀の姪にあたる。

 徳川実記には「明智日向守光秀が妹の子齋藤内藏助利三が女」と記されている。しかし光秀の妹の子が利三というのは年齢的に無理がある。姉の間違いではないかと、記録自体を否定する説もある。

  この光秀の「妹」というのはかなりの謎で、妹についての記録は信長に嫁いだ御ツマキくらいだろうか。あまりないという。

 光秀は煕子を失った後、以前姉とは違うと退けたそっくりの妹を娶ったのではないかという説もある。

 なぜなら、本能寺の変のあと、坂本城に亡くなったといわれる光秀の妻子がいたという記録があるからである。

 王仁三郎の説ではお福(春日局)は齋藤利三の妹となっている。

 また春日局の出生地も3か所ほど説があり、そのなかの亀山城説は少数説ではあるが、光秀のいた城である。

 仮に妹が光秀の義理の妹。つまり煕子の妹であり、光秀が煕子亡き後妻として娶っていて、その子供ができ、それを利三の妹あるいは娘として養女に出していたとしたらどうであろうか。

 年齢的にはないことはない。しかも出生地が光秀のいた亀岡城という説もあること、利三がこのころ、たびたび亀岡城といったりきたりしていたという記録がある。

 お福は光秀が死んだ後、利三の死に様をみたという説もある。いずれにしても公家たちの間で当時の文芸を学ぶ天才教育を受けている。その後小早川家臣の妻になっているがこれが関ヶ原の合戦で勝敗を分けた小早川とつながっていく。偶然であろうか。

 そのご夫の浮気で離縁して、家光の乳母になったという突然の展開にだれしも面食らう。家光の乳母を広告で募集するものだろうか? 

 そして家光は春日局と家康の子供ではないかとも言われている。

 家光の家は家康から、光は光秀からとられたとも言われてる。

 では、豊臣と徳川の敵対関係はどう考えればよいであろう。大阪の陣である。

 実は豊臣秀吉の子といわれていた豊臣秀頼は、秀吉の子ではなく、淀君と家臣大野の不倫によって生まれた子ではないかという説がある。

「一、おひろい様之御局をハ大蔵卿と之申し、其の子ニ大野修理と申し御前の能き人に候、おひろい様之御袋様と共に密通之事に候か、共ニ相果てるべし之催にて候処に、彼の修理を宇喜多が拘し置き候、共に相果てるに申し候、高野江逃れ候共に申し候よしに候、(後略)、

—慶長四年十月一日付内藤元家宛内藤隆春書状」

 

 それまで秀吉は幾人もの側室と交わったにもかかわらず子供ができなかったのである。

 大野長治は一度徳川家康暗殺で謀反を働いている。当時より、治長は淀殿と密通していたとの噂があった。

 家康を殺害しようとした大野が淀君を籠絡して子を産ませて、秀吉の子と僭称しているとすれば、家康が豊臣に恩義を感じていたとしても抑えねばならない。

 

まずは出口王仁三郎が明智光秀について述べている部分。

「 今回亀岡大道場に於て、皇道大講演会を開く事になりました。併し皇道大本は敬神尊皇報国の大義を唱導する一大教団なるに拘はらず、所も有らうに、逆賊無道主殺しの、不倫不徳の明智光秀の城址を選ぶとは、物好きにも程がある。且又皇道の主義に対しても、何んだか釣合ひの取れない行り方でないか、相成るべくは至聖至浄の地の高天原と称する綾部の霊地に於て、開始されては如何と、知人より種々忠告を受けた様な次第であります。講習の諸氏も亦是と御同感の方々がお有りであらうと思はれます。
 それは兎に角として、私は序ながら明智光秀に就て、一言述べて見たいと思ひます。光秀が日向守と称し姓を惟任と改められたのは、織田信長公に仕へてから後のことであります。光秀の祖先を調べて見ると、清和源氏の末裔なる、六孫王経基の子多田満仲の嫡子、源の頼光七世の孫であつて、伊賀守光基と云ふ人があつた。其子の光衡が文治年中、源頼朝より美濃の地を賜ひ、土岐美濃守と称した。その光衡が五世の孫、伯者守頼清其の二子に頼兼なる人があつて、その頼兼の七世の孫こそ、十兵衛の尉光継で光秀の祖父に相当り、光秀は光綱の一子であります。この光綱と云ふのは美濃国可児郡明智の城主で、明智下野守と称へたが、早世したので光秀が尚幼弱なために、光綱の弟兵庫助光康を準養子として、明智を相続せしめたのであります。光康は後に宗宿入道と称した人で、有名な明智左馬之助光春は此人の子であります。故に光秀は其の叔父なる光康に養はれて成人したもので、光康は実父にも優る恩人である。光秀の母徳明院は光綱の死後、間もなく此世を去り(濃州明智蓮明寺に葬る)遺孤として可憐なる光秀は、用意周到なる光康の訓養に依り、幼にして聡明一を聞きて十を知るの明があつたといふ。
 光秀は其叔父の光康と共に、明智の城中に於て死せむとするを、光康が強つての乞ひに涙を呑んで、光康の息子光春及び甥の光忠を拉して諸国を遊歴し、千辛万苦の末朝倉氏に仕へ、後織田氏に聘せられて、幾多の戦場に軍功を積現し、左右に策を献じ、信長をして天下に覇たらしめ、自分は又江州丹波両国五十四万石の大諸侯に列し、君臣の間漆の如く密にして、一にも明智二にも光秀と寵遇厚く、信長の甥の信澄に光秀の四女を嬰らしめたる程であつた。一朝にして武田勝頼を亡ぼしてより、信長の心意行動共に稍驕慢の度を加へ、僅少微細のことゝ雖も立腹して功臣光秀を打擲し、家康の饗応にも再び之を罵倒し侮辱を与へ、終にはその近習森蘭丸をして、鉄扇にて其の面を破らしめ、近江丹波五十四万石の領地を召し上げて、以て中国に放たんとするに至つた。忍びに忍び耐へに耐へたる勘忍袋の緒が断れて、光秀にとりては、不本意極まる、本能寺の変起るの止むを得ざるに立到らしめたるも、此間深き理由のあらねばならぬ事であらうと思はれる。後世挙つて光秀を逆賊と呼び、大悪無道と罵る、果して是とすべきものであらうか。
 長岡兵部大輔藤孝は光秀女婿の父である。『叢蘭欲茂秋風破之、王者欲明讒臣闇之』と痛歎し、光秀もまた、
  心なき人は何とも云はゝ云へへ
    身をも惜まじ名をも惜まじ
と、慨したのであつた。光秀が大義名分を能く明めながら、敢て主君を弑するの暴挙に出づ。已むを得ざる事ありとするも、実に惜むベぎ事である。然し乍ら元亀天正の交は恐れ多くも、至尊万乗の御身を以て、武門の徒に圧せられ給ひ、天下は強者の権に属し、所謂強食弱肉の世の中の実情であつて、九州に島津、四国に長曽我部、毛利は山陰山陽両道に蟠居し、北陸に上杉あり、信越に武田あり、奥州に伊達あり、東国には北条等の豪雄があつて、各自に其の領地を固め、織田徳川相合し相和して、近畿並に中国を圧す。群雄割拠して権謀術数至らざるなく陶晴賢は其主なる大内氏を亡ぼし、上杉景勝は其骨肉を殺し、斎藤竜興は父の義竜を討ち、其他之に類する非行逆行数ふるに遑なき時代に際し、独り光秀の此挙あるを難ずるの大にして且つ喧ましきは、五十四万石の大名が、右大臣三公の職を有する主人を弑したりと云ふ事と、戦場が王城の地にして其軍容花々しく、以て人口に会炙することの速なると、加ふるに世は徳川の天下に移り、世襲制度を変ぜしめたる上は、光秀を其侭に付して置く事は、政策上尤も不利益であつたことゝ第二第三の光秀出現せむには、徳川の天下は根底より転覆する次第であるから、偏義なる儒者が光秀を攻撃したのが、今日光秀に対して批難の声が特に甚しいのではないかとも思はるゝのであります。
 承久の昔、後鳥羽院より関東の軍に向つて、院宣を降し玉ひし当時に於て、関東九万の大軍中、この院宣を拝読し得る者は、相模の国の住人本間孫四郎只一人より無かつたと云ふ。応仁以降海内麻の如く乱れ、文教のことは纔に僧侶の輩に依りて、支へられしに過ぎなかつた。況んや元亀天正の戦国時代、将軍義照亡びて、世に武門を主宰すベき人物皆無の時に当り、文学に志し君臣父子の大義名分に通ずるの武士、幾人か在つたであらう。
  神嶋鎮祠雅興催  篇舟棹処上瑶台
  蓬瀛休向外尋去  万里雲遥浪作堆
 是れ光秀が雄島に参詣されし時の詩作である。臣下を教ふるに当つては、常に大義を説き、主君が築城の地を問ふに対し、答ふるに地の利にあらずして、其の心にありといふが如き、至聖至直の光秀にして、本能寺暴挙のありしは、深き深き免るべからざる事情の存せしは勿論であるが、然し乍ら主殺しの悪評を世に求むるに至りしは、光秀の為に反がへすも残念な事であります。我々は大にその内容を攻究せずして、猥りに世評のみに傾聴すべきものでないと思ふ。独り光秀が行動の是非を沙汰する斗りでなく、又時代観の相違を知るの必要があらうと思ひます。
 又光秀の家庭たるや、実に円満であつて、他家の骨肉相食む如き惨状あるなく、一門残らず賢婦勇将にして、加之古今の学識に富み、彼の左馬之助光春が雲竜の陣羽織を比枝山颪に翻へし、雄姿颯爽として湖水を渡り、愛馬に涙の暇乞を為せし美談のみか、臣斎藤内蔵介の妹は、常に光秀に師事して学ぶ所多く、後に徳川家の柱石と仰がれし烈婦春日局とは此の婦人なりしが如き、実に立派な人物ばかりであつた。又光秀の家系は前述の如く立派な祖先を有し、家庭また斯の如く美はしく、且つ家系は宗家の控へとして、美濃全国に君臨し、近江の佐々木、美濃の土岐とて足利歴々の名家である。古歌に
  曳く人も曳かるゝ人も水泡の
    浮世なりけり宇治の川舟
で、時世時節なれば止むを得ざるとは云へ、実に織田家の臣下としては、勿体なき程の名家であつたのであります。明智光秀の波多野秀治を丹波に攻めしが如きは、信長の命に依る所である。波多野兄弟等抗する能はずして、軍に降る。信長許して之を安土に召す。兄弟能く信長の性格を知つて容易に到らず。茲に於て光秀は安土に往復し質を入れて誓うた。兄弟は光秀の心を諒して安土に到るや否や、信長は其遅参を詰つて、慈恩寺に於て切腹せしめた。是信長秀治兄弟を欺くのみならず、光秀をも欺いたのである。
 太閤記に云ふ、秀治信長の表裏反覆常なきを怒ると雖も、今更為すべき様なし、敷皮に直り光秀に向ひ、儼然として曰く、此頃の御懇切は草陰にても忘れ申さず、但飛鳥尽きて良弓蔵めらるゝと云ヘば、御辺も身の用心をなし玉へ、信長は終に非業の死をなし給ふベし云々。秀治の臣下怒りて光秀の質を殺すも、秀治の此言を聞きては、決して光秀母を殺すと云ふべからず。これ疑ふべからざるの事実である。
 然るに中井積善の如きは
光秀母を餌にして以て功を邀ふ、犬テイも其余りを食はず』とか、又儒者の山形禎なども、『光秀凶逆母を殺し君を弑す、他日竹鎗の誅、天の手を土民に藉りて』云々
と激評せるが如きは、悉く見解を誤れるものである。吾人をして当時の有様より評せしめたならば、『信長無残にして、光秀をして其母を殺さしむるの悲境に立たしむ』と言ひたくなる。
 光秀の質を殺すは秀治の臣下にあらず、将た光秀に非ずして、実に是れ信長なりと言ひたいのであります。
 田口文之、信長を評して曰く、
『行詭計於其妻以斃其父右府所以不終』と、新井白石、信長を評して曰く、
『信長と云ふ仁は父子兄弟の倫理絶えたる人なり』と。
 平井中務大輔が、孝道の備はらざるを諌めて、死するも宜ならずや。
 其他猜疑の下に、林佐渡守、伊賀伊賀守、佐久間右衛門尉の如き忠良なる臣下の死し、斎藤内蔵介等の如きも、信長の仕ふベき主にあらざるを見て身を退き、秀吉の如きも一日光秀に耳語して曰ふ、
 『主君は惨き人なり、我々は苦戦しで大国を攻め取るも、何時までも斯くてあるべきぞ。やがて讒者のために一身危からん、能く能く注意せられよ』云々と。
 菅谷秋水、信長光秀両者を評して曰く、
 『信長は三稜角の水晶の如く、光秀は円々たる瑪瑙の玉に似たり』と、名将言行録に光秀を評して、
 『其敵を料り勝を制し、士を養ひ民を撫す、雄姿大略当時にありて、多く其倫を見ず』云々。
 是も余り過賞の言ではあるまいと思ふのであります。
 以上の所論は信長対光秀の経緯に就て略叙せしのみならず、光秀の黙し難き事情のありし事も、幾分か伺ひ知る事が出来るのであらうと思ふ。信長は光秀の反逆がなくとも、何れ誰かの手に依つて亡ぼさるベき運命を有つて居つたのであります。亦光秀が其実母を質とせし如く論ずるも、光秀の母はその幼時に既に世を去り、遺孤として叔父の光康に養はれしものなる事は前叙の通であつて秀治に質とせしは叔父の妻で、即ち光春の母である。故に質を殺すの原因も亦前陳の如く、信長より出でたるものにして、光秀に取りては、実に気の毒千万の寃罪である。何うか史上より光秀殺母の点だけは抹殺したいものであります。
  時は今天が下知る五月蝿かな
 世界各国今や暗黒界と変じ、神代の巻に於ける天の岩戸の隠れの惨状である。吾人大日本人は一日も早く、皇道を振起し、世界二十億の生霊を救はねばならぬ時機に差迫つたのでありますから、世評位に関はつて躊躇して居る場合ではない。吾人に言はしむれば、光秀の城址たる亀岡万寿苑は、実に言霊学上却つて適当の地であらうと思ふ。その亀の名を負ひし地点は、実に万世一系の皇室の御由来を諒解し奉り、万代不易の神教を伝ふるに万寿苑の名また言霊学上何となく気分の悪くない地名である。亦明智光秀といふ字も、明かに智り光り秀づると云ふことになる。講習会諸氏は、皇道の大本を明かに智られ、神国の光り秀妻の国の稜威を、地上に輝かさんとするには実に奇妙であると思ひます。其れ故に吾人は光秀の城址だからと云つて別に厭な心持もしないのであります。』 
出口王仁三郎全集 第一巻
 
 
 
「 千の利休と云ふ人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆くも敗れて、遂に名もなき一土兵の為めに竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝へられてあるがあれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知してをつたが、光秀は将士の度々の迎へをうけながら、態とグズグズして居て、遂に勝を秀吉に譲つたのである。実は疾くに光秀と秀吉との間には妥協が成立して居たのである。聡明なる光秀は、たとへ如何なる事情があつたにもせよ、いつたん主殺の汚名を着たものが、天下の将軍となつても永続きがせぬと云ふ事をよく承知して居て秀吉に勝を譲つたのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあつて、天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位迄押しのぼして仕舞つたのである。彼は実に秀吉の好参謀であつたのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。茶室に這入るには丸腰となつてにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、もつて来いの場所方法であつた。第一秘密を保つに絶好であつた。後彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝へられて居るが、全く跡形もない事である。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。
 筆者がこのお話を伺つて、或時の事二三の方々にお話して居りました、偶座に岡山の太田栄子夫人が居られて、この話を裏書する面白い物語をせられましたので、左に御紹介致します。
 太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」と云ふ事を承はつて、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたさうです。さうすると名倉氏はそれを又家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました、すると円能斎氏の顔色がサツと変つて暫くは物も云はれなかつたさうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分つたのですか」と云ふ事であつたと云ふ事です。そして、更に語をついで、「その事こそ、千家に伝はる、一子相伝の大秘密であつて、後を嗣ぐ長男のみが知つて、次から次へと言ひつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無い筈です。どうしてそれが分つたのでせう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によつて分つたのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供へた聖者がありましてその人の霊覚によつて、其秘事が分つて来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚き且感じ入り、遂に執事を派して綾部に参拝せしめ、次で自らも亦参拝せられたさうですが、深くこの事を秘して人に語らなかつた。名倉氏も又秘して仕舞つたのですが、不思議な事には三人が三人共、相前後して同じ心臓病の為め倒れて仕舞つたさうです。
 太田夫人は「これは秘してはならぬと思ひ、皆さんにお話して居ります」と語られました。一座のものは是を聞いて、今更の如く驚き、聖師様の称へ盡せぬ御霊覚の程を感じ入りました。そして聖師様がもし、此霊覚によつて訂正さるるならば、世界の歴史も随分変つて来るかも知れないと思ひました。」
 
三鏡より
 
・・・・・・・・・・・・外面的には利休は、ついに豊公に殺されたが、内部的精神的からみれば、豊公は利休に殺されたのである。時めく天下の関白が、利休のために、四畳半裡に引きずりこまれて以来の豊公は、もはや以前の豊公ではない。豊公は内部的に利休に殺されて、英雄の分際からただの凡爺にたちかえつて、未見の世界が見られたのは、小不幸中の大幸福だつたのである。また利休は豊公に殺されたおかげで、永遠の生命を獲得したのであつた。・・・
 
 出口王仁三郎著作集第3巻より
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大仏の造成は国力を削ぐ古代間諜の戦略の一つ

2014年03月17日 | 歴史仮説

大仏と大きな神殿の造成には莫大な労力を必要とする。権力者は天災人災を避けようとして大仏を造ろうとするが、実はこの政策は人民を疲弊させてきた。

敵国を弱体化する方法として間諜が入り込み、大仏などの多額の費用を弄する戦略が中国ではあったという。その戦略が日本に持ち込まれた。

宗教的信仰を利用し国を疲弊させる深謀遠慮である。

我が国に仏教を持ち込み仏教文化を広め、天皇を頂点とした制度を弱体化させることは、敵国人の謀略だった。

 

この説は出口王仁三郎のものでないが、何かの文献で読んだが出典は記憶していない。


蘇我

2011年10月27日 | 歴史仮説

蘇我氏には韓子、高麗など半島を思わせる名前がある。

正史にはないが蘇我氏の祖先が子供がいないために大陸で養子をとったという伝承があるらしい。竹内文書の研究者が本にかいている。蘇我満智に子がなく、神功皇后の時大和朝廷に帰化した百済人を養子にしたのが韓子であったという。

 馬子は漢人をつかって崇峻天皇を殺害したが、まず邦人にはこうした発想が考えられぬ。

 物部氏を排斥して仏教を導入して天皇制度の根拠となる神道の伝承を焼失させたのも蘇我の一族である。

 蘇我の一族は深謀遠慮を用いてわが国の内部に入り込んで皇室を攪乱したのはほぼ間違いない。