国家戦略室 (アンダーグラウンド)

日本本来の政治、統治、歴史についての研究

殷周と古朝鮮から高句麗

2019年11月14日 | Weblog
殷と周との戦いというのは、古代歴史の最重要事項である。
殷は東族、周は西族という見立てから出発すると分かりやすい。日本や檀君朝る

 殷以前は夏王朝があったとの伝説があるが、そこについてはまだ私も詳細にはみていない。ただ洪水により中原も混乱し、太古日本の統治説からすれば、統治ができなくなったということであろう。

 殷の最後の紂王が酒池肉林で人心を失い、周と戦争になって負けた。その時点で殷の祭祀が途絶えたといわれている。ところが、息子の一人が祭器をもって逃げ、祭祀そのものは箕子に引きつがれていたようにも見受けられる。

 正式の祭式は祭器とともに、しかるべき後継者、血統の者が行わなければなさないと思われる。

 例えば日本で言えば天皇の血筋を引いたものが三種の神器を継承し、大嘗祭のような継承の儀式を行わなければならない。

 しかし殷は紂王が最後の統治者として、それを後継に譲れなかった。殷の継承者としての儀式が行われないため、殷として祭祀は途切れたということになるのだろう。

 殷が日本と関係があったと思うのは何を根拠にというだろうが、まず殷周の戦争が始まった時に東方からの援軍が来ていることが契丹古伝に出ている。確かにそれが日本からの援軍かどうかは微妙な点がある。

 箕子が朝鮮を建国したとき檀君がその地方の支配権を譲ったという話がある。檀君については諸説ある。伝承ではファンインという神がいて、熊女と交わって生まれたのが檀君ということになっている。しかし九鬼文書などでは檀君はスサノオノミコトのおくり名であるとみることもできる。つまりスサノオノミコトの系統が続いていて、系統がおなじなのでその地位を譲ったとも考えられる。
 
 そして契丹古伝によれば箕子には子がなく、皇室から養子を得ている。つまり朝鮮と日本はこの時点では兄弟関係にある。
 しかし何代かあとに衛瞞という将軍が燕国から亡命、朝鮮の王は信じて国の重要な守りを任せたが、なんと裏切りから朝鮮を乗っ取ってしまった。
 この朝鮮はすでにはじめの朝鮮ではない。このとき箕子朝鮮の後継者は、なんとか逃れて別のところにうつったともいわれている。

 その後、時代が変わって朝鮮では朱蒙が、古朝鮮の流民を集めて国を建てた。朱蒙の父は謎の人物で水辺の女性を犯してどこかに去ってしまったといわれているが、奇妙なことに三本足の烏を信仰の対象とし、三種の神器を手にしたといわれている。

 三本足の烏とは日本ではヤカダラスという、神話上の存在てある。三種の神器については諸説あるが、日本の三種の神器を模したものとも考えられる。

 一般にこれは半島の伝承が日本の神話に流れこんだといわれているが、逆の可能性もある。

 高句麗の三足鳥も太陽の化身といいわれている。朝鮮の伝承ではなんのことだがわからない。日本の神話と照合すると、朝鮮人にとっては心外だろうが、太陽の化身の意味は、太陽は皇国の象徴であり、皇国の命を受けていることを示している。三足烏は日本では神武天皇を先導したことがある。

 日本の伝承ではこのヤタガラスはある神話上の人物らしい。神武天皇を導いたとされ、スサノオノミコトの仕えたものの子孫だともみられる。

 先に檀君がスサノオノミコトのおくり名だという仮説を書いた。朝鮮の神話ではファンインという神が地元の熊女と交わってできたのが檀君ということになっているが、おくり名であるということであれば、何代にも渡ってこの名前が踏襲されて来たのだろう。

 スサノオノミコトは弓を使ったという伝説も残っており、これが朱蒙の弓伝説にも繋がるのではなかろうか。

 高句麗の系統は日本の神話と関係が深く、ヤタガラスの系統の人物が朱蒙の父親だったとすれば、話は分かりやすい。

 先日安市城での先頭の映画を見たが、唐の大軍を破った城主は王を殺害した将軍に反逆し、高句麗を守ろうとした。

 王を殺害するという行為は下克上で、中国朝鮮では易姓革命として肯定されているが、我が国では許されない。

 太古においてはこの行為は非道とされていた。殷周革命の時代でもその記述があるが、そのような国となった高句麗はやがて滅びることとなる。

 

英語教育について

2019年11月06日 | Weblog

 出口王仁三郎は英語教育には否定的で、彼ならエスペラントをやれというだろう。だがエスペラントはまだ国際語として利用できるほと、広がっていない。

 国際語としてエスペラントの可能性について暗示していたバハイ内部でさえ、英語が優勢である。

 いまの時代、英語がなくては国際人ではいられないというのが、一般的な見方であろう。だが、日本人の多くは英語が不得手であり、その理由が、明確になっていないまま、実用的理由から英語の早期教育が導入され、さらに今回のような大騒動が起きた。

 かなり長期間英語を學んでも身に付かない、あるいは日本に長くいると習得した語学力も維持できないという声も聞く。

 理由は学習の仕方に問題があるとも言われるが、言語構造の違い、それによる脳の形成と機能など、議論はあるが、実用性から反対論が声を潜めている。

 同じラテン語から派生した言語だと構造がにていたり、単語に類推のきくものがあるため、記憶も定着しやすい。 
 エスペラントの学習にしても英米人やヨーロッパ人にとってはかなり有利である。



 日本語教育の分野では最近の言語学の知見が紹介される。母国語同様二つの言語を同じように操るには言語的な才能、環境、言語修得の意欲が必要とされる。

母国語が中国語である台湾人が長く日本にいると母国語が出てこなくなるので困っていたことがある。母国語でさえ操りにくくなる。

絶えず二つの言語に接触しているならまだしも、そうでないなら、日常使わない言語は衰退ししやすい。

要は外国語をどの程度学ぶ必要があるかということをおさえないと、教育の目標が定まらない。

外国の文献を読むため、取引のため、外交のためいうのであれば、それぞれの目的に絞って学習しないと無駄になる。

例外はもちろんあるだろう。だが無駄が多すぎえば実利も、意欲も削がれる。



教育の混乱

2019年11月05日 | Weblog
英語に限らず教育が混乱している。

明確な目標、一貫した価値観に基づく教育が行われないため、一部を除いては能力を分散させてしまってなにものにもなれない。

実務に役立つ教育がひとつ。

皇国の真相に基づく価値観を教えるのがひとつ。

ことの二つの柱がなければ、多くの子供が路頭に迷うことになろう。

英語が実社会であるいは科学で必要ならば、シェークスピアではなくて、専門知識に必要な英語を中学高校から学ばせても無駄ではない。高校の教育は専門の基礎として方向性を定めて大学で一般教養を求めるようなことをするようりも、専門野中から一般教養を引き出すようにするがいい。科目をわけ、異なった教師をばらばらに教えるのは問題がある。

一貫性にかけている。

これを修正するためには、古代人が行ったように、国語と歴史と地理を複合的に学べるような教科書をつくり、昔行われたように小学校以前から暗記させ、あとで省みられるようにする方法をとることである。

このためには、大人がこのバイブルにも匹敵する経典を選び出し、それを子供の頃から教えなくてはならない。


太古の神話と現代

2019年08月14日 | Weblog
最近高句麗を題材にしたドラマをみて、高句麗建国の朱蒙が天帝の子であるヘモスであることを知った。どらまではこのへモスは殺されてしまうのだが、史伝では納屋のようなところに引き込んで女性を身ごもらせてそのままどこかへいってしまったことになっている。今の時代で言うとひどい話なのだが、考えてみればキリストも実はこのような背景があったのではないだろうか。キリストは処女懐胎と言われているが、出口王仁三郎ははらませたものがいることをにおわせている。

はらませるという言葉は乱暴だが、昔の貴人はあちこちで子供をつくっていたようで、出口王仁三郎の出生にもそのような話がある。

大国主命でもそういうことがあって、妻が嫉妬に狂った時期があったらしい。最近のドラマでは不倫は絶対ゆるされないが、優秀な種は増やしたほうがいいような考えがある。しかしこれはごく限られたはなしである。大国主命でさえ大変だったのである、庶民がまねしてやれば、家庭は崩壊、色恋沙汰が、増えるだけ。

ともかくもこの朱蒙が神器を手にして高句麗という国を古朝鮮の再興として打ち立てる。
この際に巫女が大きく関わって扶余という国では巫女と王が対立する。巫女が神示の解釈を違えたりするところが逆にリアルに見える。扶余の巫女は最初朱蒙の父を不吉の前兆として閉じこめるのである。王が巫女と対峙して祭政が分離する。そこから朱蒙が生まれる。巫女もやがて自らの非を認めて朱蒙を支えてゆくのだが、このあたりは創作かもしれない。しかし、この時代は巫女の神示と政治が深く関わり祭政が近づいていた。


怨みを解き、相生きる

2019年07月20日 | Weblog
韓国の日本パッシングはわれわれが若い頃にはあまり表面化していなかった。なかった訳ではないが、親日派もいたし、日本に協力した方が韓国にもメリットは大きいと考える人もいた、

ところが韓国が力をもち、韓国が過去の歴史を手段として日本との外交に有利に立とし始めてから、日韓の関係は悪化した。これには韓国の政治勢力の変化がかかわっているが、その政治勢力をどの周辺国が操っているかも考えておきたい。

実際のところ韓国が憂さ晴らし的に過去の歴史問題を外交に利用して未来の歴史を台無しにするのであれば、韓国の経済や政治にメリットはほとんどない。

冷静になれば子供でもわかることである。過去の問題を理由にして一時的な立場の優位をえようとする行為は感情的な喧嘩に近い。

こうした行為を政治の場に持ちだしてくる相手を、日本人は心の底ではまともに取り合える相手ではないと思い始めている。

ロシアもまた千島返還交渉で、表面とは裏腹に第二次世界大戦の結果などという日本人の傷にふれてくるような言葉を発している。

ほとんどが戦後世代となった今。戦争が追いつめられてやむなく起きたことを戦後世代は理解しはじめている。そして、戦時中というのは何が起きてもおかしくない状況で敵味方入りまじって狂気を繰り広げる。原爆でとどめを刺したというのは。アメリカの汚点であり、時代がもうすこし変われば、たとえアメリカの兵士を救うためであったとしても避難されるであろう。

原爆のような兵器は戦争集結のためとはいえ使うべきではない。そう考えた昭和天皇の判断がいかに正しかったかは後世が証明する。

だが、日本人はそれよりも自分たちにも悪いところがあったという面を反省した。

これは戦争に負けたからでもあったが、戦争自体が多くの狂気と残虐を生み出し、やめたい、起こしてはならないと本気でおもっていたからだ。

可能な限り対話で解決を図る。やむえないときに経済戦に突入する。

いつまでも相手を関係を悪化するつもりはない。相互に尊敬しあって関係を築いていきたいというのが日本人の基本的な考え方であろう。

日本の政治家の多くは未成熟で、国内的には失政を繰り返して自分の利益をむさぼっていることもあるが、対外的にはバカ正直で、こちらが礼儀を尽くせば相手も礼儀を尽くすと思っている。交渉ではブラッフ苦手で、相手の手の内をみるのも得意ではない。アメリカにはなんども煮え湯をのまされている。しかしそれでも誠実に対応するのが基本原則であると考えている。

しかるにここ数年の韓国の行動はドを越している。

韓国人でさえ、懸念を示している。

そこまでしないとわからない国というより政治家なのだろう。

解怨相生はどうするのか、普天の神は働かないのだろうか。

経済戦は実弾戦ほどではないが、犠牲者を出す。

日本国内の宗教者としては何ができるだろうか。

普天教を支持して、韓国内で解怨相生の気を生み出してはどうだろうか。

大本の隠士としては、普天の士の祈りを支えるべく活動すべきではないだろうか。

怨みや過去を祈りにより浄化して、相生はかってはどうだろうか。

消費税の愚か。

2019年07月05日 | Weblog
もとより税制そのものに問題があるが、継続格差が、問題になっている時にそれをさらに拡大させる消費税増税は愚作である。
消費税増税すれば、生活がたちゆかなくなる人も増え、生活保護費などの費用が、急増する。あらゆる材料の価格があがり、ただ商品が、2パーセントあがるだけではすまない。

これでうまくまわるというのは、計算に必要な条件を組み込んでいないからだ。財源をどうするか、皇道経済学では、みいず紙幣の発行をおこなう。
 つまり福祉や軍事費は、これでまかなう。ただし、その前に、憲法を改正し、経済権と軍事権を陛下に返還しなければならない。

陛下が、仁徳天皇の故事にもとづき、所有権と課税の仕組みをあらためるよう詔を発し、政府関係者の生活をあらため、教育を改変して、皇道経済学を広めなければならない。

結局いまそんなことは難しいから、強いものがちになる。生活困窮世帯が、増えている。富裕層が、政治に干渉しすぎ。

統計のごまかしをだれも指摘できない。とりあえず自分たちの都合のいい数字が上がればいいのだろう。

そういう仕組みになっている。

皇室財産が、国民の税金でまかなわれているのではない。国民も企業も不動産や財産を拝借しているのみ。富裕層が、財産をため、困窮世帯がふえているようなあり方は。まちがっている。山川あっても峻烈ならず。税制をまちがっているから貧富のさがかくだいする。


令和

2019年04月26日 | Weblog
令和について

令和、これまで出典が漢籍であったこと自体おかしかった。
年号そのものの始まりが中国文化の輸入からはじまったからだろうが、今回万葉集から引用されたのは喜ばしい。

ぱっと見違和感がないでもないが、文字を象形文字と日本の古文化で読み解くと、つくられた意図が見えてくる。

令和の令の上の部分は杯を逆さにしたとか蓋という説がある。山が天を意味し、一が地を意味し天地が一体になるという説明もあった。廟の屋根の部分という解釈もある。
下は人がぬかずく形であるということでほぼ一致している。

命令、号令の意味合いで使われる。令色に意味にも使われる。いずれも正直あまり言い印象は受けない。なのになぜこの字をあてたか。

ぬかずくは何にぬかづくかである。国家という意味とはとらえにくい。天蓋、あるいは天地合したところにぬかづくという意味が近い。

天地合するとは天の神地の神、天神地祇を意味すると考えたい。

天津神国津神である神々にぬかづくの意味であるとみる。

さらに和の字。昭和の字は平和の和、和合の和ではあるが日本を表すともいう。
一般的な意味からも年号にふさわしい。

さらにこれを分解すると左のへんは稲を表す。日本が葦原の瑞穂の国であること、
そして右側が口だがこれは、のりとを納める神の器であるという解釈があり、
ここから人の口ではなく箱のようなものが描いてあることがある。

しかしながらのりとを納める神の器というのは人間の口である。

祝詞の本体は巻物ではない。言霊である。口で空気を振動させることで発せられる音声が基本であり、祝詞の器とは口である。

つまり口は言霊を意味する。

つまり和は一文字で日本が農耕、稲作を基本とする言霊の国であることを表している。

まとめる令和という年号は、日本が神にぬかづき、神の下にあって頭を垂れ、農業を基本とする言霊の国ということである。




法律、ルールで取り締まるだけでいいのか

2019年03月21日 | Weblog

日本が法治国家であるから、世の中が資本主義であるから、だからそうするのが当たり前だという理屈を話の途中で差し込む評論家的な人は話していて、一歩も進まない。そこにはそうした物事への信仰が含まれていて、そうした仕組みが完全ではなく、偏れば害をなすと言うことがわかっていない。ルールは交通整理のような面もあり、うまく造れば社会が適切に機能する。しかし、なにからなにまで法律で規定していくと、法律で想定しない事態が生じたときにうまく対処できず、法律にさえひっかからなければ何をしてもよいということになる。
 法律は道徳の最低限と王仁三郎は言った。

 しかしこの道徳もやりすぎると人を窒息させる。善悪は場所や時代で相対的な面もある場合もあり、杓子定規に物事を裁いていては解決しない時もある。

 仏教では飲酒を禁じている。だが、これを国家の法として厳格に規制するとどうなるか。闇で飲酒の取引がなされマフィアや暴力の資金源となる。阿片の汚染が広がる前の日本で阿片の流入を厳格に禁止し、栽培も所持も禁止することは重要である。厳しすぎるという人もいるがこれはゆるめると、蔓延しやすい。蔓延すれば悪とつながりやすくなってしまう。山ほどの事例があり、国家がガタガタになってしまう。
だがすでに蔓延してしまっているところでは、急激にやめさせようとしても非常に難しい。そのため、一時的に政府が管理するなどして徐々に減らして行く対応策を採ることもありうる。かつて台湾では

 
 

 

世界の大政奉還

2019年03月09日 | Weblog

大本には型の思想がある。世界で起きることは日本に、日本で起きることは大本に規模が違い時間が違っても起きるといわれている。なんらかの関連性をもって起きるとも言われている。


世界の貧富の差は日本に移しだされている。


貧富の格差は政治家や官僚が想像する以上。学者が想像する以上で、これが先進国といえるのかどうかというほどになっている。


おにぎりが食いたいと言って心中した親子の話がある。


制度的な問題、町役場の役所的対応。


だが根本にあるのは資本主義の行き過ぎと、政治家と経済的勝者の奢りであろう。何が悪いのか、正当な戦いで正当に勝ち得たものを享受するのは当たり前というのが資本主義者の考えである。


しかし皇道ちがう。


財産は天皇のもので、天皇かからの借り物である。経済的成功は神がそういう働きをさせているというだけである。


ではモチベーションをどこにおくのかと言えば、己の欲望ではない。かみに使えることである。だから日本人は労働というよりも仕事という。


仕事を神に捧げる。天皇から土地と財産をお借りして天皇にお返しする。


必要以上の財はもたないのが未来の姿である。


とまあ、私が読みとって描いた世界像であるが、なかなか人は納得しまいて。


だが経済が機械的に動くとばかりはいえず、また欲望ばかりで動くものではない。国民が太古のように天皇と神を信じ、役人がまともになればいまの経済機構をちょっと手直しするだけで替わるような気がする。


一つの例としてあげられるのが、所有権を拝借権とするということである。


所有していると思うから、いけないので、すべての財産は天皇のものとして拝借しているという考え方を持ち始めると、使い方にも差が出てくる。


言葉が思想を変え始める、


立て替え立て直しは手のひら返すようにといわれるが、こんな風に、資本主義至上、富裕層や先進国にあつまり財産や株が一気に神と天皇のものであるといわれる日が来ることを夢想する。


 


貧困

2019年03月07日 | Weblog

貧困それも若い人から高齢者に至るまで、貧困が忍び寄っている。このことに自民党も安部総理も真剣さが足りない。

仁徳天皇の故事を持ち出すまでもなく、我が国は下々が苦しんでいるときには天皇から生活を慎んだものである。

資本主義だから仕方がない、儲かったものがクルーズで遊べるというのは美風でもなんでもなく、欧米思想の欲望中心の考え方で早晩痛い目に遭う。痛い目にあってもそういう思いをしたい、そういう地位に上り詰めたいという人間を取り立てるようになると、そういう人物が高い地位に昇り、国の道徳が崩壊する。

資本主義だから仕方がない。そんな弱音でどうする。弱肉強食の資本主義をため直し、徳を重んずる皇道に変えて行くのがわれわれ日本人の使命である。

競争心をあおり立てる、実績主義で追い立てる。そうしないと生き残れないようなよのなかか、やる気のない共産主義か。。ではない。

高い志を評価する世の中に作り直さねばならない。

じゃあ原資はどうするのか。

同じ機構をつかっても、人々が高い志と使命を持ち始めれば、評価の基準がかわってくる。金が儲かるからブラック企業に投資すべきかどうか分かるだろう。

莫大な利益をあげ、法令に違反していなくても、過労で死者がでるような企業は社会的に制裁をうけてしかるべきと思われる。

法律は道徳の最低限である。法にふれないから何をやってもいいというものではない。

 

 

 


バイリンガル

2019年03月04日 | Weblog

バイリンガルにはその習熟度によって3種類に分類できる。

1@2言語が母国語同様に話せる。

2@一方の言語は十分にはなせるが他方は不完全である。限定的。

3@二つの言語とも不完全で、限定的。

このうち三つ目に二つの言語ともに不完全であると抽象的論理的思考が発達しにくくなるということが分かっている。

大方の日本人は話せたとしても2@であり、この場合は主たる言語で思考するため影響は少ないという。

しかし、どちらかの言語使用が長い場合はどうだろうか。ある台湾人が日本での生活が長く、母国語の単語が出なくなっってきたというのを聞いたことがある。まだ20代である。彼女の日本語は完全ではない。つまり、2@から3@に移行してしまったのである。

バイリンガルには風船理論という有名な理論がある。それぞれの言語で培った知識や能力は別々に機能する。そして一方の言語に習熟すると一方の言語は劣化し、その知識と能力、機能も抑制されるというのである。

これには反対論があり、いやそれぞれの認識は氷山のように深層で結びついて有効に働くという説もある。

後にこれはそれぞれの言語の習熟具合によると考えられるようになった。

つまり1@の場合は氷山説で説明できるが、3@の場合は風船説が当てはまるという。

現実を振り返ってみてどうだろう。二つの言語を母国語同様に習熟できるだろうか。

またそれを終生維持できるだろうか。

これらの理論は使用頻度と言語の劣化を考慮していない。

否定語で聞いた場合イェスノーの答えが日本語と英語で反対の場合がある。

あなたは日本人じゃないの。日本語ではイエス、英語ではノー。

この反応をその場その場で瞬時で切り替えるのは相当難しい。

それぞれの言語構造が別の言語に有益に働くとは言い切れない。

なにかを説明しようとするとき日本語で考えるか、英語で考えるかは一つであり、はなすときの状況でそれを切り替えるのは相当難しい。

熟練したとしてもどちらかに偏って行く。

三種類に分類されているが、変動しやすいし、境目も曖昧である。

現在の日本の状況ではしっかりとした日本語が確立する前に英語教育を行うことは日本語に影響を与えるだけでなく、抽象的、論理的思考が影響を受ける可能性がある。

言語能力が高い人を引き合いに出して議論しても、多くの日本人にとってどうかと言うことを考え、国家としてどうかということも考えなくてはならない。

日本語学者、言語学者は大いに意見を述べ、英語の一律早期教育に反対すべきである。


言語

2019年03月01日 | Weblog

 

 

われわれは言語の研究者ではない。しかし毎日使い長年慣れ親しんでいるものとして、学者の言うことがほんとうにそのとおりなのかどうか振り返ってみることはできる。

言語学者の意見がどうであろうと、意見をいう権利はある。

英語が初等教育に取り入れられるという。

国際化を目指すことと国際的人材を輩するため、またどんな研究でもあるいは仕事でもある程度以上になると海外の文献を読む必要が多くなってきている。その際英語ができないと不利になると言うことである。

だが日本人はなかなか英語を習得できない。

そして言語を二つもつということがどういうことなのか、実際に起きていることを整理したい。

帰国子女がしばしばおかしな日本語を使う、そしてそれを英語に置き換えてはなす。

つまりそれぞれの言語の習熟にはかなりの期間がかかり、おかれている環境と期間によって習熟度が異なる。

両親の影響家庭内でどの程度、どちらの言語を使うのか、混ぜて使うのか、友達同士はどうなのか、学校ではどうなのか。

そしてしばらくたつとどうなのか。

日本に長くいて、日本語を話せるようになり、日本語を話すことが多く、母国語を話す機会がないと、母国語がスムーズに出てこなくなると言う外国人を何人もみた。

つまりいかに修得しても、あるいは、幼児期から母国語を使っていたとしても、その後の環境で言語の使用能力は変化する。

 また、年齢を経るにしたがい、複数の言語を維持していくのがつらくなってくるという例も聞いたことがある。このとき母国語にもどるか、あるいは後で学んだ言語に定着するかは必ずしもきまっていない。

 こうした研究はバイリンガルなどから相当研究されている。そうした一つの説を取り上げて、政府は英語の幼児教育を勧めようとしているのだが、それを勧めようとしている人たちの多くは英語を必要とする環境にいる。

 ところがほとんど英語の必要のない職業に就いている人は想像以上に多い。せいぜい辞書片手に中学英語を使う程度で用が足りているのである。

 日本が幼児期から英語教育を始めることで懸念されるのは、日本語の発音がつくられるまえに英語を学ぶ点だ。

 正確な日本語を学ぶ前に英語の発音構造をみにつけてしまうことがいいことなのか?日本語の発音や文の学習が妨げられないかということである。そして日本語の発生と音が徐々に崩れていかないかということだ。

 日本人は英語の発音が悪いとよく言われる。それは欧米人からみた日本人の英語がという意味である。

 言霊学からいえば日本人の発音の方が根本言語、哲学的言語である真言に近いのである。

 悪評高いカタカナで覚える英語は言霊学からみれば、英語をネイティブに発音から学ばせるよりはましなのだ。

 英語のカタカナ化を通じて、日本人は日本人の頭で英語を記憶するからだ。

 カタカナの発音は欧米の発音とは異なっているから、最初からカタカナで覚えてしまうと修正しにくくなるという。だから英語の教科書からカタカナが消え、英語教育が効果のある幼児期からネイティブの発音を学ばせることがよいと言われる。

 しかしカタカナで覚えることは既存の知識と関連づけるため覚えやすい。膨大な単語を耳から覚えた発音で記憶することは負担も大きい、やるならどっぷりと他言語につからなければならない。

 かなりの外来語がカタカナで導入され、われわれの記憶もカタカナの発音と結びついている。

 だが、英語の発音と記憶が同じように結びついているだろうか。神経伝達、想起のスピードはどうだろうか。 

 文法まで含めうと英語で考えるようにならないと流ちょうにははなせないと言われるが、そうなると思考が言語と結びつく。

 日本語で考えていたことがそっくり英語で置き換えられると人は考えているようだが、必ずしもそうではないということが分かっている。

 日本語で考えてきたことが、同じように英語で話すのが大変なように、それを英語で考えよと言うならば、今度は思考そのものがたどたどしくなってくる。じつはそこに洗脳の余地もある。

 つまり、日常使っていない言語で考えうことは思考を鈍らせる。外国語の教材を学ぶ中で欧米の思考法を自然と学ぶ機会を与えると言うことができる。

 実は大学で私の英語教師は自分の思想に沿った英語教材を使うことで、私たち生徒を啓蒙しようとしていた。幸い私は英語が苦手だったのでその生徒をしょっちゅう怒らせていた。

 もちろん例外はあるかもしれない。個人の能力、言語の環境、おかれている言語の環境などにより、差違はあるだろう。英語が仕事に欠かせなくなってきている人がいることはよくわかる。

 しかし英語の習得にはメリットがあるばかりではないということは声を大にしていいたい。

 負担が大きく、膨大な時間を費やしてネイティブほどにははなせない。もちろん単語や知識は増やせるだろう。しかしどこかおかしい。しかも母国語と同等な会話能力、読書能力を終生維持するのはかなり困難である。日本人にとってさえ年をとると漢字を忘れ、言葉を忘れるようになってくる。

  多くのビジネスマンに英語が必要なことを否定するつもりはない。また多くの文学や科学が英語に翻訳されており、英語ができなければ実務上難しいということも分かっている。

  しかし、いま私は英語をほとんど使っていない。そして私のように日々の生活で使っていないと忘れる。そのような日本人がかなり多いのではないだろうか。そうした人々の日本語の基本的な能力をリスクにさらしてまで、幼児期から英語教育が必要なのだろうか。

 必要と思う人々は学ばせればいいが、一律に行うことは反対したい。

 もし幼児期に英語を勉強させるとすれば会話や音よりも、日本語化されている英語や、その語源などを日本語、カタカナ、イラストを交えて教えるにとどめた方がいい。

 苦労するのは単語であり、英語の不規則性、熟語、慣用的表現である。

 語源の派生等を幼児期に学問的に学んでおけば、後の単語の学習を加速する。

 また英語に限らず、発音記号などにも親しませておくほうがよい。私はまともに発音記号を学んだ記憶がない。それぞれの発音は口腔内の構造を知って発音したほうがいい。ルはこう発音するとやってみせるだけでは不十分で、横断図で示し、日本語との違いを視覚と聴覚で覚えさせる。どうしても発音を教えたければ、そのことに学者の異論はないだろう。

 英語とは基本となる言語体系が違う上に、単語の類似性が外来語以外ほとんどない。

 本となる言語がラテン語なりギリシャ語であったなら類推が働く。

 ところが幼児期から海外にいた子女はこのハードルを難なく越えているように見える。

この見えるというところが大事で、できている用に見えても、日常会話はできても、複雑な会話になると、どちらも中途半端であることが露呈する。ここが帰国子女が言語で苦労するところだが、あまりクローズアップさえていない。帰国子女にとってここは深刻な問題になることがある。

 結論から言うと同時に二つの言語に習熟し続けることは一部の言語的な才能のある人をのぞいてはかなり難しい。

 ある程度の会話能力は維持できても、一定以上はどちらかの言語が危うくなっていくとともに、知識や思考もその言語に関連して修得されるため、日本語で考えたことが、英語で話し始めると言葉が浮かんでこないために明確さを欠くことが起きる。一日英語にひたっていて、日本の感性や繊細な表現ができる感覚を維持するのは難しい。

 むろんその程度や能力は個人差があるが、日本語と英語の場合このギャップが大きく、負担も大きい。

 アメリカはこのことを分かっていて英語を戦略的に使っていて日本にも押しつけてくる。英語支配の構造である。

 日本の教育者がこれに押し切られて幼、あるいは知らずに鵜呑みにして児期から英語教育をすべての国民に押しつけるのは、日本という国にとってデメリットが大きい。

知識は与えればメリットがあるというものではない。

与えた知識は脳内で化学反応を起こし、人格を形成する。

知識は多ければよいと言うものではなくて、どんな知識を記憶させるかが重要である。

かつて日本の文化は天変地異で壊滅し、大陸から知識を輸入せざるをえなかった。そのため日本に残っていたやまとの文化も変質し、漢文化を基本とする文化が隆盛を極め、それとともに仏教が伝来して、日本の言語と信仰と政治が崩壊した。

我が国に残っていたのはこの崩壊後の世界から日本がなんとか再興されてきた歴史だけである。

欧米文化の輸入は今日も必要であるが、日本の言語と文化は守らなくてはならない。それは着物を着るとか、お茶をならうというレベルではない。

言霊学に基づいた言語を立て直し、国民に普及させ、日本の太古の文化が世界宗教の源流であることを示さねばならない。

ところが英語教育はこれに逆行している。

王仁三郎はこれに対してエスペラントを提唱している。エスペラントの学習も簡単ではないが、英語よりは論理性があり、日本語の発音に近い。このことが日本語破壊を軽減する。日本人としてはこれが精一杯の譲歩である。

言語と思考については研究が不十分である。日本の言語学者は海外の文献から海外の言語学を日本に導入するので精一杯であるが、日本語を基準として外国語を研究したものは皆無に近い。

だれもやらぬなら私がやるしかないのか?

せめて大本の信仰者から言語学者が出ればよいのだが。

われわれ日本人は漢字の導入で、儒教、道教などの思想を導入し、漢文化した仏教の導入で、政治の根幹である天皇への信頼を失った。このことが日本の災いになったことは一部の人しか理解していない。

今日また英語を導入し、漢文化で変質した日本語がさらに変質しようとしている。

日本人の脳が溶けてゆく。

英米文化に浸かった官僚が、アメリカに留学し、原理主義的自由主義に洗脳されて帰ってくる。

TPPを何の疑いもなく受け入れるように洗脳されてしまう。

やまとの言霊が脳に入っていると、そう簡単には信じない。

 

 


TPP

2019年02月28日 | Weblog

 王仁三郎の意見では自給自足を世界的にまで広げていくという世界経済の進展政策が示されているが、TPPは自給自足を破壊してから世界経済流通優先で物事をすすめようとしている。これはものごとの進め方が間違っている。こんなものを国の政治家や官僚がありがたがって国を豊かにすると信じているならそれは妄想である。古いものを熟成させて転換してゆくということと農業などの一次産業の保護をなくして進展させるという事とは話が違う。異なった道を探すべきである。農業は育てるという魅力がある。それをAIやロボット技術と結びつけ、貧困な国への援助と結びつけなければならない。経済を考え、いまのところ単なる持ち出しだけにならないよう考えなければならないが、国内の貧困から世界の貧困、優良な人材の支援などはかかせない。

 日本は武器を売らない。また、ただ技術を売るだけではない。麗しき日本の習慣を造り、人を作りWinWinの関係を築いていくことが肝要である。

 国内問題が山積みになったのは政治家と官僚の顔の向ける方向が間違っているからだ。天皇陛下は金もうけをもっとせよとおっしゃったか。

 政治家は生活に困る人、被災者になにをしたか。

 アメリカの圧力がないのになぜ日本はTPPを勧めるのか。

  経済ブロックの形成は重要だが、TPPはルールを見直すべきである。

 


言霊、情操教育

2019年02月27日 | Weblog

情操教育等という言葉を使っている限りは情操教育はおぼつかない。おもいやり、きくばり、等できるだけ平易な漢語を使わない教育が必要だ。

日本語本来の力というのが、やまとことばにあって、まずは脳に大きな影響をあたえる。今のところこうした研究は皆無に近い。

外来語の使用は否定しようもないが、大和言葉の発掘と使用は国語学者の急務であり至上課題だ。

やまとに大和と当てるがごとき使用もなるべくは控えたい。

これは国粋主義的な思いからではない。

私たちが魂の力を発揮したければ、やまとことばを再興して、自らの魂に力を与えなくては成らない。

これは翻訳に傾く学者には困難であるし、門外漢には関心が薄い。

一音一音に意味があり、それは言葉に魂と宇宙の学びが込められている。

音声は空気を振動させ、伝搬する。身体を振動させる。脳に振動が伝わる。

欧米を基準とした言語学ではなく、日本語からみた言語学を構築するべきである。

その際、平安時代の音声が必ずしも正しいとは限らない。古いからいいとは限らない。

本来の日本は一度崩壊し、漢文化を使ってたてなおされたために、やまとの文化はいったん地下にもぐった。

カタカナは漢字から発達したものではなく、音声の響きが腹部に響く形から、あるいはある種の図形から考案されている。

この事実を真実だと知ったときには鳥肌が立つ。

身口意というが、体と心の間に真言があり、それが言霊である。

原始仏教の思想にはあまりないが、これは密教では重視されており、出口王仁三郎も本当の言霊をつかったのは空海くらいだといっている。

密教の継承がなぜ日本におこなわれたか。

これは密教がもともと日本から伝搬していた太古の宗教を仏教に焼き直したものだったからである。

空海は四国で誰かに密教のルーツとなる太古神道の言霊の口伝を受けていたと考えられる。

左手と右手で合わせて音を出す。火足り、水極まり、合わさり音がでる。

音声はもっと複雑だが、息、口腔などの作用で声ができる。息とは意気ではないか。

神の名は唱えることで空気を振動させ、神と同調する。

同調した神名はまさに単なる音声ではなくこの世に現れた神であり、私たちの存在を照射する。

われわれが神名を唱えるというよりも、神名が神であり、われわれの心身を振動させ、振動を広げてゆく。


元号に願う

2019年02月26日 | Weblog

明治、大正、昭和、平成ときて、今の時代に何が必要か、何がかけているか。

仁愛でしょう。

自由といえば聞こえはいいが、弱肉強食の時代。

正義、平等、平和に絡む元号は多いが、

仁愛に由来する言葉はすくない。

仁愛は教える事ができないという人がいる。

さにあらず。

仁愛を注ぎ、人にそなわるものを育てる。物語は仁愛を思いださせる。実行は仁愛を、広げる。

だが、こっか