われわれは言語の研究者ではない。しかし毎日使い長年慣れ親しんでいるものとして、学者の言うことがほんとうにそのとおりなのかどうか振り返ってみることはできる。
言語学者の意見がどうであろうと、意見をいう権利はある。
英語が初等教育に取り入れられるという。
国際化を目指すことと国際的人材を輩するため、またどんな研究でもあるいは仕事でもある程度以上になると海外の文献を読む必要が多くなってきている。その際英語ができないと不利になると言うことである。
だが日本人はなかなか英語を習得できない。
そして言語を二つもつということがどういうことなのか、実際に起きていることを整理したい。
帰国子女がしばしばおかしな日本語を使う、そしてそれを英語に置き換えてはなす。
つまりそれぞれの言語の習熟にはかなりの期間がかかり、おかれている環境と期間によって習熟度が異なる。
両親の影響家庭内でどの程度、どちらの言語を使うのか、混ぜて使うのか、友達同士はどうなのか、学校ではどうなのか。
そしてしばらくたつとどうなのか。
日本に長くいて、日本語を話せるようになり、日本語を話すことが多く、母国語を話す機会がないと、母国語がスムーズに出てこなくなると言う外国人を何人もみた。
つまりいかに修得しても、あるいは、幼児期から母国語を使っていたとしても、その後の環境で言語の使用能力は変化する。
また、年齢を経るにしたがい、複数の言語を維持していくのがつらくなってくるという例も聞いたことがある。このとき母国語にもどるか、あるいは後で学んだ言語に定着するかは必ずしもきまっていない。
こうした研究はバイリンガルなどから相当研究されている。そうした一つの説を取り上げて、政府は英語の幼児教育を勧めようとしているのだが、それを勧めようとしている人たちの多くは英語を必要とする環境にいる。
ところがほとんど英語の必要のない職業に就いている人は想像以上に多い。せいぜい辞書片手に中学英語を使う程度で用が足りているのである。
日本が幼児期から英語教育を始めることで懸念されるのは、日本語の発音がつくられるまえに英語を学ぶ点だ。
正確な日本語を学ぶ前に英語の発音構造をみにつけてしまうことがいいことなのか?日本語の発音や文の学習が妨げられないかということである。そして日本語の発生と音が徐々に崩れていかないかということだ。
日本人は英語の発音が悪いとよく言われる。それは欧米人からみた日本人の英語がという意味である。
言霊学からいえば日本人の発音の方が根本言語、哲学的言語である真言に近いのである。
悪評高いカタカナで覚える英語は言霊学からみれば、英語をネイティブに発音から学ばせるよりはましなのだ。
英語のカタカナ化を通じて、日本人は日本人の頭で英語を記憶するからだ。
カタカナの発音は欧米の発音とは異なっているから、最初からカタカナで覚えてしまうと修正しにくくなるという。だから英語の教科書からカタカナが消え、英語教育が効果のある幼児期からネイティブの発音を学ばせることがよいと言われる。
しかしカタカナで覚えることは既存の知識と関連づけるため覚えやすい。膨大な単語を耳から覚えた発音で記憶することは負担も大きい、やるならどっぷりと他言語につからなければならない。
かなりの外来語がカタカナで導入され、われわれの記憶もカタカナの発音と結びついている。
だが、英語の発音と記憶が同じように結びついているだろうか。神経伝達、想起のスピードはどうだろうか。
文法まで含めうと英語で考えるようにならないと流ちょうにははなせないと言われるが、そうなると思考が言語と結びつく。
日本語で考えていたことがそっくり英語で置き換えられると人は考えているようだが、必ずしもそうではないということが分かっている。
日本語で考えてきたことが、同じように英語で話すのが大変なように、それを英語で考えよと言うならば、今度は思考そのものがたどたどしくなってくる。じつはそこに洗脳の余地もある。
つまり、日常使っていない言語で考えうことは思考を鈍らせる。外国語の教材を学ぶ中で欧米の思考法を自然と学ぶ機会を与えると言うことができる。
実は大学で私の英語教師は自分の思想に沿った英語教材を使うことで、私たち生徒を啓蒙しようとしていた。幸い私は英語が苦手だったのでその生徒をしょっちゅう怒らせていた。
もちろん例外はあるかもしれない。個人の能力、言語の環境、おかれている言語の環境などにより、差違はあるだろう。英語が仕事に欠かせなくなってきている人がいることはよくわかる。
しかし英語の習得にはメリットがあるばかりではないということは声を大にしていいたい。
負担が大きく、膨大な時間を費やしてネイティブほどにははなせない。もちろん単語や知識は増やせるだろう。しかしどこかおかしい。しかも母国語と同等な会話能力、読書能力を終生維持するのはかなり困難である。日本人にとってさえ年をとると漢字を忘れ、言葉を忘れるようになってくる。
多くのビジネスマンに英語が必要なことを否定するつもりはない。また多くの文学や科学が英語に翻訳されており、英語ができなければ実務上難しいということも分かっている。
しかし、いま私は英語をほとんど使っていない。そして私のように日々の生活で使っていないと忘れる。そのような日本人がかなり多いのではないだろうか。そうした人々の日本語の基本的な能力をリスクにさらしてまで、幼児期から英語教育が必要なのだろうか。
必要と思う人々は学ばせればいいが、一律に行うことは反対したい。
もし幼児期に英語を勉強させるとすれば会話や音よりも、日本語化されている英語や、その語源などを日本語、カタカナ、イラストを交えて教えるにとどめた方がいい。
苦労するのは単語であり、英語の不規則性、熟語、慣用的表現である。
語源の派生等を幼児期に学問的に学んでおけば、後の単語の学習を加速する。
また英語に限らず、発音記号などにも親しませておくほうがよい。私はまともに発音記号を学んだ記憶がない。それぞれの発音は口腔内の構造を知って発音したほうがいい。ルはこう発音するとやってみせるだけでは不十分で、横断図で示し、日本語との違いを視覚と聴覚で覚えさせる。どうしても発音を教えたければ、そのことに学者の異論はないだろう。
英語とは基本となる言語体系が違う上に、単語の類似性が外来語以外ほとんどない。
本となる言語がラテン語なりギリシャ語であったなら類推が働く。
ところが幼児期から海外にいた子女はこのハードルを難なく越えているように見える。
この見えるというところが大事で、できている用に見えても、日常会話はできても、複雑な会話になると、どちらも中途半端であることが露呈する。ここが帰国子女が言語で苦労するところだが、あまりクローズアップさえていない。帰国子女にとってここは深刻な問題になることがある。
結論から言うと同時に二つの言語に習熟し続けることは一部の言語的な才能のある人をのぞいてはかなり難しい。
ある程度の会話能力は維持できても、一定以上はどちらかの言語が危うくなっていくとともに、知識や思考もその言語に関連して修得されるため、日本語で考えたことが、英語で話し始めると言葉が浮かんでこないために明確さを欠くことが起きる。一日英語にひたっていて、日本の感性や繊細な表現ができる感覚を維持するのは難しい。
むろんその程度や能力は個人差があるが、日本語と英語の場合このギャップが大きく、負担も大きい。
アメリカはこのことを分かっていて英語を戦略的に使っていて日本にも押しつけてくる。英語支配の構造である。
日本の教育者がこれに押し切られて幼、あるいは知らずに鵜呑みにして児期から英語教育をすべての国民に押しつけるのは、日本という国にとってデメリットが大きい。
知識は与えればメリットがあるというものではない。
与えた知識は脳内で化学反応を起こし、人格を形成する。
知識は多ければよいと言うものではなくて、どんな知識を記憶させるかが重要である。
かつて日本の文化は天変地異で壊滅し、大陸から知識を輸入せざるをえなかった。そのため日本に残っていたやまとの文化も変質し、漢文化を基本とする文化が隆盛を極め、それとともに仏教が伝来して、日本の言語と信仰と政治が崩壊した。
我が国に残っていたのはこの崩壊後の世界から日本がなんとか再興されてきた歴史だけである。
欧米文化の輸入は今日も必要であるが、日本の言語と文化は守らなくてはならない。それは着物を着るとか、お茶をならうというレベルではない。
言霊学に基づいた言語を立て直し、国民に普及させ、日本の太古の文化が世界宗教の源流であることを示さねばならない。
ところが英語教育はこれに逆行している。
王仁三郎はこれに対してエスペラントを提唱している。エスペラントの学習も簡単ではないが、英語よりは論理性があり、日本語の発音に近い。このことが日本語破壊を軽減する。日本人としてはこれが精一杯の譲歩である。
言語と思考については研究が不十分である。日本の言語学者は海外の文献から海外の言語学を日本に導入するので精一杯であるが、日本語を基準として外国語を研究したものは皆無に近い。
だれもやらぬなら私がやるしかないのか?
せめて大本の信仰者から言語学者が出ればよいのだが。
われわれ日本人は漢字の導入で、儒教、道教などの思想を導入し、漢文化した仏教の導入で、政治の根幹である天皇への信頼を失った。このことが日本の災いになったことは一部の人しか理解していない。
今日また英語を導入し、漢文化で変質した日本語がさらに変質しようとしている。
日本人の脳が溶けてゆく。
英米文化に浸かった官僚が、アメリカに留学し、原理主義的自由主義に洗脳されて帰ってくる。
TPPを何の疑いもなく受け入れるように洗脳されてしまう。
やまとの言霊が脳に入っていると、そう簡単には信じない。