リクン

山東半島観光、山東半島ゴルフ旅、山東半島生きる、山東半島生活情報などをお伝えします。

成山頭日主神祠

2019-02-04 11:06:07 | 旅行
威海栄成成山頭の日主神は「史記・封禅書」にあった。その中で日主神は山東(春秋戦国時代の齋国)八神ー天主神・地主神・兵主神・陽主神・陰主神・月主神・日主神・四時主神ーの一つとしてあげられる、又は「成山は齋の国が太陽を崇める、特別場所である」と記されているのである。
古来より、成山頭は日神の住む地と考えられてきました。史記には、姜太公が周の武王を助けて天下を定めた後、ここに来て日神を拝み、日神祠を作った話。秦の始皇帝が紀元前219年と210年に来臨し、ここを「天尽頭(=天の果て)と呼んだ話、秦の始皇帝は太陽が真東から登ると、齋の神を祭ったわけですよね。齋の日主神を祭った話は古代封禅の一つである。今まで成山頭は秦の始皇帝の七刻石の一つ成山頭秦刻石の模刻が見られる。漢の武帝が東海を巡視し、日の出を拝んで、成山日主祠に参り、成山観を建てた話が記載されているほか、神話や伝説も多く残され、この地に神秘的な色合いを添えています。
成山頭は徐福の海を渡った話が残されている。成山頭始皇帝廟にて秦の始皇帝、宰相李斯、徐福の神位が供えて2000年を渡って祭祀を行われている。成山頭は戦国時代の『孟子・梁惠王』に記録されているのが最古とされる。『孟子・梁惠王』:“昔者齊の景公、晏子に問うて、曰く、吾転附朝舞を観て、海に遵、而うして南瑯琊に放らんと欲す。吾何を修めて而うして以って先王の観に比す可き。”注:転附は芝罘、朝舞は成山の地、皆山の名。秦の始皇帝と漢の武帝の巡礼は瑯琊から北上して芝罘、成山頭。
前567年、齊の霊公は山東半島の東莱を滅亡して、山東半島が齊の支配下領土であります。東莱は東夷民族の一つである。東夷時代は石器時代から、夏、殷商、周、春秋時代を経て終了。齊は東夷の継承者として東夷の八主の神が篤く崇敬された。今、成山頭は中国観光名所として人気がある。
莱芜北西部の“嬴城遺址”の文物によると、秦の先祖は西周初年の叛乱の失敗で甘肃に移住させた。秦の先祖は“商奄の民”,商奄は山東省の曲阜、莱芜の辺りでは,古代には嬴と呼ばれて、嬴姓の部族の支配地である。商奄は東夷民族の一つである。秦も東夷民族の継承者である。秦始皇帝は山東ハ主の神の祭祀を行われ、極めて重要な行動が執ったわけである。齊の人たちもその行動を見て秦というあるいは秦の帝王という権力者を受け入れたかもしれません。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿