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グラース フラゴナール美術館 作品忘備録

2024-10-11 21:22:43 | フラゴナール
ジャン=フランソワ・コスタは、グラースで生まれ、フラゴナールという偉大な画家の影響を受けて育ちました。彼の家族は香水業を営み、フラゴナールの名を冠した会社を設立。フラゴナールへの情熱を持ち続けたコスタは、彼の作品や18世紀フランス芸術の収集に努めました。そして、グラースに博物館を設立し、ジャン=オノレ・フラゴナールや他の地元アーティストの作品を展示し、訪問者とその喜びを共有したいと考えました。

 


鳥かごから鳥を解放する少女 油彩(楕円形) 80 x 64 cm

この絵画は、肖像画とジャンル絵画の両方で、正確なタッチで描かれています。モデルはロボリー姉妹の一人で、マリー=カトリーヌを描いています。彼女はアンドレ・ヴァサーレの愛人で、彼の別荘には彼女と姉妹の肖像画が飾られていました。著者はこの絵がフラゴナールの作品である可能性を示唆しています。絵にはリボンで結ばれた鳩が描かれ、愛への忠誠心を象徴しています。一部の著者はモデルに疑問を呈していますが、具体的な証拠があります。


 

 




クロード=ニコラ・ルドゥーがルーヴ・シエンヌ城の別棟として建てたパヴィリオンのサロンのひとつを飾るために、デュ・バリー伯爵夫人に依頼された14枚のキャンバスのセットである。フラゴナールは、愛のさまざまな段階を描いた4枚の大きなパネル、「追い求める愛」、「驚き」、「王冠をかぶった愛」、「友としての愛」を制作した。さらに、花のモチーフをあしらった4枚の装飾パネルと、さまざまな姿勢のプッティを描いた4枚の正方形に近い扉の上部の装飾パネルがある。理由は不明だが、この装飾はデュ・バリー伯爵夫人に拒否され、デュ・バリー伯爵夫人ジョセフ=マリー・ヴィエン(Joseph-Marie Vien 1716-1809)に別の連作を依頼した。パネルはフラゴナールに返却され、画家が従兄弟のモーベールから借りていたグラースの別荘のサロンに飾られた。何度か所有者が変わった後、1915年にコレクターのフリックが入手し、以来ニューヨークのフリック・コレクションに収蔵されている。ペアは、上記の4つの主題のうち2つを取り上げ、画家や彫刻家によって、また18世紀の颯爽とした文学においても頻繁に描かれた、愚かで、気まぐれで、反抗的な属性を備えた子供のキューピッドの行動を描いている。最初のグワッシュ「L'Amour folie」は、葉を蒔くキューピッドを描いている。2枚目の「L'Amour en sentinelle」(別名「L'Amour au buisson de roses」)では、弓で武装したプットが待ち伏せており、人差し指を唇に当てて沈黙を命じている。それはからかうような愛であり、見え隠れし、瞬間的に現れる準備ができている。また、メータスターゼの有名な戯曲のように、檻に入れられることもある不遜な愛でもある。最後に、パルニーの詩にあるように、「薔薇を見て、そこで休んでいる/幸せなのか、/気まぐれな恋人よ、/突然、他の遊びに飛んでいく」蝶に匹敵する愛である。フラゴナールは何度かキューピッドをテーマにしている。詩人サッフォーの愛の言葉に感銘を受けたり、昼の寓意として矢を放つ準備をしたり、夜を擬人化して眠ったり、最初のキスの幸福のために翼を犠牲にしたりする独創的な姿が見られる。ジャン=フランソワ・ジャニネット(Jean-François Janinet 1752-1814)はこの2つの作品の版画を制作した。




絵画「緑のリボンをつけた少女」は、フラゴナール美術館に貸し出されており、マリー=カトリーヌ・コロンブを描いたとされています。光の使い方や筆致から、フラゴナールの後期の作品と考えられます。マリー=カトリーヌは、ヴェネツィア生まれで18世紀パリのイタリア喜劇の女優。彼女はフラゴナールの絵画にも登場し、彼女の愛人アンドレ・ヴァサーレが建てた「パビリオン・コロンブ」にもその肖像が飾られていました。彼女は1830年に亡くなりました。


ジャン=オノレ・フラゴナール (グラース、1732年 - パリ、1806年)
フラゴナールは、1732年にグラースで生まれた際、自然が笑って「自分で何とかしなさい!」と言ったと繰り返し語っていました。 幼少期にプロヴァンスを離れパリに移ったジャン=オノレは、母親の希望で公証人としてのキャリアを積むはずでしたが、母親はすぐに息子の絵の才能を妨げることは無意味だと理解しました。彼は次々と18世紀の偉大な画家たち、ブーシェ、シャルダン、ヴァンローの弟子となり、20歳でローマ賞を見事に獲得しました。
彼はイタリアでの滞在を準備するために4年間を過ごした保護生徒学校や、1756年から1760年まで在籍したフランス・アカデミー・ローマ校で、絵画とデッサンの技術を磨いただけでなく、過去の巨匠たちの歴史も学び、当時の最も堅固な絵画文化を身につけました。彼の作品には、レンブラントやカスティリオーネへのオマージュが散りばめられ、愛好家たちを喜ばせました。
コレクターたちのおかげで、彼は公式なキャリアを追わずに済みました。1765年に王立絵画彫刻アカデミーに認められ、ルーヴルに居を構えた2年後にはその道を捨てました。
熱心な愛好家たちに愛され、サン=ノンが彼の研究を熱心に支援しました。彼は彼らのために『ぶらんこ』(ロンドン、ウォレス・コレクション)、『幻想の人物像』、18世紀の最も技巧的な肖像画、レンブラントに挑戦した老人の頭部、ルイスダールに敬意を表したオランダ風の風景画、そして『乳母訪問』のような社会的関心にユーモアと機知で応えたジャンル絵画を描きました。
『閂』(パリ、ルーヴル美術館)の作者の人生を彼の登場人物たちと混同するのは誤りです。彼は1769年に結婚したマリー=アンヌ・ジェラールと共に、ロザリーとアレクサンドル=エヴァリストの父として、真の芸術家の家系を築きました。1806年に彼が亡くなった後も、義姉のマルグリット・ジェラール、息子のアレクサンドル=エヴァリスト、孫のテオフィルがグラースの巨匠の名を高く掲げ続けました






ジャン=オノレ・フラゴナール 『幼子を見つめる若い夫婦(乳母訪問)』 1768年頃
「フランスのレンブラント」とも称されるフラゴナールは、この家族のシーンを比類なき情熱と技巧で描きました。このシーンは、当時流行していたサン=ランベール騎士の小説『サラ・ト…』の一節を描いているとされています。この小説は、名家の若い娘が愛のためにスコットランドの農夫と結婚する物語です。彼女は当時の多くの母親とは異なり、ルソーの原則に従って自ら子供たちを育てました


 


ジャン=オノレ・フラゴナール
『策略の犠牲』
1785-1788年頃

『策略の犠牲』は、アモールの喜びの中で処女の喪失を祝う作品です。この作品は、おそらくフランスの詩的なイメージの中でも最も美しいものの一つです。若い娘の姿と、ベルニーニの『聖テレサの法悦』(ローマ、サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会)や、ウィーンの美術史美術館にあるコルティールの作品に影響を受けた構図が見られます。恋人たちは、レンブラントの『聖家族』を思わせるような姿で描かれています(サンクトペテルブルク、エルミタージュ美術館)。









ジャン=バティスト・マレ
『産後の食事』
1791-1793年頃。グワッシュと水彩

マレが革命期にイタリアで制作したグワッシュの作品群は、彼の判断力と禁忌に対する感覚を示しています。これらの作品は、彼がどれほど時代の出来事に影響を受け、その作品に反映させたかを物語っています。例えば、フランスの聖職者が信仰を守るために隠れて礼拝を行っていた様子を描いた作品や、優雅な女性たちが橋の上で過ごす様子を描いた作品などがあります。これらの作品は、革命によって生活が一変したフランス人の一部の姿を描いています













**ヴィーナスとアドニス、愛に囲まれて**
木に油彩
36.5 x 44.5 cm
このシーンは、さまざまな仕事に従事する小さな愛の神々に囲まれたテラスにいる若いカップルを描いています。女性の体は、古代の彫刻された祭壇に寄りかかって小さなスツールに座っている状態で、透明なヴェールを取り除く愛の神によって裸にされています。彼女は右手で別の愛の神を持ち、その顔は彼女に向かっており、彼は彼女の唇にキスをしています。彼女は金髪の巻き毛に花の冠をかぶせようとしています。ポーズは官能的で、彼女は足元に倒れた銀のアンフォラの中身を飲んで酔っているかもしれません。
彼女の前には、赤いドレープを肩と背中に無造作にかけた若い男性が立っており、そのドレープは性器をかろうじて隠しており、右腰に折りたたんだ腕でそれを支えています。彼は手にカップを持ち、彼の前で飛んでいる愛の神が金色の液体でそれを満たしています。もう一人の愛の神は彼の足元にいて、若い女性に向かって彼を押しているようです。彼の後ろには、主人が儀式を終えて狩猟の活動に戻るのを待っているように見える2匹の犬がいます。
このシーンの主要な2人の登場人物は、神々のように美しいです。女性の肌は磁器のようで、その形は完璧です。男性の体は彫像にふさわしいものです。そして、これはヴィーナスとアドニスの愛の物語の中心的なエピソードであり、ヴィーナスが恋人と共にイドリアン山で数日を過ごすことを決めたときのものです。これは有名なカップルの最も幸せな瞬間です。まもなくアドニスは死に、ヴィーナスは若い恋人の喪失に絶望的に泣きます。
この構図で、マレは17世紀と18世紀の他の芸術家とは異なり、ヴィーナスがアドニスに夢で現れ、彼らの愛が生まれるというこの物語の始まりを描くことを好みました。私たちの画家は、ネオクラシックの趣味に応え、登場人物を古代の彫刻のように描き、古代風の詳細を散りばめています。パンの頭を持つヘルメスがこの幸せな瞬間を見守り、ヴィーナスが寄りかかる古代の祭壇(マレや他の芸術家が非常によく使用する)や、ローマ帝国の古い建物の敷石などです。







ジャン=バティスト・マレ 『結婚における幸福の道』
労働と経済の天才は、結婚の車を幸福の神殿へと勝利に導くことができます。愛、尊敬、友情が調和の先導のもとに加われば、結婚の旅は幸福の神殿に確実に到達します。
1810-1815年頃
これらの二つの寓意的なシーンの解釈は、芸術家の同時代人を困惑させましたが、マレが専門家のボン=トマス・ヘンリーに意図を伝えたことで明らかになりました。ヘンリーは、マレを「我々の輝かしい学校の中で最も優雅で巧妙な画家の一人」と称賛しましたが、同時に彼自身の結婚観も表現していました。


ジャン=バティスト・マレ

両親であるルイ16世とマリー・アントワネットの墓の前にいるアンゴレーム公妃

1814年 油絵

1814年、「百日天下」の間に制作されたこの作品で、ジャン=バティスト・マレは王族の娘である故人、通称「タンプルの孤児」であるマダム・ロワイヤル(公妃)がパリに戻り、仮想の記念碑の前でひざまずく場面を描いています。贖罪礼拝堂の構想は数か月後に実現されましたが、その中でルイ16世とマリー・アントワネットの姿が浮き彫りで描かれています。版画家のデブークールは、マダム・エリザベートの横顔や劇的な引用文を追加しました。

「最も愛しく神聖なる亡霊たちよ! あなた方が見るのは、私の心が痛みの中でひそかに交わす思いです。私は私の涙であなた方の墓を濡らし、私の苦しみが終わる日をただ待っています。」














 

**出産後の朝食**
グワッシュと水彩
325 x 405 mm
荒廃した広い部屋の中で、裸に近い若い女性がベッドに横たわり、スープの器を持って近づいてくる召使を待っています。彼女は胸を完全に開いたシャツだけを着ており、腹部も露出しています。片方の脚はベッドに伸ばされ、もう片方は横に垂れています。彼女は左手で布を押し付けています。ベッドは乱れており、暗い衣服が近くの椅子に置かれています。部屋はアーチ状で柱があり、崩れた壁の向こうには荒れた庭が見えます。同じ壁にはニッチがあり、上部が壊れていて、裸で腕のない古代の男性神像が収められています。床のタイルは白、ピンク、灰緑色の大理石の大きなタイルで構成されています。

装飾の要素や家具はマレの作品によく登場します。椅子やエジプトの頭を装飾した低いビュッフェ、揺りかご、カーペットをかけたテーブル、小物類などです。マレは異なるグワッシュ作品で同じ装飾を使用しています。「若い母」、または「幸せなイタリアの家族」(1952年12月6日にシャルパンティエ画廊で展示され、1966年3月にガリエラで販売された)、「農家の家族」(パリ、コニャック=ジェイ美術館)、「乳母への訪問」(かつてシャルパンティエとカイユにあった)です。

このありそうにない装飾の中で、若い女性に料理を運ぶ召使のキャラクターも同様に信じがたいです。エレガントな外見、美しい姿勢、優雅なシニョンにまとめられた髪、十字架を飾った美しいイヤリング。赤いローブ、黄色いカラコの袖、青いコルセット、特にレースのエプロンの透明感が目立ちます。この衣装のいくつかの要素は、ローマ近郊の田舎の女性の衣装を思い出させます。

このグワッシュは「小説のシーン」というタイトルでアート市場に登場し、イラスト作品を示唆しています。どの小説かは不明ですが、この作品のテーマについて考えると、若い女性に以前何が起こったのか、そして何が彼女に起こるのか疑問が湧きます。同じアーティストの他のグワッシュ作品と比較すると、これらはすべて同じテーマの異なる段階に関与している可能性があります。それは誘惑の物語です。このシーンの続きは「結婚契約」や「洗礼式」(2004年にグラースで開催された画家に捧げられた展示会で紹介された)かもしれません。「洗礼式」では、同じ召使が新生児の名付け親として登場し、古代の洗礼堂の中にあり、私たちの作品と同じ大理石の床が描かれています。そして、文学の領域に留まるなら、この作品をアレクサンドル・デュマのコレクションの一部と見なすことも可能です













また追記して行きたいです。
20240921訪問



初めてお会いしたBotticelli とイタリア・フォルリで何度目かの再会 240728

2024-09-08 01:49:00 | ボッティチェリ
(思考か飛んだ内容)
初めてボッティチェリと出会ったのは
京都で開催されたイタリア・ルネッサンス美術展
 
🔗初めて西洋美術を鑑賞した美術館。中学生3年のころ
美術室の図録でお会いしたボッティチェリに傾倒
 
受験中でしたがぜったい行きたい!と言って母親と一緒に大阪から京都まで
おそらく絵画鑑賞も初めてだったと思う
 

カタログは実家にあります。
本当にお美しい
 
その後ウフッツィ美術館(約10回訪問)
東京美術館のウフッツィ展https://www.tobikan.jp/exhibition/h26_uffizi.html
等、一番お会いしている絵画です。
貸し出しが多いのかな
 

今回出展されたボッティチェリ(二点は模写です)

こちらはミュンヘン地元東駅から
今回のイタリアは電車で入ります。

Forli駅前にロセッテイがお出迎え

炎天下の中、バスと歩きで紆余曲折しつつ、なんと美術館は時間待ちもありましたが
入場。素晴らしいルネッサンス期の絵画もありましたが、すぐ目についたあなた様

いきなり中央で再会



再会。(ラファエル前派も好きなのですが・・後ろに素晴らしいバーンジョーンズ・・)

光が入るので横から撮影




 
好きな望遠風景
 
 
昔、美術の先生が鑑賞する時には足元に注目するとおっしゃっていた

私は足元にこだわらいが
ボッテチェリの足元が好き…必ず注目




そして、レースの透け感は写真では伝わらないが、絵の前に立つとその美しさに目眩がしそうになる。



有名な『プリマヴェーラ』の絵はその最大の作品。メルキュールの視線の先にこの絵が掲げられたという説を聞くと、嬉しさのあまり卒倒しそうです


宝塚で開催されていた「ルネッサンスさろん」の講義の中で新プラトン主義の説明を皆がうっとりされていた事を思い出した

後方のバーンジョーンズも鑑賞して
名残惜しいけど他の部屋へ
この後、最大のラファエル前派の絵画に触れてトランス状態
またまとめられると良いな

 
↑(ちょっと横道にそれます)
最初に絵の飾られていた場所はカブール通り
リカルディ宮殿かな?
通った語学学校もその通りにあった。
今は引越ししてしまったけど、邸宅の中に学校があり、
自由参加の美術講座、教会訪問、美術散策など
楽しかった
 
最近フィレンツェに行き東洋人の中にイタリア人の先生がいらして撮影を頼まれた
日本人かとおもえば韓国人のグループですた。
ブディックでは語学学校の手提げ袋に以前の学校の名前がプリントされた方々に声をかけたけど
日本人ではなく…咄嗟にイタリア語も出なく、寂しい気持ちになった。
 
 
 
美術史の先生はとても大好きで
日本に帰ってもやりとりして旅行でフィレンツェに行き講座に参加したり
今はどうしていらっしゃるのかしら
 
 
 

『e Brasiliana』

Carissima !Grazie per ricordarsi di me.Sento mancanza da cuelo tempo di studiar…

Meravigliosoな日々

 
この先生ともう1人のSassia先生
2人はfacebook、もう1人は震災の時に家🇮🇹に来なさいとメールが…。
懐かしい話しに飛んでしまったね


2021年5月に訪問したロベレートのボッティチェリ展
 こちらでもお会いしていました。
 
  • フィレンツェのウフィツィ美術館に所蔵されている絵画。
  • 湖や海の風景を背景に、ミルトの冠をかぶった優雅な女性が描かれている。


  • 左手に豪華な装飾が施された重いハルバードを持ち、右手でケンタウロスの髪を掴んでいる。
  • ケンタウロスは弓と矢筒を持っているが、弓の弦は張られていない。
  • 絵画は元々板に描かれていたが、現在はキャンバスに移されている。
  • 1498年のメディチ家の財産目録に「Chamiloとサティロが描かれた絵」として記載されている。
  • 一部の学者は、この女性を『エネイード』に登場する勇敢な戦士カミラと考えている。
  • 1516年の目録では、正しくミネルヴァとケンタウロスとして記載されている。
  • ミネルヴァは知恵の女神として描かれ、ケンタウロスは動物的な衝動を象徴
  • 絵画の依頼者はロレンツォ・デ・メディチで、彼の息子ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)も関与している可能性がある。女神の衣装に絡み合ったダイヤモンドの指輪にあります。これらはロレンツォ・イル・マニフィコの特有の紋章であり、後に彼の息子ジョヴァンニ(後の教皇レオ10世)によっても使用されました。
  • 絵画は1482年の結婚祝いとして制作されたと考えられている。この絵画が制作されたのは、メディチ家が長い間準備していた結婚式のためである可能性があります。具体的には、1482年7月19日に行われた、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ(彼の従兄弟であり養子)と、ピオンビーノの領主ジャコポ3世・デッリ・アッピアーニ・ダラゴーナの娘セミラミデとの結婚式です。この日付は、絵画の制作が結婚式の贈り物として考えられるため、制作の最終期限となります。
  • ボッティチェッリがシスティーナ礼拝堂のフレスコ画を描いた後に制作された可能性が高い。ボッティチェリがシスティーナ礼拝堂のフレスコ画制作の後にローマから戻った直後にこの絵画が制作されたことは、ケンタウロスと『コラの罰』や『モーセとアロンの石打ち』の悪魔的な人物像との間の様式的および形態的な類似点によって確認されます。これらは、サンドロが教皇シクストゥスの礼拝堂で制作した3つのフレスコ画の最後のものであり、ウフィツィ美術館のキャンバスの風景にも前兆が見られます。
 
今回訪問したラファエル前派の展覧会の図録
 

 
 


(かなりの重量の図録…これをカートに入れイタリアを回った
ミュンヘンで知り合った↑イタリア人友達の論文はロセッティ
…お茶に呼ばれて持参したとき息子ダヴィデのダンベル💪になった)

要約

この作品は、15世紀末にフィレンツェのヴィア・ラーガにあるロレンツォとジョヴァンニ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの宮殿に所蔵されていたことが証明されています。その後、19世紀にカステッラの別荘に移され、パラッツォ・ピッティで再発見されたのはその世紀の終わり頃で、どうやらイギリスの画家ウィリアム・ブランデル・スペンスの指摘によるもののようです。それ以来、この作品は美的な熱狂と無限の批評的議論の源となっています。画家の他の神話的寓話と同様に、文学的、哲学的、政治的賛辞の解釈は数多く存在し、実際、それらの解釈は異なるニュアンスを持ちながらも、必ずしも互いに矛盾するものではありません。それは、サンドロや少し後の若きミケランジェロが自由に活動していた、ネオプラトニズムの思想に彩られた高い知的環境の文化的刺激の豊かさを捉えているからです。

この作品は、限られた鑑賞者のために制作され、その曖昧な意味は古い目録で女性の姿がカミッラ(1498年)やミネルヴァ(1516年)として識別されることに反映されています。流れる髪と透明な衣装をまとった女性は、ケンタウロスに対して優位な役割を果たし、驚きと苦しみをもって捕獲を受け入れます。彼女はパラスの明確な属性を持たず、目立つハルバードとメディチ家の象徴である絡み合ったリングが特徴です。儀式的な緊張感のある雰囲気は《ヴィーナスの誕生》と共通していますが、スタイルはローマ滞在時(1481-1482年)に近いです。
 
 
また改めて追加予定・・かも・・(備忘録)

バルディ祭壇 ベルリン絵画館 240609

2024-08-29 17:51:00 | ボッティチェリ

ミュンヘン近郊教会巡りをすると
このような配置の祭壇(木製彫刻)多いと感じる。

サヴォナーラに影響されたと言うことも頷ける
私は影響も受けた絵画も好みです
(最大に好きな絵画はチェステッロの受胎告知 Annunciazione di Cestello)


足元はボッティチェリの絵画で好きな部分

お花🌺もモチーフ化されている
プリマヴェーラのお花と同じ!
素敵

授乳🤱の聖母は他の作品にもあります

あらこんなところでとびっくり


工房作品?今どちらに?

ミラノのアンブロジアーナ絵画館
(受付でスペイン人と間違われた2007年頃訪問)



2人のヨハネのうち右側のイエスお気に入りの弟子福音記者ヨハネは老人に描かれているのが珍しい、…時空を超えた不思議な構図
祭壇ですから


フィレンツェのサント スピリト大聖堂の家族礼拝堂のためにアーニョロバルディからの依頼を受け、1485 年末に完成。

💻美術館ホームページより
 

この構図は、聖母マリアと幼子キリストが玉座に座り、聖人たちに囲まれている様子を描いたもので、特にフィレンツェで発展しました。

特にこの様式は、15世紀半ばのフラ・アンジェリコによって古典的な多翼祭壇画を近代化する試みとして始まりました。

このスタイルはすぐにフィレンツェ周辺の祭壇画における一般的なモチーフとなり、フィレンツェの商人ジョバンニ・デ・バルディの墓所礼拝堂の祭壇画もその例外ではありません。

彼はロンドンで富を築いた後、1480年代初めにフィレンツェに戻り、礼拝堂の装飾を依頼する際にはメディチ家に相談しました。

礼拝堂はフィリッポ・ブルネレスキによって設計された教会に設置され、建築家としてジュリアーノ・ダ・サンガッロが選ばれました。

そして、画家としてサンドロ・ボッティチェリが選ばれました。

この祭壇画は、ボッティチェリがメディチ家のために制作した他の作品(「プリマヴェーラ」や「ヴィーナスの誕生」など)とは異なり、より宗教的なテーマが強調されています。

例えば、聖母マリアがキリストを授乳する際に胸を隠しているなど、裸体を控える表現が見られます。

背景には植物が細かく描かれており、これはキリストの十字架が作られた木材を象徴しています。

また、聖母マリアは「閉ざされた庭」として象徴され、純潔が強調されています。

この作品は、ボッティチェリが象徴主義的な要素を取り入れ、植物の描写に非常に精密な技術を発揮していることが特徴です。

絵の中央に描かれた架空のパネルには、十字架が描かれており、視覚的な効果を高めています。

この祭壇画は当時の鑑賞者にとって宗教的なメッセージが込められた深い意味を持つ作品でした。



改めてバルディ祭壇を調べてみたらサンタクローチェのジオットの壁画がある祭壇ですね・・遠い日の記憶を思い出すと

短期留学中に夕方の美術史講座に参加したとき、教会の方に話しかけられて、明日はアッシジに行くのよと話した記憶が・・検索していたら昔よく読んだブログがヒット

日本語教師の勉強とイタリアに関してのテンションが高かった40代前半・・懐かしい

 

 

バルディ家の礼拝堂 - 日本語教師のひとりごと Il soliloquio di una insegnante:楽天ブログ

バルディさんちも、ペルッツィさんとこと同じ金融で栄えたおうち。 祭壇画はサン・フランチェスコ。 そういえば、この教会、フランチェスコ自身が建てたらしいわ...

楽天ブログ

 

 

 

 

ジュリアーノメディチの肖像画 ベルリン絵画館 240609

2024-08-28 19:50:00 | ボッティチェリ

2024年6月にお会いした
ジュリアーノメディチの肖像画

ジュリアーノメディチの説明にほぼ登場する



↑2023年8月(撮影)に訪問した時は愛人のシモネッタは修復中


殆どこの絵目当ての訪問だったのにどこ?と学芸員さんにきいたスクリーンショット




2024年6月訪問時はトンドを挟んで並んでいました。
(どの小説か解説か忘れましたが、時を同じくこの世を去り、そして新たな時代に変化していく…事がいつも寂しく感じます)



はじめてベルリンを訪問した2016年2月にもお会いできてなかったようです。
でもどこかでお会いしているかも…
将来追記の予感


聖セバスティアン ベルリン絵画館 240609

2024-07-14 09:19:00 | ボッティチェリ
2024年6月9日 ベルリン絵画館
 
聖セバスティアンの絵を初めて見たのは美術室にあった画集
初めて磔刑図を見た時のように痛々しさを感じます
 
(今思い出した…芸術新潮にセバスティアンの購入記録が書いてあったと思う→次回帰国時に🗾確認したい)
 
ローマの士官セバスティアンは、ディオクレティアヌス帝の護衛として働くためにキリスト教の信仰を捨てなければならなかった。彼が拒否したとき、彼は木の幹に縛り付けられ、写真の背景に見える帝国の射手によって処刑されました。彼らの矢は彼の体を突き刺したが、彼は処刑されても生き延びた。
この絵はフィレンツェのサンタ マリア マッジョーレ教会(懐かしいのために描かれ、その絵は右側の最初の柱に掛けられていました(ベルリン絵画館)
 
 
他の絵画では痛々しそうですが・・ボッテチェリの絵画は呆然としたあきらめ顔のボッテチェリらしい表情

左下の人物が気になります。矢を射った人たちでしょうか

こちらも意味があるのでしょうか?ゆっくり調べます。



船も見えます。

水墨画のような風景。ボッテチェリの後ろに描かれた風景はどれをとっても懐かしさが残る。空気遠近法でしょうか

セバスティアヌスは、ローマ市の3 人の守護聖人の 1 人であり

リオデジャネイロおよびニーダーバイエルン地方の首都ランツフートの守護聖人であり、

聖ペテロとともにファビアン、ヴェストファーレン州のゼルム、上プファルツ州のローディング、フルト・イム・ヴァルトの都市。リオデジャネイロ、実際にはCidade de São Sebastião do Rio de Janeiroでは、聖人の記念日に行列が行われます。

ドイツ語圏で最も重要なセバスティアンの巡礼地は、オーバーバイエルン州エーバースベルクにある聖セバスティアンの旧修道院教会で、聖人の脳箱が中世後期の貴重な聖遺物箱に保管されています。最近訪問したばかり(24.4)鉄格子越しでしたが、お近くにいらしたとは!これはきちんと訪問しなくては!

 


Kath. Pfarramt St. Sebastian  Ebersberg

 




サンタ マリア マッジョーレ教会フィレンツェの大通りにある教会。游学中は休憩スポットとして利用
次回訪問の時には聖セバスチャンのことを思いを馳せる予定
 

興味深い記事を発見!

 

フィレンツェ・ミステリー。錬金術師に石にされた女の謎(イタリア・フィレンツェ) | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

文・写真/佐藤モカ(海外書き人クラブ/イタリア在住ライター) フィレンツェ中央駅から中心街へと向かう大通りに、一つの素朴な教会が建っている。 サンタ・マリア・マッ...

サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

 

 

追記

エーバスベルグに問い合わせたところ

ツアーがあるようです

これはドイツ滞在中に行かなくてば


da ich denke, dass Sie eine Führung haben wollen, setzen Sie sich bitte mit Herrn Warg in Verbindung.

Herr Warg bietet Führungen u.a. in der Kirche an.

Stadt Ebersberg - Stadtführungen

 

Vielen Dank. Bei Fragen können Sie sich gerne bei uns melden.

 

 

Mit freundlichen Grüßen

Franziska Huber

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Kath. Kirchenstiftung St. Sebastian KdöR

Bahnhofstraße 7             

85560 Ebersberg