サンクフルエブリディ・一日一美・日々の出来事いろいろ

日々感じたコト、心も身体も美しくなりますように!

父の事(今日は父の日…命日も近い)その1 

2023-06-18 21:20:41 | 父の事・私の事♪
今日は父の日。

父の命日も近い。

もう…3年になるのか…。

父は令和2年6月に亡くなった。

大正生まれのネズミ年。

年齢から言えば大往生だけれど、父の人生…大変だったな。

父は家が貧乏な事もあり、最終学歴は昔の小学校だった。

それに、修学旅行にも行くことができず、代わりに母親(私の祖母)が、少年倶楽部という本を一冊買ってくれたらしい。

昔は、貧乏人の子だくさんで、また子供のうちに亡くなるものもいて、兄弟姉妹の上と下では親子ほどの年齢差があった。

父の妹が学校にもっていくお金を落とし、そのまま黙っていて学校から連絡があり、怒った父親(私の祖父)がその子を押し入れに入れたままにしていた。

高熱が出ても祖父は「ほっときゃ治る」と言って取り合わず、妹はそのまま亡くなってしまったそうだ。

父は、その妹をとてもかわいがっていたらしいが、そんな時代だった。

今なら、児童虐待で犯罪だ。

父には10歳以上離れた兄(私にとっては、おじさん)がいたが、太平洋戦争で南方にて玉砕、亡くなった。

でも、家に帰ってきたのは、石ころ一つだったらしい。

まあ、父の兄は、戦争に行く前は、歌も上手く楽器もできて口も上手で女性にもモテたというから、太く短く生きたのか…。

写真を見ても、納得かな。

父の兄は、家が貧乏にも関わらず金遣いが荒く散財していたらしい。

でも、父にとってはたった一人の兄…戦争で亡くなってしまい、父は本当に寂しく辛かったのだと思う。

その反動か?父は、酒も飲まず、タバコも吸わず、女遊びもせず、ギャンブルもせず、食べ物にも文句を言わず…正直、何が楽しいんだろうか…って。

たまに癇癪を起して怒鳴ったり物に当たったりしたけれど、暴力は振るわなかった。

父は父なりに辛い事苦しい事…いっぱいあったのだ。

父は、学歴もなかったからか定年プラス数年、キューポラで仕事をしていた。

溶鉱炉の仕事…火傷もしたりしていた。

キツイ・キタナイ・キケン…の3Kだ。

低賃金で体力的にもキツイ仕事だったけれど、給料は全て母に渡していた。

父と母は、よくケンカばっかりしていたけれど、腐れ縁か?どこか良かったところがあったのかもしれない。

本当に仲が悪ければ、もう話す事もないし、そばにも居たくないし、離婚するのが普通だもの。

以前このブログにも書いたけれど、父のいとこの件(殺人事件)の時からも、本当に辛く苦しかっただろう。

普通なら、全て投げ出して、どこかへ行きたかったに違いない。

でも…どんなに辛い事があっても、涙一つ見せず父は頑張った。

本当にスゴイ人だと思う。

父の事をよく知らない人は、いろいろバカにする人もいるかもしれないけれど、本当に真似のできないスゴイ人。

私が小学校の時に、母から「やっちもねー」と言われながら、母とケンカをしてまで、少ない自分の小遣いを貯めていたのか?顕微鏡(小学生にしては本格的)やオルガンを買ってくれた。

友達とか…みんなピアノとか塾、そろばんとか習っていたけれど、私は習字しか習っていなかったので…。

ピアノを弾きたい…という私に、せめてもオルガンを母に怒られながら買ってくれたのだと思う。

小学校の時、父のいとこの件等でのいじめもあって、地元の中学ではダメだと中高一貫校での中学受験をした。

私立ですごいお金がかかるので、親戚とかには悪口を言われたり反対されたりした。

でも、両親はこのまま地元の中学に行ったら、私がダメになってしまうと思ったらしい。

塾にも行っていなかったけれど、ラッキーな事に合格。

小学校時代は、特に勉強もしていなかったけれど、それなりに成績は良かった。

両親は、勉強しろ!とは言わなかったけれど、父は、返されたテスト用紙をずっと保存していた。(今は、どこにいったか???)

楽しいと思っていた中学校生活…。

…が、そんな事はなかつた…。

同じ小学校からその中学校には何名か合格して行っていたし、周りは医者・会社の重役や社長・政治家…の保護者達。

我が家のような貧乏人家庭で…その時は、なぜか皆にも黙っていたけれど、父は工員だ。

親の職業や親の地位・財産…私のヘンなコンプレックスもあったのも事実だけれど…。

いじめ…生徒からだけでなく、教師からも酷い扱いを受けた。

それは今でも忘れない…。

                                                              《続く》
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父の夢を見た…夢判断は?!

2022-02-26 20:34:04 | 父の事・私の事♪
先日、父の夢を見ました。

私は、今まで、父親の登場する夢は見たことがありません。(見たことがあるかもしれないけれど、記憶にはない。)

その内容は…(なぜか、鮮明に覚えている。)

亡くなったはずの父が、家に帰ってきたのです。

とっても疲れた様子でしたが、おだやかな感じでした。

私が

「あれ、お父さん、死んじゃったんじゃあないの?!」

と聞くと、

「わしゃあ、生きとらあ。死んどるはずなかろうが。でも、ぼっけえ疲れとる。」

と言ったので、私も、(夢の中だから)そうなんだ…と納得しました。

「疲れたけえ、寝るぞ。」

と言って、そのまま布団も敷いていないところに横になり、いびきをかいて爆睡しだしました。

私は、

「お父さん、風邪ひいたらいけんけえ、布団かけたげらあよお。」

と言って、布団を、爆睡している父にかけてあげました。

…と、ここで目が覚めました。

別に…怖い感じも、悲しい感じもしない夢でしたし、なんか…後感が、あったかい気持ちになりました。

夢判断…

父親の出てくる夢は、メッセージ性があるとか?!

夢判断のサイトの記事を、いろいろ読んだりもしたのですが、どれにもあてはまらないような感じです。

父の出てくる夢はも初めて?だったので、(それに、亡くなっているし…)どうも、気になって仕方ありません…。

どう、解釈したらよいのでしょうか?!
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父の事

2022-02-21 22:28:52 | 父の事・私の事♪
私の父は、大正の終わりに生まれました。

そして、2020年6月…亡くなりました。

年男の時に亡くなったので、96歳でした。(享年97歳)

父は、本当に苦労ばかりで、もし、私なら、とっくの昔にリタイアしていたと思います。

年齢から言うと、大往生と言っても良いのですが、最後の方は、本当に病院の対応が酷かったです。

父を家に連れて帰って、10日間ほど生きていました。

亡くなる5日前くらいは、一番機嫌も良く、いろいろ話もしました。

誤嚥性肺炎で、病院に入院したのですが、家に帰りたいというので、家に連れて帰ったのです。

連れて帰る時、看護師も医師も、ナースステーション等には一人も居なくて、(土曜日の夕方だったからなのか、この病院は、土曜日の夕方とか日曜日は、救急病院と一応は、なっているけれど、看護師の姿は見えないのです…)『ご退院おめでとうございます。お会計は…』と書かれた小さな紙が、1枚あるだけでした。

病院の寝間着(着物)を着ていたので、兄が、掃除のおばさん?みたいな人(看護師でもないけれど、病院関係の人?)を探してきてもらって、その人に脱がせて、着替えさせてもらいました。

帰りは、車いすタクシーを頼んでいたので、ストレッチャーに載せて連れて帰りました。

父は、苦しそうな顔をしていたので、その時は、疲れたのかなあ?と思って、家のベットでそのままにして休ませていました。

家に連れて帰って数時間後、食事をさせようとした時に、腕には、点滴の針が刺さったままでした。

一応、包帯もありましたが、ほどけた状態でした。

私は、びっくりしました。

私には、どうする事もできないし…もう、真夜中だし…。

翌日曜日は、訪問看護の人が来ることには、なっていたので、待つしかありませんでした…。

父は、どれだけ痛い目をしていたでしょう。

翌日、訪問看護の看護師が針を抜いてくれました。

どうせ、点滴をしなければいけないから、点滴の針だけ刺していたということです。

でも、私は、何も、聞いては、いませんでした。

説明も、一切なかったし、そもそも、医師・看護師…誰一人として、父を家に連れて帰る時、いなかった…。

点滴の針…それも、針は、固定されていなくて、ただ刺さっていたという状態…。

本当に、むごいです。

翌日、訪問看護師の人に針を抜いてもらうと、父は、急に穏やかな表情になりました。

それだけ、本当に痛かったのでしょう。

病院に入院している時も、1日1本500ml100カロリーの点滴だけで、正午には片づけていました。

父だから…父が生きたいと思っていたから…よく3週間、身体がもったのだと思います。

3週間…毎日…1日、100カロリー、500ml…

担当医師でない医師に言うと、「点滴をしてむくむから…」とか大嘘を言っていましたが、むくむどころか、家にいた時は、床ずれも全くしていなかったのに、連れて帰ってみたら、骨に皮がつっぱっている状態で、背中には床ずれ?傷がいっぱいありました。

担当医師からの説明も、医師から日時を指定したのにも関わらず、一度も、時間通りに来たことはありませんでした。

でも、医師という仕事だから…と思う事もあるのですが、一度も待たせたことに謝った事すらありません。

遅れただけでなく、一方的にドタキャンをしても、謝らない。

医者…どれだけ、えらいんだ?!って思いました。

父は、耳が、あまり聞こえなくて、最後の方では、目も見れなくなっては、いました。

でも、頭は、ハッキリしていたし、意思の疎通も、亡くなる数日前までできました。

ただ、かかりつけ医が、父は耳が聞こえないから、質問に答えられなかったのに、「アルツハイマー」とカルテに書いていました。(家に帰って、私が大きな声で、耳元で聞くと、ちゃんと答えられました。知っている魚の名前と野菜の名前)

ちゃんとした検査なしでです。

かかりつけ医に言うと、「アリセプトを出すためのカルテ用の病名を書いただけ」という事です。

(アリセプトは、副作用が強い?から、断って、父は飲んでいません。)

『カルテ用の病名』って、あるのでしょうか?!

おまけに、最初から介護度5ですから…何年も前から…

普通に、デイサービスに行って、碁とか打っていてもですよ!!

もう、無茶苦茶としか…言えません。

かかりつけ医の、それを見て、バカにして?!(バカにするのも、どうかと思いますが)、入院した病院の医師や看護師たちは、父に、酷いことをしたのでは?!と勘ぐってしまいます。

父は、アルツハイマーでもなく、何も分からなかったのではなく、全て分かっていました。

私は、何も分からなかった方が、良かった…アルツハイマーだった方が、父は、その方が幸せだったろうに…と思っているくらいです。

父は、亡くなる数日前に、私に遺言?を言いました。

泣きながらです…。

また、それよりも少し前に、父の言った事は、スマホ・PCに録音してあります。

だから、私は、大学受験をしようと思いました。

私は、介護とか医療に関しては、ずっと疑問に思う事があって、悶々としていましたが、父の言葉で決めました。

父は、家で、私と兄に看取られて、静かにこの世を去りました。

母と義姉も、家には、いました。

亡くなった後の父の顔は、とっても穏やかでした。

病院にいる時の顔は、あまりにも酷かったですが…これもスマホに残してあります。

大学受験…父親への一番の供養だと思っています。

【これから、父の事・私の事…このブログで書いていきます】
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