今日は父の日。
父の命日も近い。
もう…3年になるのか…。
父は令和2年6月に亡くなった。
大正生まれのネズミ年。
年齢から言えば大往生だけれど、父の人生…大変だったな。
父は家が貧乏な事もあり、最終学歴は昔の小学校だった。
それに、修学旅行にも行くことができず、代わりに母親(私の祖母)が、少年倶楽部という本を一冊買ってくれたらしい。
昔は、貧乏人の子だくさんで、また子供のうちに亡くなるものもいて、兄弟姉妹の上と下では親子ほどの年齢差があった。
父の妹が学校にもっていくお金を落とし、そのまま黙っていて学校から連絡があり、怒った父親(私の祖父)がその子を押し入れに入れたままにしていた。
高熱が出ても祖父は「ほっときゃ治る」と言って取り合わず、妹はそのまま亡くなってしまったそうだ。
父は、その妹をとてもかわいがっていたらしいが、そんな時代だった。
今なら、児童虐待で犯罪だ。
父には10歳以上離れた兄(私にとっては、おじさん)がいたが、太平洋戦争で南方にて玉砕、亡くなった。
でも、家に帰ってきたのは、石ころ一つだったらしい。
まあ、父の兄は、戦争に行く前は、歌も上手く楽器もできて口も上手で女性にもモテたというから、太く短く生きたのか…。
写真を見ても、納得かな。
父の兄は、家が貧乏にも関わらず金遣いが荒く散財していたらしい。
でも、父にとってはたった一人の兄…戦争で亡くなってしまい、父は本当に寂しく辛かったのだと思う。
その反動か?父は、酒も飲まず、タバコも吸わず、女遊びもせず、ギャンブルもせず、食べ物にも文句を言わず…正直、何が楽しいんだろうか…って。
たまに癇癪を起して怒鳴ったり物に当たったりしたけれど、暴力は振るわなかった。
父は父なりに辛い事苦しい事…いっぱいあったのだ。
父は、学歴もなかったからか定年プラス数年、キューポラで仕事をしていた。
溶鉱炉の仕事…火傷もしたりしていた。
キツイ・キタナイ・キケン…の3Kだ。
低賃金で体力的にもキツイ仕事だったけれど、給料は全て母に渡していた。
父と母は、よくケンカばっかりしていたけれど、腐れ縁か?どこか良かったところがあったのかもしれない。
本当に仲が悪ければ、もう話す事もないし、そばにも居たくないし、離婚するのが普通だもの。
以前このブログにも書いたけれど、父のいとこの件(殺人事件)の時からも、本当に辛く苦しかっただろう。
普通なら、全て投げ出して、どこかへ行きたかったに違いない。
でも…どんなに辛い事があっても、涙一つ見せず父は頑張った。
本当にスゴイ人だと思う。
父の事をよく知らない人は、いろいろバカにする人もいるかもしれないけれど、本当に真似のできないスゴイ人。
私が小学校の時に、母から「やっちもねー」と言われながら、母とケンカをしてまで、少ない自分の小遣いを貯めていたのか?顕微鏡(小学生にしては本格的)やオルガンを買ってくれた。
友達とか…みんなピアノとか塾、そろばんとか習っていたけれど、私は習字しか習っていなかったので…。
ピアノを弾きたい…という私に、せめてもオルガンを母に怒られながら買ってくれたのだと思う。
小学校の時、父のいとこの件等でのいじめもあって、地元の中学ではダメだと中高一貫校での中学受験をした。
私立ですごいお金がかかるので、親戚とかには悪口を言われたり反対されたりした。
でも、両親はこのまま地元の中学に行ったら、私がダメになってしまうと思ったらしい。
塾にも行っていなかったけれど、ラッキーな事に合格。
小学校時代は、特に勉強もしていなかったけれど、それなりに成績は良かった。
両親は、勉強しろ!とは言わなかったけれど、父は、返されたテスト用紙をずっと保存していた。(今は、どこにいったか???)
楽しいと思っていた中学校生活…。
…が、そんな事はなかつた…。
同じ小学校からその中学校には何名か合格して行っていたし、周りは医者・会社の重役や社長・政治家…の保護者達。
我が家のような貧乏人家庭で…その時は、なぜか皆にも黙っていたけれど、父は工員だ。
親の職業や親の地位・財産…私のヘンなコンプレックスもあったのも事実だけれど…。
いじめ…生徒からだけでなく、教師からも酷い扱いを受けた。
それは今でも忘れない…。
《続く》
父の命日も近い。
もう…3年になるのか…。
父は令和2年6月に亡くなった。
大正生まれのネズミ年。
年齢から言えば大往生だけれど、父の人生…大変だったな。
父は家が貧乏な事もあり、最終学歴は昔の小学校だった。
それに、修学旅行にも行くことができず、代わりに母親(私の祖母)が、少年倶楽部という本を一冊買ってくれたらしい。
昔は、貧乏人の子だくさんで、また子供のうちに亡くなるものもいて、兄弟姉妹の上と下では親子ほどの年齢差があった。
父の妹が学校にもっていくお金を落とし、そのまま黙っていて学校から連絡があり、怒った父親(私の祖父)がその子を押し入れに入れたままにしていた。
高熱が出ても祖父は「ほっときゃ治る」と言って取り合わず、妹はそのまま亡くなってしまったそうだ。
父は、その妹をとてもかわいがっていたらしいが、そんな時代だった。
今なら、児童虐待で犯罪だ。
父には10歳以上離れた兄(私にとっては、おじさん)がいたが、太平洋戦争で南方にて玉砕、亡くなった。
でも、家に帰ってきたのは、石ころ一つだったらしい。
まあ、父の兄は、戦争に行く前は、歌も上手く楽器もできて口も上手で女性にもモテたというから、太く短く生きたのか…。
写真を見ても、納得かな。
父の兄は、家が貧乏にも関わらず金遣いが荒く散財していたらしい。
でも、父にとってはたった一人の兄…戦争で亡くなってしまい、父は本当に寂しく辛かったのだと思う。
その反動か?父は、酒も飲まず、タバコも吸わず、女遊びもせず、ギャンブルもせず、食べ物にも文句を言わず…正直、何が楽しいんだろうか…って。
たまに癇癪を起して怒鳴ったり物に当たったりしたけれど、暴力は振るわなかった。
父は父なりに辛い事苦しい事…いっぱいあったのだ。
父は、学歴もなかったからか定年プラス数年、キューポラで仕事をしていた。
溶鉱炉の仕事…火傷もしたりしていた。
キツイ・キタナイ・キケン…の3Kだ。
低賃金で体力的にもキツイ仕事だったけれど、給料は全て母に渡していた。
父と母は、よくケンカばっかりしていたけれど、腐れ縁か?どこか良かったところがあったのかもしれない。
本当に仲が悪ければ、もう話す事もないし、そばにも居たくないし、離婚するのが普通だもの。
以前このブログにも書いたけれど、父のいとこの件(殺人事件)の時からも、本当に辛く苦しかっただろう。
普通なら、全て投げ出して、どこかへ行きたかったに違いない。
でも…どんなに辛い事があっても、涙一つ見せず父は頑張った。
本当にスゴイ人だと思う。
父の事をよく知らない人は、いろいろバカにする人もいるかもしれないけれど、本当に真似のできないスゴイ人。
私が小学校の時に、母から「やっちもねー」と言われながら、母とケンカをしてまで、少ない自分の小遣いを貯めていたのか?顕微鏡(小学生にしては本格的)やオルガンを買ってくれた。
友達とか…みんなピアノとか塾、そろばんとか習っていたけれど、私は習字しか習っていなかったので…。
ピアノを弾きたい…という私に、せめてもオルガンを母に怒られながら買ってくれたのだと思う。
小学校の時、父のいとこの件等でのいじめもあって、地元の中学ではダメだと中高一貫校での中学受験をした。
私立ですごいお金がかかるので、親戚とかには悪口を言われたり反対されたりした。
でも、両親はこのまま地元の中学に行ったら、私がダメになってしまうと思ったらしい。
塾にも行っていなかったけれど、ラッキーな事に合格。
小学校時代は、特に勉強もしていなかったけれど、それなりに成績は良かった。
両親は、勉強しろ!とは言わなかったけれど、父は、返されたテスト用紙をずっと保存していた。(今は、どこにいったか???)
楽しいと思っていた中学校生活…。
…が、そんな事はなかつた…。
同じ小学校からその中学校には何名か合格して行っていたし、周りは医者・会社の重役や社長・政治家…の保護者達。
我が家のような貧乏人家庭で…その時は、なぜか皆にも黙っていたけれど、父は工員だ。
親の職業や親の地位・財産…私のヘンなコンプレックスもあったのも事実だけれど…。
いじめ…生徒からだけでなく、教師からも酷い扱いを受けた。
それは今でも忘れない…。
《続く》