私は仏教徒ですねん。
今更、何を言い出すねんな?とお思いでしょうが、突然脈絡のないことをアップするのが好き。
通った幼稚園がお寺の経営でした。
毎朝大きな仏壇に手を合わせてから始まるんです。
お釈迦様の紙芝居見せられて「ルンビニ園は花盛り♪」てなお遊戯してましたね。
お寺とは3kmほど離れてたんで、お寺の方はあんまり馴染みが無かったんです。
ところが中学で住職の子供の息子は1年上、娘は5年下と同窓生になって、後になって知ったんですが、ウチの宗派と偶然同じ浄土真宗本願寺派。
何やかんや有って、結局お墓もそのお寺に移転させてもろて、お参りにも来てもろてます。
若い頃(20代半ばまで)は自分が仏教徒という自覚は無かったですねぇ。
長男やから家の宗派ぐらいは知ってたけれど、まぁ家の紋くらいにしか思ってませんでした。
今のお寺に世話になるまでの旦那寺は豊前小倉、当然墓も其処に在ったから遠かったねぇ。
親父は出張ついでに寄ったりしてたけれど、私等は数えるほどしか行った事がなかったですなぁ。
月参りに来てもらっているのは大阪市内にいてた頃のお寺さんで、空襲で寺が焼けて、そのまんまお寺なしの借家住まいのお坊さん。
いたって、お寺やお墓には縁が薄かった。
法事や何かで読経の後、法話めいたことを聞かされるんですが、生意気盛り。
「何を建前論ばっかり並べてからに、偽善の固まりや無いか。胸糞の悪い。」と不埒な事を思いながら話の粗探しをしてました。
僧侶のお方全員がそうやというてるんとちゃいまっせ。
むしろ大多数の僧職に付かれている方々は、世の為、人の為、日夜真摯に研鑚努力されているのは重々承知。
中でも今の旦那寺の超光寺や、高槻の法善寺のご住職は立派なお方やと感服しております。
これから先のお話はそこのところをよ~くご理解の上でお願いします。
(これで大丈夫・・。)
高校1年の担任がクリスチャン。
事あるごとに聖書やらキリストが顔を出すんですわ。
何でも逆らいたい反抗期の真っ盛り。
逆らうには先ず聖書なるものを読まん事には話しにならん。
幸い姉妹が通うてた学校がミッション系で聖書は何冊も有る。
何で何冊も有ったんやろなぁ?
ところが全部新約聖書。
聖書と言うのは旧約と新約の2種類有ったんですねぇ。
仕方が無いから旧約は図書館で借りてきた。
旧約の方は独特の臭みはあるけれど、結構色っぽい話もあってそれなりに面白かった。
けど、一体これの何処が有り難いねんな?
新約の方は参った・・、読み終わった頃には逆らう気も失せてしまいましたわ。
こう言う宗教を信じる連中が信じられんようになった。
悪鬼、魔神を信じてる連中が首狩りするなら、エエとは言わんけど、まだ理解できる。
何で「大いなる愛」を信じてる人間が、原爆落として、焼夷弾で女子供を焼き殺せるねん?
「大いなる愛」は自分等仲間内だけの話しかいな?
「悔い改めよ」とあんたに言われる筋合いは無いわい。
その内に東南アジアをウロウロし出すと、どうも日本と僧侶の感じが違う。
ヒョンな事からタイにはまり込んで、これ又行きがかり上、チェンライの近所の田舎寺に数千円の寄進をさせてもろたんです。
ほんなら、横座りに座らされて、なにやらゴニョゴニョ住職が言うて、横から突付かれるままに、頭下げたり合掌したりしてたら、お米と花びらをパラパラッと撒いたかと思うと、前髪をチョッキンと切られた。
どうやら簡易得度式やったらしい。
幸い、首から下げる有り難い仏さんを頂戴して、無罪放免になったから良かったようなもんの、うかうかしてて丸坊主にされて、黄色い衣で朝の早うから御飯貰いに、裸足で托鉢に行かされては一大事と若干焦りましたね。
帰ってきてから調べたら、あちらは小乗仏教(Hinayana)、日本は大乗仏教(Mahayana)。
小乗なんてのは大乗仏教側の悪口雑言で、実に失礼な話ですなぁ。
上座部(小乗)仏教は修行による個人の解脱を目指してるんやそうで、片や大乗仏教は利他救済、人間全体の平等と成仏を売り物にしてるというから、何やら切支丹と同じ偽善の匂いがしますがな。
しかし元々、お釈迦さんは一体どう言うてはったんやろ?と思ってもシャカは自分では何も書き残していませんし、同時代に書かれたと確証が有る物も有りません。
お金が無いから大層な本はよう買わん、岩波文庫の「ブッダのことば」「ブッダの真理のことば 感興のことば」などを買うて来て読んだんです。
シャカ(Sakya)て個人の名前かと思えば、ネパール辺りに居てたアーリア族の中の1支族の族名らしい。
日本なら熊襲(クマソ)や国栖(クズ)みたいなもんかいな!
釈迦牟尼仏、悉達多(シッタルタ)、ゴータマ等と書くと話が混乱するからシャカで行きますわ。
これにしても、シャカ入滅後数百年経って書かれたらしいし、多分元はサンスクリット。
日本語になるまでに、何重にも翻訳を重ねてるやろうし、何処までがどうやら?
しかし、これを読む限り「自分自身の修行によって悟りを開け、その為には一切の煩悩、俗世の地位、財産、家族への愛情さえも捨てなさい。」というんですね。
「犀の角のように、荒野を一人で雄々しく進め」てな言葉が随所に出てきます。
昔はネパール、インド北部には犀が沢山居ったらしいですなぁ。
それは置いといて、言うてる事が無茶でっせ!
人類全部が教えの通りにしたら、絶滅しますがな。
ど素人の戯言(ザレゴト)ながら、日本の大乗仏教の妙な所は、実は全く別物やのにシャカを始祖としているんですね。
シャカの教えを、一体どういう風にヒョコ曲げて、すり替え、こじ付けしたら、加持祈祷やら戒名代で字数が違うとか、そんなことが言えるのか?
相当薄めて、角を丸められたとはいえ東南アジアの上座部仏教には面影が残ってるから、シャカを始祖とするのはまだしも納得出来るんです。
何で日本の仏教はこんな事になったんやろ?
ハタと気が付いたのは、そうか直輸入と違うんや!Kapila(カビラ=迦丐羅)城城主Suddhodana(ジャウボンワウ=浄飯王)の王子Gautama Siddhartha(ゴータマシッタルタ=瞿曇悉達多)とは全く別物、中国製の釈迦に違いない。
ホンコンの夜店で買うて来た地元の小姐們(ネエチャン等)が広東語で歌とてる「早安少女隊」のCDを「モーニング娘」の本物やと思い込んだようなもんやんか。
そうそう、「シャカに説法」て英語では、Don't try to teach your grandmother to suck eggs.(おバァちゃんにタマゴの吸方を教えようとするな。)って言うんですなぁ。
もっともっと希釈された残り香程度の物が日本の禅宗等にも残ってる気もするけれど、あまりにも飾りや雜物が混じりすぎてるような気がします。
それすら到底、俗人凡夫には実行不可能。
俗人凡夫どころか、日本の「不許葷酒入山門(精のつく野菜は修行を妨げ、酒は心を乱すから、こういう物の現物は勿論、口にした者も清浄な寺内に入るんは許さへんで)」とデッカイ碑を建てた寺の坊主がニンニクのきいた餃子で生ビールをキュ~いうのを我が目で見てます。
それも下っ端とは言え本山の役をしてるそうな。
私、酒が嫌いやからお茶飲んで精進潔斎、どっちが俗人か判れへん。
「おい、アンタとこの山門に建ってる石に書いてある文句は冗談かいな?」と言うたら「これは俗人には酒に見えるやろうが、酒や無い」てな詭弁で逃げよるんです。
実際ロクな同級生は居らんなぁ!(お互い様やけどね)
あんまり他所の宗派の悪口を言うてると「地獄落ちや!」とか「成仏出来んぞ」と言われるんやろうけど、幸い門徒には地獄は存在せんし、阿弥陀如来さんがキッチリ浄土へ入れてくれはるんですなぁ。
結局、門徒にまで行き着かんかったねぇ。
次回はちゃんとやります。(その積り・・。)
2003/12/12
私は門徒-2