牢獄の生活に不便はなかった、必要なものはフィリップが用意したからだ。
だが、それでも足りないものがある。
「伯爵様は頻繁に尋ねてくるそうじゃないか」
「貴族といっても俺たちとかわらねぇな」
使われている身でありながら内心は快く思ってはいないのだろう、男達二人の会話は最初の頃とは違い随分と砕けた調子だ。
「おまえ達、薬はやめたほうがいいぞ」
「ああ、伯爵に貰ったやつか」
賃金の代わりに男、二人はフィリップから麻薬を貰っていた、体調はよくなるし数日、眠らなくても平気なので二人は薬欲しさにフィリップの命令には従順なくらいに従っていた。
だが、その日、行為の後、おまえ達、以前よりよくないなと言われて二人はいぶかしげな表情をした。
「これに価値があると思っているのか、本気で」
自分たちがフィリップから賃金の代わりとして貰っている薬を試してみないかと男に渡すと、それの匂いをかぎ、わずかに舌先で嘗め田後、なんともいえない表情で男は、それを蝋燭の火にかざした。
「おい、そいつが幾らすると」
「金貨一枚の価値もないな」
そういって男は燃え尽きた蝋燭を二人の目の前に突き出した。
「なんだ、この匂いは」
「香草で香りを誤魔化しているんだろう」
「俺たちは騙されているということか」
全て承知の上であの男に使われているんじゃないのかと言われて二人は顔を見合わせた。
「薬は理解してこそだ」
そういって男は履いていた靴底の裏から取り出した小さな包みを二人の目の前にかざした。
これを使ってみろ、と。
最近、頻繁に牢屋を訪れるのをフィリップはやめられずにいた。
昔は、お気に入りの女優と仲良くなるため、いや、娼館通いをしていたときも熱心に通っていた。
花束やプレゼントを持ってだ、女達は気のないふりをしていたが、それは最初のうちだけだ。
一度体の関係ができてしまうと後はなし崩しに自分を繋ぎとめようと必死になる。
金は勿論だが、貴族という自分の立場が引きつけているのだ。
だが、この男、エリックに対しては、それが通用しない。
最初は自分の愛人、クリスティーヌの為に作曲、オペラを作らせる為に監禁していた。
男二人に自分の命令に従うように暴力だろうが、どんなことでも、
何をしても構わないからと伝えていた。
その夜、牢屋を訪ねると男は珍しく机に向かってペンを走らせていた。
入ってきたことに気づいていないのか、振り向きもしない。
足音を鳴らしてみたが、それでもだ。
声をかけたが、それでもだ、気づいていないことにフィリップは、むっとしながら近づいた。
「おい、化けも」
化け物と呼ぶつもりだった、だが、言葉は最後まで続かなかった。
自分の首が片手で締め付けられている、苦しいっと思った瞬間、名前を呼ばれた。
「クリスティーヌっっっ」
それは歌姫の名前だ、だが、その呼びかけは到底、愛していた相手に対してとは思えない声だ。
自分の体が床に放り出され、いや、投げつけられた。
「邪魔をするな、作曲中だ」
それは怒りの声だ、だが、それと同時に右腕に痛みが走った。
目つきが普通ではない、どういうことだ、フィリップは混乱した
邪魔を、作曲の最中は静にしろと言っただろう。
男の言葉は自分ではない、歌姫に向けられたものだ。
逃げるように牢屋から出たフィリップは、ふらつくように壁に寄りかかりながら歩いていたが、このとき自分の右腕がだらんと下がっていることに気づいた。
まともでは、普通ではない、そのときはっとした。
歌姫、クリスティーヌ・ダーエが自分の愛人になったのは、まさかと思ってしまう。
いや、そんなことはあり得ないと思う自分が彼女に。
騙されていたなんて、考えたくない。
そう思ったとき、突然、体が壁際に押しつけられた。
「な、何をする、やめろっっ」
だが、体は自由にならない、聞こえてくるのは笑い声には聞き覚えがあった。
化け物にいうことをきかせるようにしろと命令した二人の男だ、それが何故と思ってしまう。
「やろめ、私を誰だと」
「おいおい、誘ってんのか」
「尻を振って、貴族様も変わんねぇな」
自分は雇い主だ、叫ぼうとしても声が出ないのは口を塞がれたからだ。
こんなことが自分の身に起こるとは信じられない。
フィリップは怖くなった、逃げられないのだ。
どうすればいいのか分からないまま、彼は現実を見たくないと目を閉じた。
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