文化
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→「朝鮮の文化」も参照
廃仏崇儒
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李氏朝鮮は儒教王国の実現に邁進した結果儒教文化が栄えたが、代々中国の属国であったため、すべて中国文化の縮小版であった[26]。
李氏朝鮮の文化政策は、一言でいえば儒教の一派である朱子学を尊重し、仏教を弾圧したと説明される。しかし、太祖・李成桂が仏門に帰依していたため、本格的な廃仏運動が始まるのは第3代太宗の代からである。この時、朝鮮半島では多くの仏教寺院が廃され、242の寺のみが国家の統制下に残された。第4代世宗の時代にはさらに厳しくなり、寺院の数はさらに減らされ、仏教寺院が所有していた土地や奴婢の多くが没収された。このため、高麗時代の仏教遺跡が破壊されたり、仏像や文化財などの多くが海外へ流出した。たとえば、太宗時代に土橋の代わりに石橋を造ることになったが、十二神将の石仏を破壊し、その石材にするということを行った。
ただし、李氏朝鮮前期の廃仏政策は一貫性が無く、廃仏に積極的だった世宗は末期には仏教に帰依してしまう。また第7代世祖は、儒臣との対立から仏教を保護し、漢城府内に円覚寺と言う寺を建てた。この寺は、第10代燕山君の時代に破壊され、妓生を管理する建物に建て替えられている。第8代睿宗の時代には再び廃仏政策は強化され、第11代中宗時代は李氏朝鮮前期で最も仏教弾圧が厳しい時代であったが、中宗の3人目の王后である文定王后尹氏は仏教を信奉し、中宗亡き後の時代には外戚と共に王権を執権していたため、彼女の息子が王位についていた第13代明宗の時代には廃仏政策は緩み、仏典のハングル訳が出版されたり、仏教の復権に努めた。しかし、時流は完全に廃仏に流れており、仏教の復権は失敗に終わった。李氏朝鮮初期の崇儒廃仏政策はこの様に一貫せず一進一退を繰り返すが、第16代仁祖の時代に城内からの僧侶追放令が発せられ、ここに李氏朝鮮の廃仏政策は完成に至る。いまだに残る男尊女卑や差別意識、年齢信仰はこの儒教思想から来る。
シャーマニズム
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→「朝鮮神話 § 口伝神話」も参照
1805年に申潤福によって描かれた巫堂の舞
正式な国教と呼べるものは儒教の朱子学ではあったが、土着・民間信仰としての巫俗は淫習とされ巫女であるムーダン(巫堂)が賎人とされるなど蔑視されたが根強く残った。祀られる神は朝鮮独自のものもあるが、道教や仏教、後にはキリスト教の影響も見られる。
イザベラ・バードの『朝鮮紀行』には朝鮮社会が克明に記されており曰く、
「朝鮮の都市には寺院や聖職者の姿が無い。家々には「神棚」が無く、村祭りには神輿も無ければ偶像を運ぶ行列も無く、婚礼葬儀では聖職者が祝福をしたり冥福を祈ったりする事が無い。心からにせよ形だけにせよ、畏れ敬われる宗教的儀式や経典が存在せず人心に宗教の入り込んでいる形跡が何ら見られぬは非常に珍しい特徴である。」
印刷事業の発展
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各種書籍の編纂事業が国策事業として推進され、印刷術と製紙術がかなり発展した。第3代太宗の時代には活字を作って書籍の印刷を担当する官署である「鋳字所」を設置して、高麗時代に中国から伝わった金属活版を改良して高い印刷能率を持つようになった。それに多くの書籍が出版されるに伴い、紙の生産量も増加して、質の良い紙を専門的に生産する「造紙署」を設置し多様な紙を生産した。
李氏朝鮮は朱子学を社会的理念として採択しながら儒教的秩序を確立するために、倫理と儀礼に関する書籍を多く編纂した。第4代世宗の時代には人々に模範となるべき忠臣、孝子、孝女の業績に関して記録した倫理書である『三綱行実図』を編纂した。また第9代成宗の時代には国家のさまざまな行祀に必要な書籍を整備して『国朝五礼儀』を編纂した。16世紀には士林派が小学と朱子家禮の普及するために『二倫行実図』と『童蒙須知』などを刊行して普及した。『二倫行実図』は年長者と年少者、友達に対して守らなければならない礼節を強調した倫理書であり、『童蒙須知』は児童が守らなければならない礼節を記録した児童用倫理書だった。これらの書籍は全て李氏朝鮮の役所の校書館が発行したものだった為、出版部数が極めて少なく李氏朝鮮の書物は大変な貴重品だった。李氏朝鮮では末期になるまで書店が存在せず書籍を売買する事が出来なかった。ほぼすべての者が文盲だったため必要なかった。そのため当時個人の所有していた書籍は王から賜り先祖代々受け継がれた物か個人から譲り受けた物だった。
訓民正音の制定
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訓民正音
公的な文化の中心となるのは中国語の文語である漢文であり、朱子学を中心として陽明学などを取り入れた朝鮮独自の朝鮮朱子学(朝鮮性理学)が発達した。漢字のみでは朝鮮語をあらわすことはできないため、朝鮮語を記すために1443年にハングルの起源になる訓民正音が作成された。ハングルは朝鮮語の表記に適した合理的な文字体系であったが、中華思想に支配された両班ら男性知識人はこれを諺文(オンムン)と呼んで蔑み、李氏朝鮮末期まで正規の文字として使われることはなかった。
しかし李朝を通して民衆の文字として下層階級、婦女の間に広まった。庶民はこの文字を使い詩や歌を記録し、また私文書に使用した。知識人の中にもハングルを使う者が現れ、朝鮮王朝文学の最高峰とも