京都大学
どを含む,日本や朝鮮についての研究を行い,それらは時に協会の紀要 (The Transactions of
the Asiatic Society of Japan) に掲載された。
これらの英国外交官による日本研究の多くは,駐日公使パークスも奨励し,彼らが琉球処分
や廃藩置県,廃仏毀釈などについて高い関心を寄せていたために行われた。そしてそれらは対
日政策遂行上の貴重な参考資料とされたという50)。このようにサトウらは,日本に残る古い文
献や日本人の宗教観を学術研究の対象としてだけではなく,外交上の観点からも注目していた
のである。
同時にサトウらは,歴史ある文化や美術品にも目を向けた。1879 年,サトウは法隆寺を訪
問し,1884 年以後に,法隆寺の古い壁画 (「弥勒浄土図」) の模写を,かつて日本海軍のお雇い
外国医師で,日本美術を収集していたウィリアム・アンダーソン (William Anderson) へ送った。
この模写は現在,大英博物館が所蔵しており,日本人が認識するよりも前に,サトウらが日本
の古い美術の価値を高く評価したとされている51)。
このようにサトウらは,日本という国の本質,歴史を認識しようとしていた。もっとも,そ
の関心は日本に対するものに限らず,アジアにおいてはむしろ,イギリスが植民地としていた
インド,利権の拡張を欲していた中国等が対象としてより重要であっただろう。例えば,本稿
との関係で記せば,岩倉具経がオックスフォード大学でついていた教授ジョエットは,インド
へも関心を寄せ,マックス・ミュラーや,同じくサンスクリット学者のモニエル・ウィリアム
ズ (Monier Williams) らとつながりをもち,オックスフォード大学のインド研究所の設立にも
力を尽くした52)。
岩倉がイギリスへの仏典や,法隆寺の貝多羅葉の写しのような歴史ある資料情報を送付した
のは,このようなイギリス側からの視線への対応と考えられる。岩倉は世界的にも古いとされ
る法隆寺の仏典の写しなどをサトウらの要望に応えて提供することで,日本が長い歴史を有す
る中国以上に古い資料を大切にしていることを示し,歴史や文化を大切にする国家であること
を訴えかけようとしたのであろう。
実際,ミュラーが,法隆寺の貝多羅葉を英語で翻刻し,世界最古の仏典と紹介して出版した
後,ベルリン大学の教授ウェーバー (A. Weber Albrecht Friedrich Weber か) は,法隆寺がその
年代を偽っていると批判した。それに対しミュラーは南条に,現在,ヨーロッパの修道院では
多くの年代記が偽造されているが,日本でも同じことが行われたという理由はなく,年代の信
用性を歴史的に証明できる論文を執筆してほしいと書き送った53)。このように,日本に世界最
古の仏典が現存することへの批判があったのであり,欧州一般には,日本が歴史的価値を大切
にする国だとは認識されていなかったことがわかる。
岩倉使節団で条約改正交渉に失敗したことなどを受けて,欧米列強を相手にした外交の厳し
さを岩倉は強く意識していた。その他にも,岩倉は,明治元年 (1868) の局外中立問題や,明
岩倉具視と「文化外交」 (齊藤)
the Asiatic Society of Japan) に掲載された。
これらの英国外交官による日本研究の多くは,駐日公使パークスも奨励し,彼らが琉球処分
や廃藩置県,廃仏毀釈などについて高い関心を寄せていたために行われた。そしてそれらは対
日政策遂行上の貴重な参考資料とされたという50)。このようにサトウらは,日本に残る古い文
献や日本人の宗教観を学術研究の対象としてだけではなく,外交上の観点からも注目していた
のである。
同時にサトウらは,歴史ある文化や美術品にも目を向けた。1879 年,サトウは法隆寺を訪
問し,1884 年以後に,法隆寺の古い壁画 (「弥勒浄土図」) の模写を,かつて日本海軍のお雇い
外国医師で,日本美術を収集していたウィリアム・アンダーソン (William Anderson) へ送った。
この模写は現在,大英博物館が所蔵しており,日本人が認識するよりも前に,サトウらが日本
の古い美術の価値を高く評価したとされている51)。
このようにサトウらは,日本という国の本質,歴史を認識しようとしていた。もっとも,そ
の関心は日本に対するものに限らず,アジアにおいてはむしろ,イギリスが植民地としていた
インド,利権の拡張を欲していた中国等が対象としてより重要であっただろう。例えば,本稿
との関係で記せば,岩倉具経がオックスフォード大学でついていた教授ジョエットは,インド
へも関心を寄せ,マックス・ミュラーや,同じくサンスクリット学者のモニエル・ウィリアム
ズ (Monier Williams) らとつながりをもち,オックスフォード大学のインド研究所の設立にも
力を尽くした52)。
岩倉がイギリスへの仏典や,法隆寺の貝多羅葉の写しのような歴史ある資料情報を送付した
のは,このようなイギリス側からの視線への対応と考えられる。岩倉は世界的にも古いとされ
る法隆寺の仏典の写しなどをサトウらの要望に応えて提供することで,日本が長い歴史を有す
る中国以上に古い資料を大切にしていることを示し,歴史や文化を大切にする国家であること
を訴えかけようとしたのであろう。
実際,ミュラーが,法隆寺の貝多羅葉を英語で翻刻し,世界最古の仏典と紹介して出版した
後,ベルリン大学の教授ウェーバー (A. Weber Albrecht Friedrich Weber か) は,法隆寺がその
年代を偽っていると批判した。それに対しミュラーは南条に,現在,ヨーロッパの修道院では
多くの年代記が偽造されているが,日本でも同じことが行われたという理由はなく,年代の信
用性を歴史的に証明できる論文を執筆してほしいと書き送った53)。このように,日本に世界最
古の仏典が現存することへの批判があったのであり,欧州一般には,日本が歴史的価値を大切
にする国だとは認識されていなかったことがわかる。
岩倉使節団で条約改正交渉に失敗したことなどを受けて,欧米列強を相手にした外交の厳し
さを岩倉は強く意識していた。その他にも,岩倉は,明治元年 (1868) の局外中立問題や,明
岩倉具視と「文化外交」 (齊藤)