日本
明治時代以降の公娼制
明治時代になって遊郭はさらに需要を増した。当時の日本では性病の罹患者比率がきわめて高く、イギリス海軍は娼婦から性病を移されることを問題にした。横浜では外人目当ての遊郭の港崎遊郭が生まれ、政府は会津征伐の軍資金五万両を業者に出させ、代わりに外人居留地に築地鉄砲洲遊郭の設置をした。
公娼取締規則・娼妓取締規則
1872年のマリア・ルーズ号事件の際、「日本では国家が人身売買を公認している」と指摘された政府は、太政官布告で芸妓・娼妓の解放令を出した。しかし遊郭自体を廃止する事はなく、遊女屋は「貸座敷」と名を変えて帰り先のない遊女たちを吸収し、借金による年季付きの人身売買は太平洋戦争後まで存続した[42]。
1873年(明治6年)12月、公娼取締規則が施行された。ここに警保寮から貸座敷渡世規則と娼妓渡世規則が発令された。のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では、1882年(明治15年)4月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとした。 やがて群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。
1886年(明治19年)、キリスト教活動家の矢嶋楫子が東京キリスト教婦人矯風会を組織(のちに日本キリスト教婦人矯風会)。矢嶋は1873年にアメリカオハイオ州クリーブランドで結成されたWoman's Christian Temperance Union(WCTU、キリスト教婦人矯風会)の影響を受けていた。翌年には「一夫一婦制の建白」、「海外醜業婦取締に関する建白」を政府に提出した。
1889年(明治22年)、内務大臣から、訓令で、これより娼妓渡世は16歳未満の者には許可しないと布告された。
1891年(明治24年)12月までは士族の女子は娼妓稼業ができなかったが、内務大臣訓令によりこれを許可するとし、1900年(明治33年)5月、内務大臣訓令により、18歳未満の者には娼妓稼業を許可しないと改正された。
1900年(明治33年)10月、内務省令第44号をもって、娼妓取締規則が施行された。これによって、各府県を通じて制度が統一され、明治初年の制度に戻ったかたちとなった。これは16条からなり、娼妓自由廃業がみとめられていたので、公娼制度を大きく変えるはずだったが、実際にはこの法律自体を知らない娼妓もおり、その後も娼妓廃業の自由は、前借金を盾に阻害されることもあった[43]。とはいえ自由廃業者は増え、東京府の統計では、娼妓取締規則施行後、年内に自由廃業した娼妓は429名で[44]、この動きは大阪など地方の遊郭にも広がった[45]。サンデー毎日の記者が1940年ごろに、当時を知る元娼妓や元楼主などに取材したところでは、娼妓取締規則に前後する明治32、33年には、自由廃業を認めない楼主を相手取った訴訟が各地で起き、娼妓の勝訴が相次いだため、次第に廃業する者が増えていった[46]。
1911年、キリスト教系の廃娼運動団体廓清会が発足。島田三郎、安部磯雄、矢嶋楫子、江原素六、小崎弘道、植村正久、井深梶之助、元田作之進、山室軍平らが関わった。翌1912年(明治45年)、安部磯雄は『風紀問題としての公娼制度』(廓清会本部)を刊行。