記録に残る中国人や日本人奴隷は少数で貴重であったことや、年間数隻しか来航しないポルトガル船の積荷(硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量、移送中の奴隷に食料・水を与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人の奴隷貿易で売られた日本人の奴隷は数百人程度と考えられている[43][44][45]。
関白の豊臣秀吉は、天正十五年(1587年)バテレン追放令でこれを禁じたとされるが、実際に発布された追放令には人身売買を禁止する文が前日の覚書から削除されており、追放令発布の理由についても諸説ある[46]。天正十八年(1590年)4月、豊臣秀吉は上杉景勝らの人身売買を禁止、同年8月、宇都宮国綱に人身売買の禁止と百姓などを土地に縛りつけ、他領に出ている者を返すことを命じ、労働供給の安定を図っており、人身売買や百姓の逃散、欠落の禁止による人口流出の防止が豊臣秀吉の経済財政政策における基本方針だったとする説がある[47]。バテレン追放令後の天正十九年(1591年)、教皇グレゴリー14世はカトリック信者に対してフィリピンに在住する全奴隷を解放後、賠償金を払うよう命じ違反者は破門すると宣言、在フィリピンの奴隷に影響を与えた。
弥助という名の宣教師の護衛をしていたアフリカ系の奴隷(または従者[48][49])が、戦国大名の織田信長に宣教師から献上され、武士の身分を与えられ家来として仕えたとの記録が残っている。宣教師の護衛として武術の訓練を受けていたと見られるため自由人や解放奴隷であったとの見解もあり、弥助が奴隷だったかについては諸説ある[48][49]。弥助を捕らえた明智光秀は
黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず— 岡田正人『織田信長総合事典』、雄山閣出版、1999年
として教会に送り届けるよう指示した[50]。
天正十四年(1586年)『フロイス日本史』は島津氏の豊後侵攻の乱妨取りで拉致された領民の一部が肥後に売られていた惨状を記録している[51]。『上井覚兼日記』天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会った。そのほか濫妨人などが女・子供を数十人引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録を残している。天正十六年(1588年)8月、秀吉は人身売買の無効を宣言する朱印状で
豊後の百姓やそのほか上下の身分に限らず、男女・子供が近年売買され肥後にいるという。申し付けて、早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること— 下川文書、天正十六年(1588年)8月
と、天正十六年(1588年)閏5月15日に肥後に配置されたばかりの加藤清正と小西行長に奴隷を買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正十六年(1588年)同様の命令があったことが島津家文書の記録として残っている。
文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉に仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に
日本よりもよろずの商人も来たりしたなかに人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き、男女・老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て、歩み候わねば後より杖にて追い立て、打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹の罪人を責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えば猿をくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり— 朝鮮日々記
と記録を残している[52]。渡邊大門によると、最初、乱取りを禁止していた秀吉も方向転換し、捉えた朝鮮人を進上するように命令を発していると主張している[53]。
多聞院日記によると、乱妨取りで拉致された朝鮮人の女性・子供は略奪品と一緒に、対馬、壱岐を経て、名護屋に送られた[54]。
薩摩の武将・大島忠泰の角右衛門という部下は朝鮮人奴隷を国許に「お土産」として送ったと書状に書いている[55][56]。
江戸・明治時代編集
元和ニ年(1616年)江戸幕府は高札で人身売買を禁止、元和四年に禁制を繰り返し、元和五年(1619年)12箇条の人身売買禁止令を発布、寛永四年(1627年)正月にも人身売買禁止令をだすなど、人身売買の禁令は豊臣秀吉以降も繰り返し行われた[57]。
江戸時代に勾引は死罪とされ、新規の奴隷身分も廃止されたが、年貢を上納するための娘の身売りは認められた。「人買」(ひとかい)は、こうした遊女の売買を行う女衒を指す語として、この時代に一般化したものである。
江戸時代の平均的農民は幕藩領主によって土地緊縛されているところから、広義における農奴と規定する定説が認められている。本百姓と世襲的な借家・小作関係にある譜代下人等も存在し、家父長的奴隷制として規定することがある。地方によっては家抱、門屋、庭子、内百姓、名子と呼ばれ、強い隷属性を特徴とし、村内での地位は水呑百姓以下だったとされる。傍系家族・下人も含め名主家族そのものを広義の農奴の一存在形態とする見解もある。
1872年に横浜港で発生したマリア・ルス号事件では、国際紛争を引き起こす懸念が政府内にあったが、外務卿の副島種臣は人道主義と日本の主権独立を主張し、助けを求めた清国人の苦力らを奴隷と認定し解放している。これを契機に、時の司法卿の江藤新平によって、芸娼妓解放令が太政官布告として発せられ、このような人身売買は法的には禁じられた。また、それより以前の1870年には、外国人への児童の売却を禁ずる太政官弁官布告が出された。
芸娼妓解放令が有名無実なものとなると人身売買に対する法的規制が後退し、他人を売るより子孫を売る方が罪が軽く「和売」が行われていた。[58]明治から昭和にかけての人身売買について牧英正は、農村の慢性的貧困、父権の強さが人身売買を発生させる温床となる構造上の理由を説明している。[59]