相次ぐ襲撃事件を経て、長崎を開港
開港後の横瀬浦は、協定に則って宣教師による布教が行われるとともに教会も建造され、町は多くの商人で賑わいました。しかしこれを面白く思わなかったのが、後藤貴明です。大村純忠が洗礼を受けて間もない時期に、後藤貴明は大村領内で大村純忠に反感を持つ老臣と手を結んで大村純忠を襲撃。
その影響で横瀬浦にも混乱が生じ、略奪行為に加えて放火が起こりました。これにより港の主要な建物がすべて燃えてしまい、横瀬浦は貿易港として機能しなくなってしまったのです。横瀬浦が焼き討ちされたのち、大村純忠は1565年(永禄8年)に港を福田に移しました。
しかし、福田の開港に激怒したのが平戸領主の松浦隆信です。松浦隆信は先述のような理由でキリスト教への不信感が高まっており、彼らの進出を恐れて大型船8隻と小舟70隻を率いてポルトガル船を攻撃。この海戦では結果的にポルトガル船が勝利したものの、外海に面した福田は波風が強く、貿易港には適さないとして、5年後の1570年(元亀元年)に大村純忠は港を長崎に移しました。
横瀬浦と福田での襲撃で警戒心を強めたのか、大村純忠は当初、開港協定を再び結ぶことに消極的になっていたと言われていますが、最終的には義兄の有馬義貞(ありまよしさだ)に説得される形で開港を認めています。
イエズス会に長崎を寄進する