さらに島津義久は天正14年(1586年)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明した[5]。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示したが、島津側は「神意」としてこれを拒否[7]、大友攻撃を再開して九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った[注釈 3]。
翌12月12日、戸次川の戦いがはじまった。家久は鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に本陣をおいたが、その軍勢は1万8,000にふくれあがっていた[3]。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親の制止も聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川の強行渡河作戦が採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久軍主力が寄せた。この戦いで豊臣方は四国勢6,000のうち2,000を失い、元親の嫡子である長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う敗北を喫した[注釈 5]。
12月13日、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、隠居した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入し「国崩し」と名付けた仏郎機砲(石火矢)の射撃もあり、島津軍に勝利した[注釈 6]。その後北上する島津軍は杵築城(大分県杵築市)を攻めたが木付鎮直の激しい抵抗を受け敗北、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。
肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は12月14日、豊後山野城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した。
天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)[編集]
宗麟は秀吉に出馬を何度も促した。天正14年(1586年)12月1日、秀吉は小西隆佐など4人の奉行に30万人分の兵粮米・馬2万匹分の飼料を1年分調達することを命じ、各地より尼崎へ輸送させた[15]。天正15年(1587年)元旦、秀吉は年賀祝儀の席で、九州侵攻の部署を諸大名に伝え、軍令を下した。以後、正月25日の宇喜多秀家を嚆矢として、2月10日には弟秀長が、3月1日には自らも出陣した。秀吉の出陣に際しては、勅使・公家衆・織田信雄などが見送った[16]。秀吉の出陣当時の戦奉行黒田孝高あて朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と記されている[17]。肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を豊臣秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な物量と人員で進軍した。なお、豊臣軍の陣立は、以下の通りである。
- 肥後表陣立((天正15年)三月二十五日付秀吉朱印状より)[18]
一番隊 毛利吉成、高橋元種、城井朝房二番隊 前野長康、赤松広英、明石則実、別所重宗三番隊 中川秀政、福島正則、高山長房四番隊 細川忠興、岡本良勝五番隊 丹羽長重、生駒親正六番隊 池田輝政、林為忠、稲葉貞通七番隊 長谷川秀一、青山忠元、木村重茲、太田一吉八番隊 堀秀政、村上義明九番隊 蒲生氏郷十番隊 前田利家十一番隊 豊臣秀勝(総大将 豊臣秀吉)
- 日向表陣立((天正15年)三月二十一日付秀吉朱印状より)[18]
一番隊 黒田孝高、蜂須賀家政二番隊 小早川隆景、吉川元長三番隊 毛利輝元四番隊 宇喜多秀家、宮部継潤因幡衆(亀井茲矩、木下重堅、垣屋光成、南条元続)五番隊 小早川秀秋(番外 筒井定次、溝口秀勝、森忠政、大友義統、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親)(総大将 豊臣秀長)
秀吉の家臣である石田三成、大谷吉継、長束正家が兵糧奉行を務め、兵糧の確保や輸送にあたった。また、上方からの輸送に際しては摂津尼崎港(兵庫県尼崎市)が主に用いられた。
秀吉と秀長の九州同時侵攻を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄したため、豊臣軍は瞬く間に島津氏方に属していた城の多くを陥落させた。島津氏は、薩摩・大隅・日向の守りを固める方針に変更した。
唯一戦いが起きなかった肥前国(今の佐賀県