中国でも漢代に〈蓋天説〉や〈渾天説〉などの宇宙論があり,その後も〈宣夜説〉などの宇宙論が提唱されたが,あまり大きな発展はなかった。〈蓋天説〉によると,天地はたがいに平行で,中央が高くなる傘状の形をしているという。中央にあたる北極を中心として天空上に円形を描く太陽は,夜になると北極の北に行き,中国より遠ざかって見えなくなる。こうして昼夜の交替を説明した。〈渾天説〉は〈蓋天説〉よりやや進歩し,天は球状で太陽をはじめとする天体を載せて絶えず回転し,その中に大地があるのは,卵殻が卵黄を包むのに似ていると説く。卵黄といえば球形であるが,実際には大地を平面と考えており,大地が丸いという考えは〈渾天説〉にもなく,地動説は明末にイエズス会士がヨーロッパ天文学を伝えるまで,中国人は知らなかったのである。
中国暦が〈天体暦〉の性格をもつようになったのは,〈太初暦〉を増補してできた前漢末の劉歆(りゆうきん)の〈三統暦〉からである。《漢書》律暦志に収録された〈三統暦〉には,水・金・火・木・土などの5惑星の会合周期の数値がほぼ正確に記載されており,これを利用して惑星の位置を計算している。また食周期を利用して,きわめて粗略であるが,日・月食の予報が行われた。ここで採用された周期は135ヵ月であり,ギリシアで採用されたサロス周期(223ヵ月)とはまったく異なっている。日食は国家の安危を占う重要な天体現象であり,〈三統暦〉以降,歴代の天文学者は日食予報を正確に行うために大いに苦心した。それには日月の運動を詳しく知る必要があった。まず月の運動については,後漢末の劉洪がつくった〈乾象暦〉において著しい進歩が行われた。現代天文学の知識で解釈すると,円運動からのずれである月の〈中心差〉が知られた。さらに近地点の移動や黄道,白道の交点の逆行などが知られた。さらに6世紀に北斉の張子信によって太陽運動の〈中心差〉が発見された。なおこれより以前,4世紀前半の東晋時代に虞喜によって〈歳差〉が知られた。これらの知識をすべてとり入れ,画期的な暦法をつくったのが隋の劉焯(りゆうしやく)の〈皇極暦〉である。劉焯は日月の運動を計算するにあたって補間法を考案した。〈皇極暦〉は公用されなかったが,唐代の〈麟徳暦〉や〈大衍暦〉の模範となった。こうした努力にもかかわらず,中国暦の食予報は粗略なままで終わった。なお月の運動について,ギリシアの天文学者プトレマイオスが発見した第2の不等〈出差〉は,中国ではついに発見されなかった。
元の時代に郭守敬らによって〈授時暦〉がつくられ,天文定数その他にいくぶんの改良が行われた。明はそれを受けついだが,明末から清朝にかけてヨーロッパ中世の天文学がイエズス会士の手によって伝えられ,18世紀の乾隆帝の時代にはケプラーの運動論に基づく日月の運動論が紹介されたが,18世紀以降急激に発達したヨーロッパ天文学は紹介されないまま清末を迎えた。コペルニクスの地動説のごときものも,ごく簡単な知識が伝えられるにとどまった。
中国の占星術は国家の安危を占う〈公的占星術〉であり,個人の運命を占う〈ホロスロープ占星術〉は唐代に西方から伝わったが,あまり流行しなかった。こうした〈公的占星術〉と暦編纂のため,漢代のころから国立天文台が設けられたと思われる。革命によって王朝はしばしば交替したが,国立天文台の制度は清朝まで存続した。こうしたことは他の世界に類例がない。そのため長年にわたる天体現象の観測記録は世界に誇るべきものである。日・月食,太陽の異点,すい星や新星など多方面にわたる天体現象の記録が残されている。《春秋》に〈魯文公十四年(前613)秋七月,孛星(はいせい)が北斗に現われた〉という記事は,有名なハレー彗星に関する世界最古の記録である。また新星は〈客星〉と呼ばれたが,《宋史》天文志に北宋の1054年(至和1)5月に天関星(おうし座Ss星)の近くに〈客星〉が現れたという記事があるが,これは当時出現した超新星である。しかも近年発見された電波星として有名な〈かに星雲〉はこの超新星の900余年後の姿であることが確かめられた。また長年にわたって残された太陽黒点の記録は,炭素14を用いる考古学的遺物の年代決定法の改訂に役立っている。また中国の古文献からオーロラに関する記録を捜し出している学者もある。
中国における星座の知識は《史記》天官書にいたって一応の整理が行われた。宮廷を中心とした官署に倣って星座名がつけられた。恒星位置の測定については現存する《石氏星経》に114星座115個の星の〈入宿度〉〈去極度〉および〈黄道内外度〉が記録されている。前2者は現在の赤経・赤緯にあたるものであるが,〈黄道内外度〉はやや特殊なもので,インド天文学にいう〈極黄緯〉と一致する。これらの数値より逆算すると,現存の《石氏星経》は前70年ごろに〈渾天儀〉によって観測された数値によると思われる。現在は周天を360度に分割するが,中国では1年の端数に等しい数に分割してきた。1年の日数は暦法によって異なり,例えば〈四分暦〉での周天度数は3651/4度である。1973年に発掘された長沙の馬王堆(まおうたい)3号漢墓からの《五星占》によると,秦始皇帝のころすでに度数表示が行われていた。
270年ごろの晋の武帝のときに天文学者陳卓が星座の知識を集大成し,それを星団に描いた。全天の星は283官1464星を数え,古代天文学者の名によって甘徳・石申および巫咸の星に分けられた。これより以前,呉の王蕃は銅製の天球儀をつくった。近年になって貴族の墓の天井に星座の一部を描いたものが多数発見されたが,日本でも1972年に奈良の高松塚が発掘され,その天井に二十八宿と北極の一部が描かれていた。全天(南天の一部を除く)の星座を網羅したものとしては,1247年,南宋の淳祐7年に石に刻まれた〈淳祐天文図〉が有名である。蘇州に現存し,世界最古の星図といえよう。この石刻星団の原図は1190年(紹煕1)のころ黄裳によって描かれたものである。
天文観測に使用された器具としては,古く〈髀〉もしくは〈表〉があり,また時間測定には漏刻が使用された。〈太初暦〉が制定された前104年の前後から〈渾天儀〉によって天体位置の測定が行われた。これは地平環,子午環,赤道環などいくつかの円環を組み合わせ,中心を通る望筒で天体を望み,円環上の度数を読みとるもので,ギリシアのアーミラリー・スフェアarmillary sphere(アルミラ球儀ともいう)に似ている。しかしギリシアでは主として黄道座標が測定されたが,中国では赤道座標に重点が置かれた。現在の望遠鏡は赤道儀式で,赤道座標が測定されており,この点で中国は先鞭をつけたといえる。〈渾天儀〉は中国の代表的観測器で,明代に製作されたものが現存する。元の時代にはイスラム天文学が伝わり,その影響は天文器械の面にみられた。〈簡儀〉がつくられ,また現在河南省告成鎮に残る〈測景台〉はその影響を示すものである。17世紀に入ってイエズス会士がヨーロッパ天文学を伝え,簡単な望遠鏡なども輸入した。また清朝の時代になってフェルビースト(漢名,南懐仁)を中心にヨーロッパ中世風の天文器械をつくったが,これらは北京に現存する。彼は《霊台儀象志》を書き,これらの器械の説明を行った。18世紀半ばの乾隆帝の時代にはI.ケーグラー(戴進賢)は3000個以上の恒星の位置を測定し,《儀象考成》に収録した。しかしイエズス会士は専門の天文学者でもなく,また乾隆帝以降のキリスト教弾圧でイエズス会士の渡来も極度に制限され,やがてヨーロッパ天文学の輸入もとだえるようになった。18世紀の半ばにM.ブノア(蔣友仁)が《坤輿全図》の中でコペルニクスの地動説を記述したことはあったが,ヨーロッパ天文学との格差はしだいに大きくなった。